◆第二十五章 激闘!天下無双の鬼神
深夜。大坂城下、増田長盛屋敷。
「増田さま…」
寝所に忍び込んだ幸村は、行燈の灯りで手紙を書いている長盛の背後から声をかけた。
「石田治部様からの遣いで大垣城から参りました」
そういって、長盛の傍に左近から預かった密書を置いた。
優しさがにじみ出る温和な表情で振り返った長盛は、密書を手にして読み終えてから言った。
「ここはもう、誰が敵で誰が味方もわからん。あちこちに敵味方の目が光っておる。今から伝える事を石田治部と大谷刑部に申し伝えよ」
西軍の本拠地である大坂城がすでにそのような有様であることに驚きを隠せなかった。だが、その後に続く言葉に驚愕した幸村は、急ぎ大垣城へと引き返した。
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日。
美濃国・関ヶ原は、深い朝霧に包まれていた。
視界を白く染め上げる霧の中で、両軍あわせて十五万を超える大兵力がお互いの息遣いを探るように対峙している。
張り詰めた静寂を破ったのは、午前八時頃、霧が薄れ始めた瞬間に轟いた東軍・井伊直政隊の銃声であった。
三成憎しの想いで先鋒を任されていた福島正則は、この井伊直政隊の抜け駆けに烈火のごとく激怒した。
「井伊の奴らに手柄を奪われるな!全軍、突撃せよ!」
天地を揺るがすその怒号を合図に、天下分け目の大戦が幕を開けた。
布陣の形を見れば、西軍八万、対する東軍七万。西軍が東軍をすり鉢状に包み込む、圧倒的に有利な陣形であった。
だが、実態は違った。徳川方の周到な事前調略により、南宮山の毛利・吉川勢はおろか、松尾山に陣取る一万五千の小早川秀秋までもが沈黙を保っていた。実際に戦端を開いた西軍は、宇喜多、小西、大谷、石田らわずか三万余りに過ぎなかったのである。
家康は桃配山の本陣で床几に深く腰掛け、余裕の笑みを浮かべていた。
「たかが三万。我が精鋭が半刻も無造作に踏み潰せば、あとは算を乱して逃げ散るのみよ」
家康は勝利を確信していた。
だが、その目論見は開戦直後から大きく外れることとなる。西軍の士気は、家康の想像を絶するほどに高かったのだ。
「豊臣のご恩に報いるは今ぞ!進め!」
西軍最大の兵力を誇る宇喜多秀家の一万七千が、東軍の先鋒である猛将・福島正則隊に襲いかかった。戦線の要所で采配を振るうのは、宇喜多家の客将にして熱心な切支丹である明石掃部(全登)である。
「主の御加護は我らにあり。恐れるな、打ち砕け」
明石掃部は十字架の旗印の下、冷徹なまでの正確さで鉄砲隊を操り、福島の突撃を次々と粉砕していく。怒り狂う福島軍が何度押し寄せようとも、明石の統制された反撃の前に屍の山を築くばかりであった。
一方、激戦の最前線から少し離れた場所に陣を敷く島津義弘の部隊は、異様な空気を放っていた。
彼らは西軍でありながら一歩も動かず、ただじっと嵐の中に座り込んでいる。先日来、三成と作戦の方針でぶつかった義弘は、自軍の陣から動かぬ独自の行動を宣言していたのである。
東軍の雑兵たちが「手薄な陣があるぞ」と功名心から島津の陣へなだれ込むと、次の瞬間、無言で立ち上がった島津の屈強な兵たちが野太刀を一閃。血飛沫が舞い、東軍の兵たちは悲鳴を上げる間もなく叩き斬られた。
島津兵は目の前に来た敵だけを機械のように払いのけ、終わると再び無言で陣に座り直した。その不気味な強さに東軍の兵たちは底知れぬ恐怖を覚え、二度と近づこうとはしなかった。
そして、笹尾山の石田三成の本陣前。
ここには、黒田長政、細川忠興ら東軍の主力が怒涛の如く殺到していた。黒田軍の最前線では、豪槍で知られる猛将・後藤又兵衛が、凄まじい雄叫びを上げて西軍の陣柵を突き破ろうとしていた。
「我こそは後藤又兵衛!石田治部の首は俺がもらう!」
自慢の十文字槍を竜巻のように振り回し、石田勢の兵を次々と宙に舞わせる又兵衛。
だが、その前に、朱色の甲冑を纏った一人の巨漢が、地鳴りのような足音と共に立ち塞がった。島左近である。
「吠えるな若造! この左近が相手になるわ!」
「おお、これは『三成に過ぎたるもの』、島左近殿か!大きな獲物が現れたものじゃ!」
又兵衛は、かつて左近がそう揶揄されていた事を持ち出し、好戦的な笑みを浮かべて軽口を叩いた。
だが、次の瞬間、又兵衛の表情は驚愕に凍りついた。
左近の手にある身の丈を越える重厚な大薙刀が、風を裂いて迫り来る。又兵衛が十文字槍を交差させて受け止めた瞬間、腕の骨が軋み、両手にビリビリと痺れが走った。
(な、なんだこの尋常ならざる重さは……!)
左近の振るう大薙刀は、まさに鬼神の如き威力を秘めていた。又兵衛の鋭い死角からの突きをいとも容易く柄で弾き返し、間髪入れずに強烈な反撃を見舞う。さしもの豪傑・又兵衛も、その圧倒的な重圧と技量に顔を歪め、一歩、また一歩と後退を余儀なくされた。
「まだまだァ!」
体勢を立て直し、十文字槍を繰り出して左近に挑む事十数度。だが、まるで動く鉄の城壁と戦っているかのように、悉くはじき返される。
「そんなものか、後藤又兵衛!」
左近の怒号と共に大薙刀が一振りされるごとに、周囲にいた数人の黒田兵が血を噴き上げながらまとめて弾き飛ばされる。気づけば又兵衛の周りの兵たちは一蹴され、彼だけが死体の山の中で敵陣に孤立していた。
返り血を全身に浴びて瞳を爛々と輝かせ、ゆっくりと近づいてくる左近を見て、さしもの後藤又兵衛も死の恐怖を覚え、冷や汗と共に退却を命じた。
「退け、退けえっ!」
逃げ惑う又兵衛たちを追い、左近は自ら先陣を切って東軍の只中へ一人で斬り込んでいく。血塗られた大薙刀を軽々と振るい、次々と首を刎ねていく修羅のような姿に、黒田や細川の歴戦の精鋭たちですら恐怖に駆られ、悲鳴を上げて道を空けた。
そこへ、一人の立派な甲冑を着た東軍の武将が馬を乗り進めてきた。
「ええい、怯むな! 我こそは内府公が直臣、奥平貞治なり!島左近、見事討ち取ってくれる!」
「奥平殿、やめておけ!あれは化け物じゃ!」
又兵衛の必死の制止も聞かず、奥平貞治は槍を構え、馬を真っ向から駆けさせた。
「名乗りは立派だが、腕が伴っておらんわ!」
左近は迫り来る馬の脚を長刀で薙ぎ払うと、落馬して宙に浮いた奥平を、袈裟懸けに一刀両断した。一瞬の出来事であった。名のある勇将があっけなく両断された大惨状に、東軍の兵たちは完全に戦意を喪失した。
「ば、化け物だ……!」
「逃げろ!殺されるぞ!」
圧倒的な島左近の武威の前に、数万を誇る東軍の包囲網は雪崩を打って後退し始め、関ヶ原の戦局は完全に西軍の優勢へと傾きつつあった。
◆第二十六章 「金吾中納言の決断」へ続く




