◆第十八章 表と裏
京のとある酒屋。酒臭い息を吐く男が二人、小声で杯を傾けていた。
「夜の六条河原に、恨めしい顔をした秀次公が出るらしい」
「おいたわしい。太閤様もすっかりお人が変わられた」
隣の席から、腰の曲がった初老の男が、赤ら顔で会話に割り込む。
「裏で太閤様を操っているのは、あの石田治部少輔様らしいよ。」
「おお、爺さん。今日も来てたのかい。」
「確かにあの方ならやりかねんな」
「温和な徳川様を目の敵にしているとか」
周りの客たちも聞き耳を立て、噂は酒の湯気と一緒に広がっていく。
その光景を、奥の席から静かに眺める旅装束の男がいた。頬に、十字の傷。酒には手をつけず、指先だけが時折、盃の縁をなぞっていた。
しばらくして初老の男が立ち上がる。腰をおさえながら勘定を済ませ、ゆっくりと店を出る。ふらつく足取りのまま、人通りの少ない路地へ入っていった。
路地に入ると、初老の男の腰はすっと伸びた。歩幅も、速さも、別人のように変わる。
「腰はもういいのかい?」
初老の男は足を止めるが、驚きは見せない。軽く肩越しに振り返り、酔いを装った笑みを浮かべた。
「へえ、酒のせいか調子が良くって……」
言い終わらぬうちに、旅装束の男が懐から短刀を抜いた。刃が月光を吸い、次の瞬間には初老の男の喉元へ滑り込む。
短い呻き声。
初老の男は膝から崩れ、石畳に倒れた。血が細い筋になって流れ、路地の闇へ染みていく。その手には、刃先にたっぷりと毒が塗り込まれた苦無が握られていた。
旅装束の男は一度だけ周囲を見回し、遠くの話し声に気配を察した。躊躇なく塀へ跳び、屋根へ上がり、木々へ移る。人間離れした軽さで、伏見の方角へ消えた。月明かりが一瞬、頬の十字傷を白く浮かび上がらせる。
伏見の石田屋敷は、地震の被害で蔵や母屋の一部が倒壊していた。だが、わずかに残った母屋で三成は休む間もなく政務を取っていた。
全壊した町民の住まいの手配。緊急用食料の配布。近隣寺院からの修復陳情、被害の少ない大名への支援要請と見舞いの段取り。さらには伏見城の修復計画まで、あらゆる書付が三成の元に寄せられ、文官としての三成の才が否応なく働かされる。
「治部少輔様におすがりしてみよう」
屋敷の門前には長蛇の列ができ、途切れることがなかった。握りしめた嘆願の紙、赤子を抱えた女、裸足の老人。鍋の湯気と、炊き出しの米の匂い。椀が足りず、木片を削って器にする者すらいた。
農民出身の三成にとって、町民・百姓の困窮は他人事ではない。同じ出自の太閤秀吉も、本来は同じ想いを抱いていたはずだ。城の蓄えで炊き出しを行い、倒壊した伏見城の修復を後回しにするだけでなく、資材を民の住まいへ回すことも許可した。その差配の実務を、三成が一手に引き受けている。
三成はここ数日、ほとんど眠っていなかった。
だが、城下の感謝とは裏腹に、京を中心に「太閤の衰え」と「三成の専横」を結びつけた悪評が、日増しに強くなっていった。酒屋の噂が、町の噂になり、町の噂が、世の理屈の顔をし始める。
深夜。
左近が傍らで見ていても、いたたまれないほど三成はげっそりとやつれていた。ろくに食事もとれぬまま、陳情の書類に目を通し、筆で指示を書きつけては積み直す。
「殿、いっそ家康を斬りましょうか」
左近の言葉に、三成は少し間を置いて、ゆっくりと筆をおいた。
「今は大名間の私闘は御法度。奉行である私が法を破ってどうする。あくまで道理を通して、道を正さねばならん」
三成は正論家だ。その潔癖さが、時に自らの首を絞めることを左近は知っていた。
だが、この流言は明らかに仕掛けだった。伊賀者の手合い、その背後に徳川があることは明白であった。
「殿のため、豊臣のためならば、私が泥をかぶりましょうぞ」
三成は、わずかな笑みを浮かべながらも首を横に振り、再び筆を取った。
左近はため息交じりに立ち上がり、窓の外の月を見上げる。
(ここは、真田の若君にお願いしてみるしかあるまい)
数日後、左近の姿は伏見の真田屋敷にあった。
信繁、傍らに内記、少し離れて幸村もいつもの小姓の姿で控えていた。
「こちらの被害も相当ですな」
「ええ。こんな狭苦しい場所で申し訳ございません」
真田屋敷も母屋は全壊だった。大工は町民・百姓の家の修復へ優先的に回され、真田の母屋は手つかずのまま。被害の小さかった離れ――普段、幸村が過ごす部屋へ左近を通していた。
「で、今日はどのようなご用件で。」
左近は姿勢を正し信繁に向き合った。
「単刀直入に申し上げる。戸隠の手を、お借りしたい」
信繁も、おおよその見当はついていた。地震を境に現政権に対する流言の類が一気に拡大していた。だからこそ幸村も同席させていた。
「……徳川の忍びが、動いているのですね」
「流言飛語を撒き散らし、豊臣の屋台骨を腐らせる蛆虫どもです」
信繁の脳裏に、あの鶴松事件の夜が鮮明に思い起こされた。側に控える幸村も同じであった。
信繁が目をやると、幸村は小さく頷いた。心の内に闘志の炎を燃やして。
幸村は、左近に対して一礼し、奥へ下がっていった。
幸村が去ったのを見計らって、左近が口を開いた。
「奥方はご健勝ですかな」
「ええ、お陰様で」
信繁は昨年大谷吉継の娘、竹姫と婚儀を済ませていた。利発で気が利き、控えめで家中での評判も良い。特に父昌幸はその利発さをたいそう気に入っていた。
「左衛門佐殿も、家を割る覚悟には至りませんでしたな」
左近は大げさに周りを気にし、小声で囁く。その様子を見て、内記が吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
秀吉の推挙で下された官位「左衛門佐」は、父「安房守」昌幸、兄「伊豆守」信幸、さらには義父となる大谷吉継の「刑部少輔」と同格であった。
人質として伏見に詰め、功績の乏しい信繁に与えられたその厚遇は、豊臣方として生きよという無言の圧力でもあった。
母屋へ向かう幸村の前から、竹姫が大谷家から連れてきた従者を伴い歩いてきた。崩れた梁や割れた土壁、さらには食器類などの細かなものまで必要な物を手配するよう従者に指示している。
幸村は道を譲り、跪いた。
竹姫は通り過ぎる際、幸村にも柔らかな笑みで会釈した。だが数歩行って、ふと振り返る。母屋へと向かう幸村の背を、しばらく見送っていた。
「姫様、いかがなされました?」
従者が問いかけると、「いいえ。行きましょう」と何事もなかったように再び歩き出した。
夜、幸村の寝所。
昼の小姓姿とは異なり、髪を降ろし絹の羽織一枚。行燈の光が幸村の焼けた健康的な肌を淡く照らしていた。窓から入る微風が髪を揺らし、灯がかすかに震える。
「来たか」
幸村の前に膝まずく男。頬に十字の傷。
「戸隠から来て早々、獲物を狩ってきたか。血の匂いがするぞ、佐助」
橘佐助。幸村が戸隠から呼び寄せた手練れである。齢十八だが戸隠において一、二を争う忍びである。人間離れした跳躍力で、塀や木の上を猿のように飛び回ることから、周りからはこう呼ばれていた。
――猿飛佐助。
「佐助、いよいよだ。相手は伊賀の服部半蔵」
佐助が顔を上げる。その瞳に、憎悪と闘志の火が灯る。
「……凜様の、仇」
かつて、半蔵の刃に倒れた幸村の育ての親。佐助にとっても特別な存在である先代棟梁の凛。
あの日流された血は、まだ乾いていない。
「まだ半蔵の姿はどこにもない。だが、末端の忍びを叩き続ければ、必ず半蔵が出てくる」
幸村は拳を握りしめた。
「我ら戸隠にとって、これはただの任務ではない。弔い合戦だ」
「お主は、人一倍凛様に可愛がられた。だが憎悪で足元をすくわれるな」
佐助は黙って頷いた。こくり、と小さく。
京・伏見一帯で歴史の表舞台には記録されぬ、凄惨な戦いが始まろうとしていた。
徳川が放つ伊賀の者たちが、民衆に噂を流そうと路地裏へ潜り込む。それを、風のように現れた戸隠の忍びが刈り取る。
屋根を走る足音、闇夜に散る火花。短い悲鳴すら、すぐに布で塞がれる。
ひとり消え、またひとり消える。誰が殺したのかも分からぬまま、流言の舌だけが、一本ずつ折られていく。
表では信繁と三成、そして左近が必死に豊臣の分裂を食い止めようと奔走する。
その裏で、幸村と佐助は、因縁の敵・半蔵の影を追い求めて、血塗られた夜を駆けていた。
「猿飛佐助?」
行燈の灯がともる薄暗い一室に三人の姿。
声の主は本多正信。その隣に嫡男・正純。少し下がったところに服部半蔵が控える。
床に広げられた大きな紙には、三十名ほどの下忍の名が記されていた。そのうち半分以上に、朱色の×が重ねられている。
「この短期間に、こんなにもやられたのか」
半蔵は押し黙った。だが焦りも恐れもない。むしろ、笑みが滲んでいるように見える。
明らかに――戸隠に誘われている。半蔵はそれを分かった上で、誘いに乗る。
「この先、天下取りに向けた大一番が控えておる。伊賀の威信にかけて、戸隠をつぶすのじゃ」
半蔵は小さく頷くと、灯の揺らぎに溶けるようにその場から姿を消した。
「父上、何やら得体の知れぬ、気味の悪い輩ですね」
正純の言葉に、正信は目だけで笑った。
「使いどころを誤るな。うまく使うんじゃ」
京の町に、半蔵の不気味な笑いがこだました。
◆第十九章 「死闘」に続く




