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◆第二十四章 暗雲の関ヶ原

 美濃国・大垣城。

 西軍の主力が集結するこの城には、雨の湿気をも上回る、独特の重苦しい空気が漂っていた。

 総大将である毛利輝元が豊臣秀頼を伴って着陣し、全軍の士気を高めるはずであった。だが、いつまで経っても大坂城から動く気配がなかったのである。

 西軍は「豊臣公儀の軍」としての絶対的な大義を欠き、精神的な支柱を失ったまま家康と対峙しようとしていた。


 その頃、大坂城の奥深くでは、毛利輝元が激しく地団駄を踏んでいた。

「ええい、離せ!なぜわしが出馬してはならぬのじゃ!総大将たるわしが関ヶ原へ行かねば、将兵の士気が保てぬであろうが!」


 輝元は甲冑を身に纏い、自ら陣頭指揮を執るつもりだった。しかし、彼の出馬を体を張って断固として阻止したのが、毛利一族の重鎮である吉川広家であった。


「なりませぬ!大将たる者、軽々しく前線へ動くべきではありませぬ。殿はここ大坂に留まり、秀頼公をお守りくだされ!」

 広家はそう言って、有無を言わさず輝元を大坂に留め置いた。


 だが、広家の真の目的は別にあった。彼はすでに裏で徳川家康の腹心・本多正信らと内通しており、「毛利は本戦では一切戦わぬ」という密約を交わしていたのだ。西軍の総大将は、身内によって事実上の軟禁状態に置かれていたのである。

 さらに悪いことに、最前線の大垣城内には、見えない綻びが無数に生じていた。


 夜半。石田三成の陣幕に、足音を忍ばせて島左近が入ってきた。その顔はこれまでにないほど険しい。


「殿。松尾山に陣取る小早川秀秋の陣中に、徳川の手の者が頻繁に出入りしておりまする。あの若造、内府と通じて裏切る腹積もりに相違ありませぬ。戦が始まる前に、私の手勢で松尾山へ乗り込み、小早川を斬りましょうか」

 左近の諫言にも、三成は首を横に振った。


「馬鹿なことを申すな、左近。いくさの前に味方を疑い、同士討ちを行うなどあってはならぬ。金吾(小早川)殿も豊臣の一門。秀吉公の御恩を思えば、必ずや大義に殉じてくれるはずだ」

 三成の、あまりにも潔癖すぎる言葉。戦国の泥水を飲んできた左近からすれば甘すぎる判断だったが、それこそが三成という男の美しさでもあった。


「……承知仕った」

 左近は自らの命を捨ててでもこの主君を守り抜く、そう覚悟を決め陣幕を出た。

 そこに静かな声が掛かった。

「治部はああいう男だ。不器用なほどに『義』を信じておる」

 輿に乗った白頭巾の将――大谷刑部少輔吉継であった。重い病に侵され、顔を白い布で覆い隠した名将である。

「刑部殿……」


「お主の憂いはもっともだ。小早川の裏切りへの備えは、この吉継が引き受けよう。我が手勢を松尾山の麓に配置する。万が一あの若造が山を下りてくれば、この吉継が命に代えても食い止める」

「かたじけない……」


 ふと、左近は吉継の傍に、小姓姿に身を窶した幸村が控えているのに気付いた。

「おお、そなた、幸村殿ではないか!どうしてここに?」

「義父殿をお支えせよと、信繁様より……」

「左様か、それは心強い!ならば、ひとつお願いがござる」

 左近は幸村に、大坂城に残る増田長盛を訪ねるよう頼んだ。一向に動く気配のない大坂城の様子を探り、一刻も早く秀頼様の出馬を説き伏せてもらいたい、という事であった。


「そなたの脚力なら、一両日中には大坂城に到着しよう。そしてその様子を細やかに知らせてもらいたい」

 幸村は吉継が頷くのを見て、すぐさま闇に紛れ、西へと駆けだした。


 その姿を見送りながら、左近は言った。

「奥州の上杉殿も、信州の真田殿も、内府の動きに翻弄されておる。見事なまでに連携に綻びが生じておりますな」

 左近の嘆息に、吉継も遠く信濃の空を見つめた。


「ああ。だが、真田の親子なら必ずや秀忠の大軍を足止めしてくれよう」

 吉継は、愛娘の夫である信繁の顔を思い浮かべた。

(信繁殿……死ぬなよ。お主はここで死ぬべき男ではない。次の時代をつくる男だ)



 一方、疑惑の渦中にある松尾山の小早川陣営。

 降り頻る雨の中、陣幕の外には石田三成からの使者がやって来ていた。

「治部少輔様より、明日の陣立ての儀につき、小早川様へ急ぎお伝えしたき儀が……」


 だが、その使者の行く手を、小早川家の家老である稲葉正成と平岡頼勝が冷たく遮った。

「殿はご気分が優れぬ。陣立てはこちらで決めるゆえ、治部殿にはそうお伝えして急ぎお帰りあれ」


「しかし……!」

「お引き取りを!」


 家老たちに強く凄まれ、使者は無念そうに踵を返した。三成からの使者が追い返されるのは、これで何度目だろうか。

 そのやり取りを陣幕の中で聞いていた若き当主・小早川秀秋は、たまらず外へ飛び出した。


「なぜ治部からの使いを追い返した!わしを蚊帳の外に置く気か!」

 血相を変えて詰め寄る秀秋を、稲葉と平岡は周囲の目を憚るように陣幕の中へ押し戻し、声を潜めて事実を告げた。


「殿、もはや西軍に勝ち目はござらん。大坂の毛利本家も、吉川殿も、南宮山の毛利秀元殿も、すでに裏で内府公と通じておりまする。明日の戦、毛利は一切動きませぬ」

「は……?毛利本家が、内府と……?ばかな……」

 秀秋は愕然とし、よろめくように床几に腰を下ろした。西軍の総大将の毛利家ですら、すでに家康の巨大な調略の網に絡め取られていたのである。


「わ、わしは……わしは太閤殿下に育てられた豊臣の一門じゃ!我が身には豊臣の血が流れておる!毛利がどうであろうと、わしは断固として西軍として戦う!」

 秀秋は刀の柄を固く握りしめ、震える声で吠えた。彼は生真面目で、秀吉への恩義を誰よりも純粋に信じている青年であった。だが、戦国の世を生き抜いてきた家老たちは、そんな若き主君の感傷を容赦なく打ち砕いた。


「なりませぬ! 他の諸将もすでに石田治部を見限っております。我らもすでに黒田長政殿を通じて、内府公より本領安堵の確約を得ておりまする。ここで西軍につけば、小早川家は滅亡いたしまするぞ!」

「主君一人の感傷で、三十万石を越える小早川の名門を、そして数多あまたの家臣たちを路頭に迷わせるおつもりか!」

 稲葉と平岡の鋭い言葉が、秀秋の胸に突き刺さる。


 小早川軍一万五千――。それは、関ヶ原という盤面において、戦局を決定づけるほどの巨大な戦力であった。自分が動けば、天下が動く。その圧倒的な重圧に、秀秋は押しつぶされそうになっていた。


「ええい、わしは内府を討つ! 離せ!」

 立ち上がろうとする秀秋を、家老たちが両側から強く押さえつける。

「お戯れはお止めくだされ!」

 秀秋は涙を流し、悔しさに地団駄を踏んだ。



 九月十四日、夜。

 家康本軍が目と鼻の先にある赤坂に着陣したとの報を受け、西軍主力は大垣城を密かに出発した。

 目指すは決戦の地、『関ヶ原』である。


 激しい雨の中、泥濘ぬかるみを行軍する無数の足音だけが闇に響く。

 それぞれの野望、義、そして裏切りをその胸に抱えたまま、男たちは運命の朝へと向かっていた。



 ◆第二十五章 「激闘!天下無双の鬼神」へ続く


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