◆二十九章 安房守の密書
大坂城の奥深く。豪奢な襖絵に囲まれた一室で、淀殿は静かに香の煙を見つめていた。
世間では、彼女を「男を惑わす美貌の悪女」や「ヒステリックな激情家」と噂する者が多い。だが、実際の淀殿は極めて理知的であり、何よりも主従の理と、歴史が紡いできた「権威」と「血筋」を重んじる誇り高き女性であった。
彼女のその誇りの源泉は、亡き夫・豊臣秀吉の威光というよりも、自らの内に流れる「織田」の血脈にあった。天下布武を掲げた偉大なる伯父・織田信長。その後継者たる血を引いているという絶対的な自負が、彼女の背筋を常に凛と伸ばさせていた。
だからこそ、淀殿は徳川家康という男を腹の底から軽蔑していた。
関ヶ原の合戦の折、淀殿は家康の「豊臣の世を守るため、君側の奸である石田三成を討つ」という大義名分を信じていた。だが、結果として家康は豊臣を裏切り、天下の諸大名を己の足元へ傅かせた。
(所詮は、三河の不確かな血筋の田舎侍……。主君筋はあくまで我が子、秀頼にあるというのに)
淀殿の怒りをさらに煽ったのは、慶長八年(一六〇三年)、家康が朝廷から「征夷大将軍」に任命されたことであった。
将軍とは、清和源氏の血を引く者でなければなれぬはずの武家の棟梁である。家康は、いつの間にか自らの系図を書き換え、「徳川は新田源氏の末裔である」などと嘘八百を並べ立て、強引にその地位を掠め取ったと言われている。
それでも淀殿は、大坂城に挨拶に訪れる徳川の使者に対し、事あるごとに念を押させた。
「内府殿が幕府を開かれたのは、あくまで幼い秀頼が成人するまでの『預かり職』。時期が来れば、将軍職は豊臣に返還されるのでしょうな?」と。
家康はのらりくらりと明言を避けていたが、その答えは、最悪の形で示されることとなる。
慶長十年(一六〇五年)。家康は、将軍職をいとも容易く嫡男の徳川秀忠に譲り渡したのである。
それは、「天下の主は未来永劫、徳川の世襲である」という諸大名への強烈な宣言に他ならなかった。
「……っ!」
その報せを聞いた瞬間、淀殿は血の気を失い、その場にどうっと倒れ込んだ。家康が将軍に就任した時よりも、この秀忠への世襲の報せの方が、淀殿の心に致命的な絶望をもたらした。
世の情勢は、残酷なまでに徳川へと傾いていた。かつて秀吉の恩に報いると誓ったはずの恩顧の大名たちも、次々と江戸へ下って徳川幕府に取り込まれ、大坂城を包む「豊臣の世」の威光は、日増しに薄れつつあった。
その大坂の空の下。威容を誇る大坂城を見上げる喧騒の中に、いつもの男装に身を包んだ幸村の姿があった。
九度山から真田紐の商いという名目で大坂へ下ってきた幸村は、編み笠を深く被り、町を行き交う人々の波を縫うように歩いていた。
天下は徳川の世に傾いているというのに、大坂の町は異様な熱気と活気に満ちていた。
全国から集まる物資、豪商たちの蔵が立ち並ぶ堀川、そして派手な小袖を着流して歩く町人たち。そこには、江戸幕府の質実剛健な統制を嘲笑うかのような、豊臣特有の絢爛たる空気が民衆の間には未だに色濃く残っていた。
(これが、豊臣の威光……。いや、戦を知らぬ者たちの享楽か)
幸村は心の中で呟いた。華やかな町並みの合間には、時代に取り残された暗い影が見え隠れしていた。
「真田の若旦那!毎度おおきに!」
馴染みの呉服問屋の店主が愛想よく手を揉んだ。
納めた真田紐の代金を受け取りながら、幸村はさりげなく水を向けた。
「いつも助かっております。……しかし、最近の長屋は随分と物騒な連中が増えたようですね」
店主は声を潜め、顔を近づけてきた。
「ええ、関ヶ原の戦からこっち、お家を取り潰されたり、主君と喧嘩して出奔した浪人衆が、ごまんとこの大坂に流れ着いとりましてな。皆、喰い詰めて、目つきがまるで猛禽のようで…」
店主の口からは、幾つかの著名な名がこぼれ出た。
黒田長政と衝突して筑前を出奔し、乞食同然の姿で巷を流離っているという天下の猛将・後藤又兵衛。土佐一国を失い、今は京の寺子屋で子供に手習いを教えているという長宗我部盛親。そして、宇喜多家改易の後もキリシタン信仰を貫き、身を隠している明石掃部。
「名だたる武将たちが、明日食う飯にも困る有様。徳川様の世は確かに戦がのうなりましたが、あぶれた侍たちにとっては地獄ですわい。皆、心の底では『もう一戦、大坂の右大臣様(秀頼)が旗を挙げてくださらんか』と、血生臭い夢を見とるんでしょうな」
店主の言葉に、幸村は深く頷いた。豊臣の莫大な財力と、徳川に恨みを持つ十万の浪人。この大坂という町は、巨大な火薬庫そのものであった。
問屋を出た幸村は、入り組んだ裏路地の奥にある小さな茶屋へと足を向けた。
薄暗い土間に、僧侶の姿に身をやつした佐助が待っていた。
「幸村様。ご苦労様でした」
先に大坂に潜伏し、情報収集にあたっていた佐助は、周囲に気配がないことを確認すると、椀の茶を啜りながら報告を始めた。
「大坂城内は揺れております。江戸の度重なる無理難題に対し、片桐且元殿ら恭順派が必死に取り成しておりますが、淀の方の怒りは頂点に達しつつあるご様子」
「……いずれ、火が吹くか」
幸村の問いに佐助が頷く。
「ええ。早ければ数年の内に」
その佐助の横顔には、いつにない濃い疲労の色と、消え残る焦燥があった。
「佐助。まだ服部半蔵の行方を追っているのか」
幸村が静かに尋ねると、佐助の目が微かに震えた。
「あれ以来、伊賀の深い闇に潜ったまま、一切の消息が掴めませぬ。半蔵の影を追って江戸や京、伊賀も探りましたが、まるでこの世から消え失せたように……」
佐助の拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられていた。
徳川を陰に日向に支えてきた服部半蔵には、日向を担う表の半蔵と、影を担う裏の半蔵の姿があった。「鬼半蔵」の異名を持ち、徳川家康を支え続けてきた表の服部半蔵正成はすでに他界していた。だが、凜の仇である実働部隊の長・裏の半蔵は依然として行方知れずであった。幸村はそっと佐助の肩に手を置いた。
茶屋を出た二人は、人混みの中、別々の方向に歩き出した。
大坂の町を包む熱気は、やがて来るべき大きな嵐の前の静けさに過ぎないことを、二人は肌で感じ取っていた。
大坂城本丸御殿の奥、淀殿の寝所。
最近寝付けない事が多い淀殿は、この日もただ一人、豊臣の、そして秀頼の行く末を考えていた。
日の本は急速に徳川の世に移り変わっている。挨拶に来る大名の数やその頻度を見れば一目瞭然であり、大坂城の奥深くにいても、その凋落はひしひしと伝わってきた。
父である浅井長政、その後引き取られた柴田勝家の元でも戦火にまみれ、幼い頃から戦の勝敗と隣り合わせで生きてきた淀殿は、心の奥底では理解していた。
亡き夫秀吉がそうであったように、主家を押しやってでも強い者がのし上がるのが乱世の習いである。かつての主家・織田家が豊臣家の家臣となったように、今まさに豊臣家が徳川にそれを求められている。徳川に頭を下げるべきなのだと、頭ではわかってはいるが、心がどうしても納得しない。
戦国の世を誰よりも間近で見てきた淀殿は、誰よりも理解していた。誇りを捨てきれず、無謀な戦いを選んだ者を待つ末路がどのようなものか。
(秀頼……)
淀殿は、秀頼が立派に成長し、天下の采配を振るって世を治めていく未来を夢見てきた。その一心の想いだけで今まで生きてきたのだ。その秀頼が、徳川に跪き、諸大名の列の末座に並んでいる姿など、想像するだけで不憫でならない。
(秀頼は本当に不憫なのか…。私の誇りが邪魔をしているだけではないのか…)
自問自答を繰り返し、何度も寝返りを打っていたその時、一人の男が淀殿の私室に参じた。
「御台様(淀殿)、速水にございます」
豊臣家七手組頭・速水守久である。
「こんな深夜にいかがしたのじゃ」
「紀州・九度山に蟄居中の真田安房守昌幸より、極秘の書状が届きましてございます」
「真田昌幸……?」
「とにかく、こちらを御覧くださりませ」
速水から渡された密書を開いた淀殿の目は、読み進めるうちに驚愕に見開かれた。
「こ、これは…まことの事なのか…」
速水は淀殿に近づき、小声で囁いた。
「我ら豊臣の世を取り戻す事も夢ではございません」
「しかし、にわかには…」
激しい動揺を見せる淀殿の顔を見て深く頷きながら、速水は少し離れた位置に座り直し、私室の外へ向かって声を発した。
「お入り下され!」
すっと音もなく障子が開くと、闇の中から一人の高僧が姿を現した。
「お久しゅうございます。茶々さま」
「……!!」
この夜を境に、大坂城の空気は一変した。
江戸幕府への恭順派は次々と遠ざけられ、豊臣家は家康の要求を撥ね退け、徳川に対して明確な強硬路線へと舵を切っていくこととなる。
◆第三十章 「真実」に続く




