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◆第二十七章 脱出

 幸村は、夜通し駆け続け、一路東海道を東へ急いでいた。

 陽が徐々に高くなり始めた頃、草津あたりで、東西両軍が関ケ原で激突したという話が、逃げ惑う町人たちの口から飛び交っていた。 

 頭の中に、昨夜の増田長盛の言葉が繰り返される。


「治部は純粋な男ゆえ考えてもおらんじゃろうが、此度の戦、毛利は動かない。小早川は家老らが調略されておる」

「……!!」

 幸村の顔がこわばる。

「だが、そこまでは刑部は読んでおろう。しかし、本当の獅子身中の虫は、刑部の傍にいる脇坂らじゃ。奴らにもすでに内府の手が伸びておる。刑部にそれを伝えてやってほしい」


(急がねば……)

 信繁から頼まれた。「義父殿をよろしく頼む」と。

 幸村は逸る心を抑えきれず、休まず駆け続けた。


 その頃、関ヶ原の戦場では、小早川秀秋の「裏切り」が戦局を大きく揺るがしていた。

 眼下の大谷隊に向かって雪崩れ込んでいく自軍を、秀秋は松尾山の山頂の本陣から、ただ呆然と見下ろしていた。

(亡き太閤殿下に顔向けができん……。太閤殿下に……)


 意に反して裏切り者の汚名を一生背負うことになった小早川秀秋の頬を、後悔と悲哀の涙が伝い落ちていた。床几に腰を掛け、泣きながら亡き太閤の名前を呟き続ける秀秋に、近習達は声を潜めていた。


 一方、大谷隊が必死で小早川の一万五千の兵を防いでいる間、大谷陣営の隣に陣取る脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座保直ら四将、計五千の兵は不気味な沈黙を守っていた。


「なぜ、脇坂殿らは動かれんのじゃ!」

 吉継の近習・湯浅五助が大声で叫んだ。

(やはり、彼らにも調略の手がのびていたか……)

 吉継が小さく呟くと同時に、沈黙していた四将らの兵が一斉に槍先を返し、大谷隊の背後へ向かって突撃を開始した。


「おのれ、脇坂!!」

 大谷勢は「裏切り者を許すな!」「末代まで呪ってやるわ!」と血濡れの槍を振るい、三度までも押し返したが、多勢に無勢。精鋭たちも次々と討ち取られていく。


「もはや、これまでか……。五助、我が醜い首を内府に渡すな」

 吉継は側近の湯浅五助にそう命じると、輿の上で佇まいを直し、東の方角を向いた。


(左衛門佐殿……、すまぬ。後は頼んだぞ)


 そう呟いた後、腹を一文字に掻っ捌いて自刃した。友の義に殉じた名将・大谷吉継の壮絶な最期であった。

 湯浅五助は、介錯した主君の首を抱え、戦場を離脱。東を見渡せる丘の上にその首を丁重に埋めた後、主君の首の場所がわからぬよう、離れた場所に移動し、自死した。



 同じ頃、遠く離れた信州・上田城の奥屋敷。

 信繁の正室であり、吉継の娘である竹姫の膝元には、小ぶりな白磁の茶碗が置かれていた。それは、彼女が真田家に嫁ぐ際、父・吉継から贈られた品であった。


 ふと、部屋にわずかな隙間風が吹き込んだ。竹姫が茶碗を木箱へしまおうと手に取った、その瞬間だった。


 ピシリ、と。


 何の力も込めていないにもかかわらず、白磁の茶碗に細い亀裂が走り、次の瞬間、手の中で二つに割れて畳の上に落ちた。

 乾いた甲高い音が、静寂の部屋に響く。

「あっ……」

 割れた茶碗の破片を見つめる竹姫の胸に、突如として氷のような悪寒と、身を引き裂かれるような悲しみが押し寄せてきた。


「父上……」

 止めどなく溢れる涙が畳を濡らした。竹姫は優しい父の魂が今、天へと旅立ったことを静かに悟ったのだった。病で先は長くない、そう覚悟はしていたが、武士らしく戦場で散ったのなら、父にとっても本望であったろう。

 そう思いながら、竹姫は割れた茶碗の破片をひとつずつ拾い集めた。



 大谷陣崩壊の報は、善戦していた西軍の戦線を無惨に引き裂いた。宇喜多勢も小西勢も、横から雪崩れ込んでくる裏切り者の大軍に呑み込まれ、次々と瓦解していく。


 その頃、東軍の黒田長政は、後方に控える己の本陣で馬上にまたがり、小早川、脇坂らの寝返りを見届けて高笑いしていた。

「見よ!金吾も脇坂らも、我が事前の調略通りに動いたわ!これで天下は内府様のものぞ!」

 長政の知略が、西軍を内側から食い破っていた。


「殿!大谷、小西が崩れました!残るは笹尾山の石田本陣のみ!」

 黒田長政に報告に駆けつけたのは、黒田家筆頭家老であり血気盛んな猛将・後藤又兵衛である。

「又兵衛!手柄首じゃ!治部の本陣へ殺到し、一人残らず叩き潰せ!」

「応ッ!!」

 又兵衛は自ら精鋭部隊を率いて笹尾山へと向かった。


 笹尾山の三成も、恐慌状態に陥っていた。

「おのれ、金吾め……!!私が前線へ出る!目にもの見せてくれよう!」

 決死の突撃を敢行しようとする三成の前に、前線から駆け戻ってきた血塗れの島左近が立ちはだかった。

「なりませぬ!殿らしくもない!」

「退け、左近!私だけが逃げることなどできぬ!」

「義など、死んでしまえばそれまでです!」

 左近の怒号が響く。

「生きて、這いつくばってでも豊臣の世を取り戻す。それが真の『義』!ここは、この泥まみれの左近にお任せあれ!」


 不器用で純粋すぎる己を、誰よりも理解してくれる男の言葉に、三成は涙を溢れさせた。

「くっ……、すまぬ、左近」

「殿との時間、楽しゅうござった」

 左近の手を握って、三成は言った。

「左近、死んではならんぞ!」


 左近は笑顔で頷き、三成が伊吹山方面へ落ち延びる時間を稼ぐため、残る手勢を振り返り、狂気じみた笑みを浮かべた。

「さて、鬼の左近の戦ぶりを、内府の目にしかと焼き付けてやろうぞ!」


 島左近の最期の突撃は、凄絶を極めた。

 殺到する後藤又兵衛率いる黒田勢と激突。無数の矢を浴び、銃弾に肉をえぐられながらも、又兵衛の槍を弾き返し、精鋭たちを次々と薙ぎ払いながら、徳川家康の本陣近くまで肉薄する。だが両足も満足に前に出ず、その最後の勢いもいよいよ途絶えようとしていた。


 敵ながら天晴な武者振りに、又兵衛も感服した。

 最後は武士らしく葬らんと、又兵衛自ら左近の前に出た。


「おお、又兵衛か!……もしや、冥途の供をしにきてくれたのかのう」

 すでに立っているのがやっとの状態の左近は、息を切らせながら、最後の力を振り絞り、柄の折れた槍を振りかざした。


「参る!」

 二、三度槍をぶつけ合った後、左近の手から槍が離れた。


「島左近。お覚悟!……」


 そう叫んだ又兵衛の声は、黒田鉄砲隊の一斉射撃により搔き消された。


「!?」

 又兵衛が振り返ると、長政は冷ややかに鼻を鳴らした。


「又兵衛。戦は槍の腕ではない。調略と采配の妙よ。武辺者気取りは時代遅れぞ」

 その言葉に、又兵衛はギリッと奥歯を噛み締めた。

 かつて黒田如水の下で共に戦場を駆け回った誇りは、長政のあまりにも合理的な冷酷さによって傷つけられた。この日、黒田の武を支える又兵衛の心に、長政との決定的な亀裂が走っていた。


 左近は遠く石田本陣を振り返った。すでに三成が退却した事を確認すると、満足げな笑みを浮かべ、血溜まりの中へどうっと倒れ伏した。


 左近の首を徳川には渡さじと、残った兵たちが大柄な左近の体を抱え起こし、自らが盾となって庇いながら後退し始めた。


「…わしの事は構うな!お主らもここを落ち延びよ……っ!」

 瀕死の状態で兵たちを振り払おうとする左近だったが、誰一人としてそこを離れようとしない。しかし、圧倒的な数の東軍が押し寄せ、その一団も乱戦の中で次々と倒れていく。


 桃配山の家康本陣。

「大御所様! 大谷隊壊滅、石田の本陣も陥落いたしました! 我らの勝利にございます!」

 本多正純が歓喜に声を震わせた。父・正信が不在の中、この大戦を補佐しきった安堵がその表情にあった。

 だが、床几に座る家康の目は、冷徹な天下人の輝きを放ったままであった。

「騒ぐな、正純。治部の首を見るまでは戦は終わらぬ。追討の兵を放て」

 そう命じた家康は、眼下に広がる血に染まった関ヶ原を見渡した。豊臣の世を終わらせ、自らが日の本の頂点に立つ。乱世の業をすべて飲み込む、圧倒的な支配者の顔がそこにあった。


 山中深くへと追手を払いながら逃げていた左近の兵たちも、一人、また一人と討ち取られ、ついに最後の一人が息絶えた。左近も完全に力尽き、地べたに這いつくばった。

 荒い息を吐く左近を、追いついた五人の東軍兵が取り囲み、無情にも槍先を突きつける。

(もはや、これまで……)

 左近がゆっくりと目を閉じた、その瞬間だった。


 一瞬にして、五人の兵の喉笛から鮮血が噴き出し、声を発する間もなくすぐ横へ崩れ落ちた。左近の傍らに、血塗れの短刀を鞘に納め、音もなく片膝をついた影があった。


 大坂から急ぎ戻ってきた、幸村であった。

「……幸村殿……」

 そう呟くと左近は安心したように、意識を失った。夕闇が迫る中、幸村は左近の巨体を背負い、死臭の漂う戦場から幻のように消え去った。


 十五万の大軍が激突した天下分け目の大戦は、幾重もの裏切りと野望の果てに、わずか一日で幕を閉じた。


 ◆第二十八章 「九度山の陽だまりと影」に続く


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