◆第二十六章 金吾中納言の決断
桃配山の家康は、床几から立ち上がり、苛立ちに顔を真っ赤にして扇子を叩き折っていた。
「ええい、なぜ我が軍が押されておるのだ!敵はせいぜい三万であろうが!」
家康は周囲の側近たちに怒鳴り散らした。
「金吾(小早川秀秋)はどうした!松尾山は何をしておる!裏切りの約定はどうなっておるのだ、正純!」
父・本多正信が若い秀忠を補佐するため、家康本陣には息子の正純が近侍していた。
「はっ……何度使者を出しても曖昧な返事ばかりで動きませぬ」
家康の額に、冷たい汗が伝った。もしこのまま小早川が西軍として、松尾山からこちら側に槍先を向けて駆け下りてくれば、徳川はここで潰える。
信長、秀吉の世を耐え忍び、ようやく天下に手が届こうという今、ろくに戦も知らぬ小倅に自らの命運を握られる事になろうとは。
「金吾め……」
家康は松尾山の山頂を睨みながら爪を噛んだ。
一方、松尾山の小早川陣営。
「見よ!西軍が押しておるではないか!今我らが駆け下りれば、勝利は間違いない!」
小早川秀秋は眼下の様子を指さして叫んだ。
「馬鹿な事を申されるな!」
「内府殿との約定にござるぞ!」
家老の稲葉正成と平岡頼勝がすかさず諫めるが、思わぬ西軍の優勢に、彼らの心にもかすかな迷いが生じていた。
その小早川の不気味な沈黙を、最も警戒していたのが大谷吉継であった。
松尾山の麓で、重い業病に侵されながらも輿に乗って采配を振るう吉継は、押し寄せる藤堂高虎らの軍勢を死物狂いで跳ね返していた。
そのような中でも、吉継の白濁した目は常に背後の松尾山を睨み続けていた。
思わぬ劣勢に焦った家康は、前線の黒田長政に小早川裏切りの督促の使者を出した。
「黒田殿、小早川の儀、いかがたるや!」
徳川の使番の証である「五」の字の旗指物を背負った伝令が詰め寄る。
眼前を矢や鉄砲の弾が飛び交う最前線で指揮をする長政は、語気を強めて怒鳴り返した。
「戦が始まれば、眼前の敵に全力で挑むまで!このまま金吾が動かねば、我が隊は敵を蹴破りし後、そのまま松尾山に駆け上り、金吾の首を引っ提げて御覧に入れるまで!そう内府殿に伝えよ!」
そういって、目の前に飛んできた矢を刀で弾き飛ばした。
「長政め!」
報告を受けた家康は床几に腰を掛け考え込んだ。
少しの間を置いた後、家康は本多正純に命じた。
「急ぎ百名ほどの兵を集めよ!鉄砲もじゃ!」
大谷吉継の本陣。
「我ら西軍は、宇喜多、小西隊を中心に、大いに優勢!」
伝令の声に、吉継の本陣は大きな歓声が覆った。
吉継の与力として配されていた脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座保直ら四将も顔を揃え、伝令の声に、それぞれ顔を合わせ頷き合っている。
目が見えない吉継は、近侍する湯浅五助に尋ねた。
「五助。松尾山はどうじゃ」
「未だ静まり返っております」
吉継は、四将に振り返り言った。
「宇喜多殿、小西殿の隊が勝ちに乗じて敵陣奥深くに入り込み、戦線が伸びきった頃が一つの山場となろう。各々方、手筈通り松尾山への備えを厳としつつ、抜かりなきようよろしくお頼み致す」
「お任せあれ!」
四将は、それぞれの部隊へと戻っていった。
その去り行く後ろ姿を、吉継は見えない目でじっと見つめていた。
正午を過ぎた頃。
「福島らは一体何をしておるのだ!」
一向に勝機を見いだせないばかりか、徐々に押し込まれ、時折鉄砲の流れ弾も届くようになってきた。
その分、敵の先鋒隊は本陣からは大きく離れ、戦線は縦に伸びきっていた。百戦錬磨の家康は、今この瞬間に敵の横っ腹を突けば、一気に崩れる事を本能的に理解している。
家康は、用意させておいて百名ほどの本陣の鉄砲隊を松尾山の麓に進め、山頂に向かって一斉に銃弾を放たせた。
威嚇である。
「放てーっ!」
百丁あまりの鉄砲が一斉に轟音を轟かせた。
弾が山頂に届く距離ではないが、その轟音は山々にこだまし、山頂にいる秀秋他、重臣らの腹に響いた。
「内府殿がお怒りじゃ」
「殿、覚悟を決められよ!」
人質も差し出している二人の家老は、この威嚇の銃声に度肝を抜かれた。
秀秋は、ついに心を決め立ち上がった。
「あい分かった!」
内府は我々を敵とみなした。であれば徳川本隊に向けて駆け下りるのみ。それで大勢が決する。
「全軍用意は良いな!」
「オー!」
秀秋の声に、一万五千の将兵の返事が山を揺るがすようにこだまする。
「全軍一気に山を駆け下りよ!」
秀秋が軍配を振り下ろそうとした、その時。
「徳川内府の本陣を‥‥」
秀秋の声を掻き消すように、家老・稲葉の怒号が響き渡った。
「おう!下知は下された!敵は眼下の大谷隊!突撃せよ!」
「オー!!」
事前に言い含められていた稲葉直属の部隊が、大谷隊に向かって突撃を開始した。雪崩を打って小早川の全軍一万五千が後に続く。
「馬鹿な!敵は内府……ッ」
「殿、よくご決心なされましたな!」
平岡は安堵の表情で一礼し、持ち場に戻って行った。稲葉も一礼し、その後に続いて本陣を離れた。
(稲葉、平岡、きさまら……)
秀秋は悟った。
全軍が山を駆け下りていく土煙を見て、もはや軍を止める事は不可能であると。事ここに至っては、裏切りの汚名を甘んじて受け入れ、東軍として戦い抜くしか道はない。
秀秋は悔し涙を目に浮かべながら、力なく床几に腰掛けた。
「殿!つ、ついに小早川が動きましたぞ!」
正純の声は上ずっていた。
家康は、西軍に向かい山を駆け下りる一軍を見て、ようやく安堵の表情で床几に腰掛けた。
(勝った……)
「オー!!」
家康の本陣では歓喜の歓声が沸き上がった。
殺到する小早川軍を前に、吉継は少しも怯まず自軍を反転させた。
「やはり来たか、人面獣心の輩めが!」
死を覚悟した大谷勢の凄まじい反撃により、小早川勢を三度まで山の半腹へ押し返してみせた。
事前に言い含められていたとはいえ、それは稲葉の兵の一部。末端の兵たちは、自らは西軍であり戦う相手は徳川率いる東軍と思い込んでいた。上官に指示に従って駆け下りているが、動揺は少なからずあった。
「裏切り者の末路は地獄ぞ!」
「末代まで恥じるがよい!」
連呼される「裏切り者」の罵声。
死を覚悟した、わずか千の大谷隊の一糸乱れぬ戦ぶりが相対し、一万五千の小早川隊は完全に押し込まれていた。
「戦況、変わらず!!」
悲壮な叫びが家康本陣内を駆け巡る。
「ば、馬鹿な……!!」
正純は信じられぬ様子で、自ら高台に上り戦況をうかがった。
日が高く登り始める中、家康軍は予想外の苦境に陥っていた。
◆第二十七章 「脱出」へ続く




