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◆第二十章 急転直下

「二人まとめて、あの世へ送ってやる!」


 半蔵が腕を振り上げたその時。


 ピーッ!

 甲高い笛の音が、三度夜気を裂いた。


 半蔵の手がピタリと止まる。

(……撤収だと?)


 伊賀の即時撤収の合図である。


 半蔵は葛藤した。

 忍びの世界において命令は絶対だ。だが、戸隠を継ぐ目の前の二人は、底知れぬ脅威。


(ここで殺しておくべきだ)


 半蔵が再び殺気を膨らませたその一瞬――。


「そこまでだ、半蔵!」

 長刀を構えた島左近と、槍を構えた真田信繁が目の前に立ちはだかった。


 半蔵は舌打ちをした。あと一瞬判断が早ければ、幸村たちを葬れたものを。


「……運の良い奴らだ。次は、もがく暇も与えん」

 闇が揺れ、一瞬で半蔵の姿は消えた。



「佐助、しっかりしろ! 死ぬな!」

 幸村の悲痛な叫びに信繁と左近が駆け寄る。

 佐助の腹の傷は急所を外れている。だが息が弱々しい。


「佐助、延命根を使ったな」


 戸隠に伝わる秘薬。極限状態にあっても、体中の気力を一極集中させて常人離れの力を発揮することができる。その代わり効果が切れた際には、体中から生気が失せて死に至ることもあるという。


「馬鹿なことを」

 心配する信繁の言葉に、左近が続ける。

「幸村殿、ここからは石田屋敷が近い。そこで手当てを致す!」

 ぐったりとする佐助を心配そうに見つめる幸村。


 石田屋敷の門をくぐったところ、深夜にもかかわらず篝火が煌々と焚かれ、まるで戦の最中のような慌ただしさであった。


 左近は、通り過ぎる家中の者を捕まえて、何かあったのかと尋ねた。左近に気づき、非礼を詫びながら慌てて答えた。


「太閤殿下、ご危篤のご様子です」


 同じ頃、半蔵は本多正信の屋敷へ戻っていた。

 深夜にもかかわらず篝火が焚かれ、屋敷は騒がしい。正信も急ぎ登城の支度を整えている。


 半蔵を見るなり、正信は労いもなく言い放った。

「もう戸隠は放っておいてよい。ご苦労だった」

 半蔵は一瞬、言葉を失う。


「秀吉が死ぬ。いよいよ正面きってのいくさじゃ」

 正信の息は荒い。隣の正純も黙って頷く。


 本多親子が慌ただしく出て行った後、半蔵はふと、部屋の隅に丸めて捨て置かれている一枚の紙に目を留めた。

 それは、三十名ほどの伊賀下忍の名が記された名簿だった。朱色の×が幾つも重ねられ、半分以上が潰れている。彼らは、徳川のために戸隠と戦い命を落とした者たちだ。それが、まるで用済みの紙屑のように捨てられている。半蔵はそれを拾い、無言で持ち帰った。


 暗い部屋で、囲炉裏の前に座る。右肩の傷は深く、脈打つように疼いている。

 紙をじっと見つめながら、半蔵の脳裏に、先ほどの戦いが蘇った。


 自らの命を削って幸村を守ろうとした佐助。それを受け止め、全てを懸けて刃を振るった幸村。そして、彼らを救うために現れた主君である信繁と左近。

 互いを疑わず、命さえも預け合う「結び目」の強さ。


(所詮、忍びは忍び……命令で動き、用が済めば紙切れのように捨てられる石、か)


 半蔵の胸の奥に、これまで感じたことのない得体の知れぬものが沈んでいく。

 それは、真田の者たちへの羨望か、あるいは己が単なる盤上の駒に過ぎないことへの虚無感か。

 だが、それを言葉にすれば、忍びは終わる。


 半蔵は静かに、その名簿を囲炉裏へ投げ入れた。

 朱の×が、チリチリと火に吞まれて崩れ、やがて虚しい灰へと変わっていく。



「目が覚めたか、佐助」

 優しく声をかける幸村。


 佐助は三日三晩うなされていたが、何とか一命を取り留めた。常人では助からない全身の傷と延命根の後遺症。だが、佐助の鍛え抜かれた体と精神力がそれを乗り越えた。


 ぼんやりとした佐助の目に生気が宿り、はっと起き上がった。


「幸村様、傷は?」

「私は大したことはない」


 安堵の表情を浮かべる佐助。


「……凛様の仇を討てませんでした」

 佐助は半蔵との間に明らかな力の差を、身をもって感じた。今思い出すだけで身震いする。次戦えば確実に命はない。


「もう、半蔵はやってこないだろう」

 幸村の言葉に意外な表情を浮かべる佐助。


「太閤殿下亡き後、裏ではなく表立って大名同士の駆け引きがはじまる。真田家も難しいかじ取りが迫られよう。われらも全力で信繁様をお支えする」

 ゆっくりと頷く佐助。


「そういえば、なぜあの時、助けに来れたのですか?」

「ああ、桐笛が鳴ったのでな。よく言いつけを守ってくれたな、佐助」

「……」


 


 数日前、闇夜の中で繰り広げられていた半蔵と佐助の死闘。

 すぐ下の往来には大文字の見物に行こうと、人が溢れている。


「これ、あまり急ぐでない、はぐれるぞ」


 一人の浴衣を着た少女が、父親の言いつけに立ち止まると、ふと足元に笛のようなものが落ちていた。珍しいものを見つけた少女は、それを拾い上げ、勢いよく吹いてみたが、何も音は聞こえなかった。


 何度か鳴らしてみても音が鳴らない。壊れていると思った少女は笛を投げ捨てて、父親を待ち切れず、大文字の送り火が見える通りへと急いだ。





 京の夜は、何も知らぬ顔で冷えていく。

 太閤の命運を境に、舞台は一つの方向へ向かって急速に動き始めていた。表が動き、裏が血を流し、そして――天下が、次の形を取ろうとしていた。


 ◆第二十一章 「巨星墜つ」に続く


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