◆第十九章 死闘
京では太閤秀吉の悪評が日増しに広がっていた。地震の復興が追いつかぬ中、「祟り」「天罰」の声は絶えない。再度の唐入りの触れ、千利休切腹、さらには、「秀頼は淀殿と三成の子だ」という下卑た噂まで走った。
重なる闇が、民の暮らしに落ちていた。だが民の呻きも噂も、もはや太閤の耳には届かない。太閤にとって幼い秀頼がすべてだった。太陽のような秀頼の存在が、どんな影も覆い隠していた。
そうした中でも、水面下で伊賀と戸隠の戦いは続いていた。
戸隠の精鋭たちが闇を走り、噂を撒く伊賀者を追い詰める。一人、また一人。京の暗がりに消してゆく。
だが、追う側の戸隠も疲弊していた。肝心の服部半蔵が、いつまで経っても姿を現さない。末端の下忍とはいえ伊賀は一人ひとりが強い“個”の集団。戸隠の傷も増えていく。
真田の借り屋に戻った佐助は、肩口の浅い傷に布を巻きながら、壁を殴りつけた。
戸隠の山深い山間での修行の毎日。
「佐助、上手だ」「もう少しの辛抱だ」
優しかった凜の顔が、時に厳しく忍びの技を教える凜の姿が脳裏に浮かぶ。
「佐助」
障子が開き、幸村が入ってきた。
「また、単独で動いたな」
幸村は膝を折り、佐助の正面に座る。
「凛様の仇を討ちたい気持ちは、私も同じだ。だが、決して一人で何とかしようと思うな」
「……」
「服部半蔵は強い。伊賀の“個”の頂点にいる男だ。だからこそ、我ら戸隠の強みである“束”で戦うのだ。それぞれが連なり一つの刃になる」
傷の手当てを済ませた佐助は、幸村に向き直った。
「わかりました」
佐助の返事を聞いて、幸村はやさしい顔に戻って言った。
「お前は血気盛んで心配なのだ。半蔵が現れたら必ず手筈通り桐笛で知らせるのだぞ」
そう言って、幸村は佐助の肩を叩いた。
その夜、京の町は大文字の送り火で賑わっていた。赤い火が山に踊り、川面にも揺れる。笑い声、屋台の呼び声、子らの足音。
賑わいから少し外れた相国寺横の路地で、佐助は伊賀の下忍をまた一人仕留めた。短刀が喉を断ち、命が抜ける。血の温度が手に残る。
(いつまで続く)
短く息を吐き、刃を懐に納めた。
――その瞬間。背後に、得体の知れぬ気配を感じた。
佐助は反射的に塀へ跳んだ。だが気配は背にぴたりと吸い付いて剥がれない。
「……猿飛佐助だな」
すぐ後ろから声がした。息の温度まで分かる距離。
前だけを見たまま、佐助は答える。
「……待ちわびたぞ、服部半蔵」
少し離れた枝へ飛び、振り返る。
闇の縁に一人の男が立っている。黒装束の奥に獣の気配。目だけが笑っている。
「凛様の仇、取らせてもらう」
「焦るな。お前ひとりでは役不足だ。棟梁の幸村はどうした」
その余裕が癪に障る。胸の奥が熱くなる。
「この佐助を倒してから言え!」
言い終わらぬうちに、佐助は闇を蹴った。
初太刀は空を切る。次に半蔵の刃が閃き、佐助の脇腹が裂けた。
膝が落ちかける。だが傷は浅い。
「ほう……この一撃を躱したか」
二太刀、三太刀。佐助は追う。半蔵は笑いながら躱す。まるで空気を斬っているように当たらない。
「威勢が良いな。まあいい。お前の屍を晒して幸村をおびき出す」
半蔵が頭巾を外した。
忍びが顔を見せるのは、生きて返さぬという宣告だ。顔の半分に走る青い痣が、笑いで歪む。
(半蔵が現れたら必ず知らせるのだ)
幸村の言葉通り、佐助は合図のための首から下げた桐笛に触れた。常人には聞こえない高周波の音色は、風向きによっては遠く隣国の忍まで届くという。
だが、首にあるはずのその桐笛は、最初の半蔵の一撃で千切れて無くなっていた。
佐助は意を決して、息を整えた。
次の瞬間、半蔵が消えた。速すぎて、そう見えただけだ。
間一髪、短刀で受けた。火花が散り、手首が痺れる。
(なんて力だ……!)
じりじりと剣先が佐助の顔へ迫る。
佐助は足首に仕込んだ火筒を蹴り割った。白煙が噴き上がり、視界を覆う。
「また戸隠得意の影返しか。使い古された技を」
半蔵の剣は、影から僅かにずれた空間へ迷いなく差し込まれた。だが手応えがない。
佐助の体は半蔵の真下へ潜り込んでいた。懐に折り畳まれていた伸縮槍が勢いよく伸びる。
「――もらった!」
渾身の突き上げ。だが穂先は急所を外れ、半蔵の右頬の肉をえぐった。半蔵の頬から鮮血が吹き上げた。
距離を取り、その血を拭い舌で舐め上げながら半蔵は小さく呟いた。
「やはりな。戸隠……捨て置けぬわ」
半蔵の笑みが消え、獣の顔から、冷たい刃物の顔へ変わる。
次の瞬間、佐助の左肩を刃が深く抉った。血が散り、槍がぐらつく。半蔵は落下の隙すら与えず、刃が次々と佐助を襲う。
佐助は白煙をもう一度広げ、“複数”の影を作った。
「影返しの次は霞蜘蛛か」
背後の影から伸縮槍が伸びる。だが、半蔵は刃の“外側”にいた。
「見切られている!?」
「終わりだ」
半蔵の刃が、佐助の心臓へ向かう。
「させない!」
闇を裂いて飛来した苦無が、半蔵の刃を弾き飛ばした。
視界が揺れる佐助の前に、幸村が降り立つ。
「佐助、一人で背負うなと言ったはずだ!」
幸村が刃を抜く。
「……二人揃ったか。ならば、ここで戸隠を終わらせる」
半蔵が動く。
だが、かつて大坂城で相対した時の幸村とは違った。半蔵の神速の刃を、幸村は小太刀で完璧に受け流す。腕の筋力は及ばなくとも、半蔵の重心の移動、視線のわずかな揺れから次の太刀筋を完全に読み切っていた。
(……あの夜より、遥かに腕を上げている)
半蔵が目を細めた瞬間、幸村が叫んだ。
「いくぞ、佐助!」
幸村が左へ跳び、同時に佐助が右から槍を伸ばす。二人の呼吸が完全に同調し、互いの死角を消しながら、まるで一つの生き物のように半蔵に襲い掛かる。幸村の小太刀が半蔵の顔面を掠め、佐助の槍が足元を薙ぐ。
目に見えないほどの速さで繰り出される二人の剣に、半蔵は徐々に追い詰めてられていく。
ぎりぎりの間合いで切先を躱していく半蔵。だが頬の傷の血が目に入った一瞬、隙が生まれた。
「もらった!」
幸村の刃が半蔵の胸元を深く切り裂いた、かに見えた。
「……面白い」
空気が凍った。
半蔵は、幸村の刃を素手で掴んでいた。刃が肉に食い込み、血が滴るのも構わず、もう片方の手で刀を横薙ぎに振るう。
「しまっ……!」
幸村は間一髪で身を引き剥がしたが、胸元から鮮血が舞った。佐助も、半蔵の強烈な蹴りを腹に受け、吹き飛ばされて壁に激突した。
「戸隠の“束”とやらも、この程度か。次はこちらからいくぞ」
半蔵の強さは、常軌を逸していた。
二人の体にはみるみるうちに致命的な傷が増えていく。
再び胸に大きな衝撃を受け吹き飛ばされた佐助。
「化け物か……」
佐助は血を吐きながら、幸村を見た。幸村もまた、肩で息をし、足元がふらついている。
(このままでは……幸村様が殺される)
佐助の脳裏に、戸隠の森での記憶が蘇る。
凛、幸村、佐助の三人での修行。幸村は一人崖下の薬草を取りに岩肌を降りていた。その姿を遠くで見守る凛と佐助。
『幸村はわれら戸隠にとっての宝なのだ』
そう優しく語る凜の表情には、母代わりに育てた愛情だけではない、何か深く秘められたものが感じられた。
『佐助、私に何かあったら、そなたが幸村を守ってやってくれ』
(凛様……)
佐助はゆっくりと立ち上がり、伸縮槍の柄の部分から紙に包まれた粉末を取り出し飲み込んだ。
じりじりと追い詰められる幸村の前に、佐助は立ちふさがった。
「このままでは、二人とも殺られてしまいます。もう一度、呼吸を合わせましょう」
そう言って、二人の呼吸が同調しはじめる。
今度は幸村が右へ跳び、同時に佐助が左へ。互いの死角を消しながら半蔵に襲い掛かる。
死角から佐助の伸縮槍が半蔵の急所を突くが、あっさりと半蔵の右手に握られた刀で受け止められる。
「無駄だとわからぬか」
逆方向から切りかかる幸村の一撃も、もう一方の左手の短刀ではじき返された。
「猿飛佐助、終わりだ」
その左手の短刀が返す刀で佐助の腹を容赦なく突き刺した。
「……!?」
短刀を抜こうとするが、佐助の体に食い込み抜けなくなっている。その左手を佐助の右手がしっかりと掴んだ。
「捕まえた」
右手で受け止めた佐助の槍は、さらに力を増し、気を抜けば体を突き刺される。左手の短刀は佐助の右手で掴まれて全く動かない。
(なんだこの力は」
「幸村様!」
すでに幸村の体は、半蔵をめがけて飛んでいた。
「覚悟!」
「!!」
初めて見る半蔵の焦る表情。幸村の刀が半蔵の右肩から胸にかけて一気に振り下ろされる。そこに小さな爆発音と共に、白煙が舞い上がる。
(やったか!?)
手応えはあった。
白煙が晴れた先。
膝をつき、肩から大量の血を流しながらも、半蔵は「生きて」いた。
「……素晴らしい。さすがに冷や汗をかいたぞ」
半蔵は、幸村の刃が届くほんの一瞬前に、自らの影をずらし、致命傷を直撃から浅い傷へと変えていたのだ。
(影返し……戸隠の秘技を、見様見真似で……!?)
最後の力を振り絞り、満身創痍の佐助と幸村にゆっくりと近づいていく半蔵。
佐助を庇い、前に立ちはだかる幸村。
「戸隠……やはり生かしておいては危険だ。徳川にとっても、伊賀にとっても」
半蔵の瞳に、明確な殺意が宿る。
佐助もまた幸村を守ろうとするが、もはや指一本動かすことができない。
「二人まとめて、あの世へ送ってやる」
半蔵が迷うことなく、腕を振り上げた。
◆第二十章 「急転直下」へ続く




