◆第二十一章 巨星墜つ
慶長三年(一五九八年)八月十八日。
ついにその時は訪れた。
天下人・豊臣秀吉、薨去。享年六十二。
辞世の句は、あまりにも儚く、そしてこの世への未練に満ちていた。
『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢』
天下人の死は秘匿とされたが、京の町には、早馬の蹄の音よりも早く、凶報が風のように駆け抜けた。
醍醐寺三宝院の門跡・義演の日記『義演准后日記』には、その死を悼みつつも、天下の行方を案じる不安が記されている。
豪商たちの間でも、密やかな安堵と、新たな混乱への恐れが交錯した。朝鮮出兵という終わりのない泥沼から解放される喜びと、秀次事件以降、暗雲が垂れ込めていた豊臣政権の先行きへの危惧である。
伏見城の奥、病床にあった秀吉の最期は、かつて日輪と呼ばれた英雄の姿ではなかった。
痩せ衰え、骨と皮ばかりになった一人の老爺が、ただひたすらに涙を流し、懇願していたのである。
「秀頼を……秀頼を頼む……くれぐれも、頼む……」
五大老筆頭の徳川家康、そして秀頼の後見役を託された前田利家の手を、秀吉は交互に握りしめた。その手は枯れ木のように震えていた。
秀吉は自らの死後、家康の野心が牙をむくことを本能的に恐れていた。だからこそ、家康に対抗しうる人望と実力を持つ前田利家を大老に加え、双璧とすることで均衡を保とうとしたのだ。
「家康殿……そなたを信じておるぞ……」
「ははっ、この家康、命に代えましても秀頼君をお守りいたしまする」
家康は畳に額を擦り付け、声を震わせて落涙してみせた。その背中は悲しみに打ちひしがれているように見えたが、伏せた目の奥には、冷徹な光が宿っていた。
秀吉の瞳から光が消えた瞬間、家康の心の中で、喪失感よりも先に、新たな時代の計算盤が弾かれ始めていたのである。
秀吉の死後、その遺言に従い、幼い秀頼と母・淀殿は大坂城へと移った。難攻不落の巨城こそが、豊臣の威光を守る最後の砦とされたからである。
対して、家康は伏見城に残った。
政治の中枢である伏見を掌握することで、実質的な天下の采配を振るうためである。
そして、家康の本性はすぐに露わになった。
太閤の喪も明けやらぬうちに、大名間の婚姻を禁じた遺命を破り、伊達政宗や蜂須賀家政ら有力大名との縁組を次々と進めたのである。
さらに、朝鮮の役で疲弊した武将たちに対し、恩賞や領地の加増をちらつかせ、自らの派閥へと取り込んでいった。
「内府殿! これは太閤殿下の遺命に背く行為にございますぞ!」
石田三成ら五奉行は、家康の専横を激しく糾弾した。
問い詰める増田長盛に、家康は悪びれる様子もなく、のらりくらりと答えた。
「何を申される。すべては天下の静謐のため。大名たちの不満を和らげ、世を安定させることこそ、太閤殿下への供養であろう」
「詭弁じゃ! それは豊臣を蔑ろにし、徳川の天下を作ろうとする野心ではないか!」
「人聞きの悪いことを……。わしはただ、老骨に鞭打って働いているだけじゃよ」
長盛の正論は、家康の厚顔無恥な政治力の前では無力だった。武断派の大名たちは、「口うるさい奉行」よりも「利益をくれる家康」になびき始めていた。五奉行の中でも家康と裏でつながっている者もいるかもしれない。
こうなることを予期していた三成は、同席しながらも苦渋に沈黙するほかなかった。
三成に残された最後の希望は、大納言・前田利家であった。
家康と互角に渡り合える唯一の人物。彼さえいれば、家康の暴走を止められるはずだった。
まだ秀吉が存命だった頃、病床に伏していた利家を家康が見舞った際、利家は抜き身の太刀を布団の下に隠し、家康を刺し違える覚悟で待ち構えていたという噂さえ流れた。
だが、慶長四年。その「頼みの綱」も、寿命には勝てなかった。
死の床にある利家のもとへ、再び家康が見舞いに訪れた。三成は固唾を飲んで見守った。今こそ、利家様が家康に釘を刺し、豊臣への忠義を誓わせる時だと。
しかし、痩せ細った利家の口から出た言葉は、三成を絶望させるものだった。
「内府殿……及ばずながら、この利家、太閤殿下の御恩に報いんと努めてまいったが……もはや、これまでじゃ」
「大納言殿、気弱なことを……」
「……我が亡き後、加賀の前田家と、倅・利長のことを、よしなに頼み申す」
利家は、家康の手を握りしめた。
かつて「槍の又左」と恐れられた猛将が、今はただの一人の老いぼれた父親として、敵に頭を垂れたのである。
それは、豊臣の守護神としての敗北宣言であり、徳川の天下を暗に認める降伏の儀式でもあった。
利家は悟っていたのだ。自分が死ねば、もはや誰も家康を止められない。ならば、せめて自家の安泰を託すのが、乱世を生き抜く親としての最後の務めであると。
「……承知いたしました。前田家のことは、この家康が万事お引き受け申す」
家康は深く頷いた。その目には、勝利を確信した者の余裕が浮かんでいた。
閏三月三日、前田利家、死去。
豊臣家の重石が外れた瞬間だった。
京・大坂の空には、春の嵐を予感させる黒雲が渦巻いている。
(もはや、誰も内府を止められぬ……)
三成は、一人取り残された荒野で、唇を噛み締めていた。
正義や忠義だけでは、この奔流には抗えない。ならば、力には力をぶつけるしかない。
だが、歴史の流れは三成の想像をはるかに上回る。
秀吉の死後、徳川の仕掛けた網が着々と三成を追い込んでいく。
ついには、流言に惑わされた福島正則や加藤清正ら武断派七将は、『三成は太閤殿下に取り入って保身に走り、唐入りで苦労した我々を讒言して貶めた』と激怒し、三成の屋敷を襲撃した。
この騒動を収めた家康は、これを口実に三成を要職から外し、近江・佐和山城への蟄居を命じたのである。事実上の追放であった。
――伏見城。
かつて秀吉が君臨した上座に、家康がどっしりと腰を下ろしていた。目の前には、腹心の謀将・本多正信、その嫡男である正純、そして天海僧正の姿があった。
「もう一息ですな、殿」
正信の言葉に、家康は小さく頷いた。
多くの大名らは、すでに家康親派と言えた。特に武断派七将らは『三成憎し』と何があっても家康に味方をするに違いない。豊臣政権を奪うには、反徳川勢力をまとめて葬るしかない。そのためには三成に立ち上がってもらわねばならなかった。
先んじて加賀の前田利長に謀反の嫌疑をかけ討伐しようとしたが、前田家はあっけなく母・芳春院を人質として差し出し、完全服従を誓ってきた。
「利長は首をすくめおった。さて……どこを突けば、石田三成は立ち上がるか。」
家康が天海に目を向けると、天海は数珠を揉みながら答えた。
「上杉ならば確実かと。あの家は『義』を重んじるがゆえに、理不尽なる不義の行いを決して許さぬ気風にございます。難癖をつけて討伐の軍を起こせば、彼らは誇りにかけて受けて立ちまする」
「うむ……」
家康は顎を撫でた。会津百二十万石の上杉領を攻めるには、家康自らが大軍を率いて東へ下らねばならない。長期間、政権の中枢である上方(大坂・伏見)を空けることになる。
三成が挙兵する絶好の隙を与えることになるが、それは家康にとっても命取りになりかねない危険な賭けだった。上方を空ければ、三成の呼びかけに呼応し、毛利や宇喜多など豊臣恩顧の大名が一気に西軍としてまとまるやもしれぬ。そうなれば、家康に味方すると誓った者たちでさえ、雪崩を打って寝返る危険性があった。
「三成の下に思わぬ大軍が集うかもしれんな」
家康の危惧に対し、本多正信が扇子をパチンと叩いて身を乗り出した。
「だからこそ、ここで大博打を打つしかありませぬ。あえて巨大な隙を見せ、徳川に刃向かう者どもを一つの場所に炙り出すのです。殿が天下を握るには、中途半端に削るのではなく、反対勢力すべてを一度のいくさで根絶やしにする必要がございます」
かつて戦場を駆け回った時の高揚感が、家康の体を駆け抜ける。
「毛利への根回し、ぬかるでないぞ」
本多親子は大きく頷いた。
「……天下を分ける、大いくさか」
そう呟く家康の後ろ姿を、天海僧正はじっと見つめていた。
一方、その三成が治める近江・佐和山城。
静まり返った深夜の奥座敷に、四人の男たちが顔を揃えていた。石田三成、その片腕である猛将・島左近。そして、上杉家の家老・直江兼続と、真田信繁である。灯明のわずかな光が、四人の男たちの研ぎ澄まされた面構えを照らし出している。
「まもなく、内府は城の改修などを口実に、会津(上杉領)へ討伐の軍を向けてきましょう。この機に我らが天下の正道を示さねばなりませぬ」
三成はいよいよ挙兵の意思を固めていた。これは「義」の戦いである。
そう説く三成の言葉に、直江兼続が口を開く。
「我らが内府の軍勢を、できる限り上杉領の奥深くまで引き入れる。そこで治部殿が大坂で秀頼様を担ぎ、諸将を糾合し、東西で内府を挟み撃ちにし、あの古狸を冥途へと追い込む」
皆が頷く。
「私は不器用な男だ。人に媚びを売ることも、家康のように愛想笑いで人を騙すこともできぬ」
三成は膝の上で拳を強く握りしめた。
「だが、太閤殿下より受けた御恩だけは、何があろうと忘れはせぬ。この命を泥に塗れさせようとも、豊臣の世は私が守る!」
「その泥まみれの道、この左近もとことんまでお供いたしますぞ。鬼となって内府の首に喰らいついてやりましょう」
島左近がニヤリと笑い、杯を一息に飲み干した。
数日後。ついに徳川家康のもとへ、上杉家から一通の返書が叩きつけられた。
上洛要求を堂々と拒否し、秀吉死後の家康の専横と不義を、これでもかと論理的に、かつ痛烈な皮肉を交えて弾劾する内容であった。世に言う「直江状」である。
――内府公の行いこそ、天下の逆心にて候。
その書状を読んだ家康は、膝を叩いて喜んだ。
「佐渡(本多正信の官職名)、いよいよじゃ!わしは激怒して書面を放り投げたと触れ回れ!いくさの支度じゃ!会津征伐じゃ!」
天下を分断する巨大な歯車が、ついに音を立てて回り始めたのである。巨星墜ちて後、時代は再び血塗られた激動へと向かおうとしていた。
◆第二十二章 「狂いゆく歯車」につづく。




