◆第三十章 真実
慶長十六年(一六一一年)。天下を幾度も震撼させた戦国の梟雄、真田安房守昌幸は、その波乱に満ちた生涯を静かに閉じた。
九度山の真田屋敷では、ひっそりと昌幸の葬儀が執り行われていた。
大罪を犯した蟄居の身であるため、公式な参列者は許されず、家族と近臣のみのごく限られた者たちだけで送る、寂しい野辺の送りになる……はずであった。
「大殿ぉぉ……! わしを置いて、逝ってしまわれるとは……っ!」
大声を上げて人目をはばからず泣き崩れていたのは、浅野家から派遣されていた監視役の番頭・平松弥右衛門であった。監視する側という立場でありながら、いつしか昌幸の懐の深さと飾らない人柄に惹かれ、実の主君のように慕っていたのである。
さらに驚くべきことに、どこから聞きつけたのか、九度山の近隣の農民や、町で真田紐を取引していた商人たちが、手作りの供物や花を携え、次々と屋敷の前に列をなしたのである。
「真田の大殿には、えらいお世話になりましたでな」
「いつも気さくに声かけてくだすって……寂しゅうなります」
気が付けば、屋敷の周囲は昌幸との別れを惜しむ無数の人々で埋め尽くされていた。謀将として恐れられ、生涯を戦陣に捧げた男の最期は、九度山の素朴な人々の温かな涙に包まれた、皮肉なほどに賑やかで愛に満ちた見送りとなったのである。
竹姫や菊、幸村、佐助らは最後の参列者を見送った後、ようやく一息をついた。
「大殿様は、いつも私たちが編んだ真田紐を『天下を縛る逸品じゃ』と、子供のように嬉しそうに褒めてくださいましたわね」
竹姫が目を細めると、菊も手ぬぐいで目元を拭いながら頷く。
「ええ。監視のお侍様たちにも、自ら渋茶を振る舞われたり、よく冗談を言ってからかったり……。本当に、底抜けにお優しい方でございました」
菊が思い出したように続ける。
「竹姫様が真田家に嫁ぐと決まった時、大谷の家の者からは、『表裏比興の者』の息子に嫁ぐ哀れな花嫁、と揶揄されたものです」
「そう!お菊の父君も、共をする娘とは今日で今生の別れと号泣されて……」
四人は釣られて笑みをこぼした。
「我ら忍びの者を、道具ではなく『家族』として扱ってくださった。戸隠の技をあれほど見入り、評価してくださったのも大殿だけです」
幸村が静かに呟くと、佐助も深く頷いた。
皆で昌幸の温かな思い出を語り合いながら、線香を上げようと昌幸の棺が安置されている部屋へ向かうと、そこには、高梨内記が一人棺の前に座っていた。
昌幸が死んでからは一度も顔を見せていなかった。少しやつれた内記の様子に、佐助は声をかけようとしたが、ちょうどその様子を見ていた信繁に、静かに首を振って制止された。
皆を下がらせた後、信繁は静かに襖を閉め、離れた位置に座った。
「大殿……。わしより先に冥途に行かれるとは」
棺を覗き込む内記は、昌幸の頬を撫でた。
内記の掠れた声が、静かな部屋に溶け込んでいく。
「武田の下で、共に御館様(信玄)の奥近習として仕えたあの日々。大殿の初陣となった川中島では、八幡原の深い霧の中、本陣で背中を合わせ、泥と血に塗れながら共に槍を振るいましたな。あの時、大殿は震える手で『内記、わしは生きているぞ』と笑っておられた」
内記の目から、大粒の涙が棺へとこぼれ落ちた。
「京の公家衆の血を引く、美しき山手殿を正室に迎えられた時。わしは自分の事のように嬉しくて、祝言の席で誰よりも号泣してしまい、大殿に『内記の涙で酒が薄まるわ』と大笑いされましたっけな……。武田が滅び、真田の行く末に皆が悲観していた時、大殿の頼もしい言葉ふるまいに、家臣一同が団結して危機を乗り越えた。第一次上田合戦では、徳川の数万の大軍を前にしても、大殿は決して不敵な笑みを崩さなかった。あの神がかった采配、大殿の背中こそが、わしの誇りであり、道標でございました……」
次第に嗚咽が混じる内記の背中を、信繁はただ静かに見つめていた。
「関ヶ原で敗れ、この九度山へ流されても、わしは……大殿と共におられるだけで、幸せでございました。信繁様……」
内記は振り返らずに、絞り出すように言った。
「大殿の背中は、いつも大きく……そして、誰よりも孤独でございました。どうか、どうか大殿の遺された想いを……」
信繁は深く目を閉じ、無言で深く頷いた。
天からは大粒の雨が降り出し、九度山の村を濡らした。
それから時が過ぎ、四十九日の法要の夜。
この日もしとしとと雨が滴る中、参列者が引き上げ、屋敷は静寂を取り戻していた。今日も深酒が過ぎた平松弥右衛門が、番所に横たわり、寝いびきをかいている。
昌幸が他界したことで、浅野家も監視役を二人体制から一人に減らし、弥右衛門は自ら願い出てその役目を引き受けていた。
居間で、信繁はひとり父の位牌と向き合っていた。
そして、その隣に置かれている一通の封書に目をやった。
「よいか、信繁……。この遺言書は、わしの死後、四十九日までは決して開くでないぞ…」
亡くなる二日前に、息も切れ切れになりながら手渡された分厚い遺言書。信繁はここ数日、時折せき込みながらも書斎で必死の形相でしたためている父・昌幸の姿を何度か目にしていた。
信繁がその封を切ろうと手を伸ばした、その時であった。
「……夜分に失礼いたす」
縁側の障子を音もなく開け、人目を忍んで現れたのは、編み笠で顔を隠した大柄な男であった。笠を取ったその顔を見て、信繁は息を呑んだ。
「直江山城守殿……!」
「左衛門佐殿、お久しゅうござる」
「会津から遠く離れたこの地にわざわざ……」
「安房守殿の訃報をお聞きし、昼夜駆けてまいった。……貴殿は少し瘦せられたかな」
面くらった信繁だが、まずは兼続を家の中に招き入れようとしたその折、時を置かずして、もう一人編み笠で顔を隠した中肉中背の男の声が響いた。
「御免くだされ」
同じ会津の客人かと、兼続を顧みる信繁だが、兼続は静かに首を振った。
「拙者、大坂城・豊臣秀頼公が家臣、速水甲斐守守久にござる」
質素な町人の衣に身を窶し、庭先から姿を現したのは、大坂城七手組頭の速水守久であった。
「大坂城の…速水殿!?」
雨は本降りとなり、時折遠くから雷の音が鳴り響いていた。
二人を招き入れ、両者の顔を交互に見ながら、信繁は小さく呟いた。
「今宵は、一体何事でございましょう」
まるで示し合わせたかのように集った二人。彼らは祭壇の横に置かれた手紙を一瞥すると、深く頷き合った。
「おそらくその答えは、その真田安房守殿からの遺言状にありましょう」
傍らでは兼続も頷いている。
「この、父上の遺言状に……」
信繁は、二人に促されるように分厚い遺言書を手に取った。
三人の目の前に置かれた昌幸の遺言状。
信繁は、兼続と守久を交互に見て、うなずく二人の表情を確かめた後、ゆっくりと封を開いた。
『信繁、よく聞け…』
昌幸が語り掛けるように文字は並んでいた。そこに記されていたのは、信繁にとって天地がひっくり返るほどの『真実』であった。
『お前の真の父はわしではない。室町幕府第十三代将軍・足利義輝公。そして母は、「越後の龍」上杉謙信公である』
信繁が絶句したその瞬間。
高野山一帯を震わせるほどの巨大な雷鳴が、夜空を引き裂いた。
◆第三十一章 「決意」に続く




