◆第十七章 揺れる天下
秀次の事件以来、世の中の豊臣政権に対する空気は一変した。秀次と友好的であった大名にも厳しい処分がくだり、秀吉の気まぐれ一つで、何がどうなるかわからない。
大名から庶民までが声を潜めた。
慶長元年(一五九六)閏七月十三日深夜――。
「ゴゴゴゴ……」
鳥たちが一斉に空へ散った。
伏見の町の地面が、ゆっくりと波打った。
井戸の水が跳ね、桶が転がり、提灯の火が踊る。誰かが「地震だ」と叫ぶより早く、家々が軋み始めた。
伏見城の廊下も波を打った。柱が泣き、梁が唸り、天井板が剥がれて落ちる。灯明が転げ、油が走る。火を出せば終わりだ、と叫ぶ声がどこかで上がった。
「外へ! 外へ出よ!」
豊臣秀吉も家臣らに守られ、庭へ飛び出した。その刹那、背後で破裂音――瓦が割れ、屋根が落ち、土塀が崩れた。櫓の一部が傾き、石垣が崩れ、城内は一瞬で“戦場の後”になった。
指月伏見城。天下人の“終の棲家”として誇示されるはずの天守が、その揺れの中で、まるで紙細工のように傾いている。
次の瞬間、天守は音を立てて崩れていった。轟音。土煙。木の裂ける音が、悲鳴を押し潰す。あちこちの瓦礫の下から伸びる手。名を呼ぶ声。助けを乞う声が、折れた柱の奥で細くなり、途切れていく。
――そのころ伏見の町外れ。
「崩れるぞ! 壁から離れろ!」
島左近が怒鳴った。声が通らぬ。地鳴りと悲鳴と瓦の降る音が、すべてを塗り潰す。
左近は倒れかけた土塀へ体を滑り込ませ、腕一本が覗く隙間に肩を突っ込んだ。木材が軋み、瓦礫が肩へ食い込む。
「まだ生きとる。縄! 梃子を持て!」
駆け付けた信繁と幸村も闇の中で即座に動いた。戸惑う町民に指示をし、門板を外して担架にして怪我人を乗せていく。幸村もまた動ける者を集め、井戸端の桶を奪って周りに水を撒かせる。火が出たら助けられるものも助けられなくなる。
「子が……子が中に!」
女の泣き声が裂けた。
「どっちだ!」
信繁が問うと、女は崩れた長屋を指した。そこに余震が来る。迷っている暇はない。信繁は瓦礫へ飛び込み落ちてくる梁を背中で受け止めた。
「信繁様!」
信繁の無事を確かめた幸村は、わずかな隙間に体を捻じりながら奥へと滑り込む。
(いた!)
幸村は土埃の中、幼い手を見つけた。腕を掴み、引き抜く。
三つくらいの男の子だ。だが息をしていない。瓦礫の下で幸村は大きく息を吹き込んでやる。何度か続けると次の拍子、男の子の肺が空気を得て、喉が叫んだ。
瓦礫から出てきた幸村と男の子に、人々から歓声が上がった。信繁が身を引くと支えていた梁は崩れ、大きな音と共に建物全体が音を立てて形を失った。
「信繁様、大丈夫ですか!?」
梁を支えていた背中は着物が破れ、血が滲んでいる。
「大丈夫だ。それよりも助けを求めている者を!」
石田三成は城へと急いでいた。
門をくぐった瞬間、三成の鼻を突いたのは土と油と――人の死の匂いだった。庭先に、秀吉がいた。
「……殿下、ご無事にございますか!?」
秀吉は近習に守られながら、庭に立ち尽くしていた。目は崩れた天守の向こう、誰もいない闇を見ている。
崩れた天守を見上げたまま、唇を震わせる。
「……なぜじゃ、秀次」
か細い声だった。風に持っていかれそうな声が、瓦礫の匂いの中で不意に立った。
「なぜじゃ……秀次……。わしは、わしは……」
言葉の続きを探すように、秀吉の喉がひくついた。天下を呑み込んできた舌が、今は己の名さえ噛む。指が空を掴むように痙攣し、支える近習の手が思わず強くなる。
秀吉が恐れる姿を、三成はほとんど見たことがない。怒る秀吉は知っている。笑う秀吉も、脅す秀吉も、泣く秀吉さえ知っている。だが――何かに怯えて言葉を失う秀吉は、知らない。
「殿下……」
三成は呼びかけた。呼びかければ戻る、と心のどこかで信じている。これが一時の弱りであってほしい。天下はまだ豊臣の手の中にある、と。
だが秀吉の視線は戻らない。焦点の合わぬ目が、瓦礫の向こうを漂う。
「……秀次が……笑うておる……」
誰にも見えぬものを見ている声だった。
「……殿下。」
三成は、かける言葉を探したが見当たらなかった。
京でも屋敷が倒れ、寺社にも損壊が出た。古い堂宇は、揺れに耐える術を知らない。瓦が落ち、回廊が裂け、石灯籠が倒れ、鐘楼が傾く。寺は祈りの場所である前に、避難の場所にもなる。人々は境内に逃げ込み、僧の袈裟に縋る。あちこちで火の手が上がり、夜空を赤く照らした。
余震が来るたび半壊が全壊になり、人々は道の真ん中で互いの袖を掴み、夜明けまで震えをやり過ごした。被害は伏見だけではない。大坂でも堺でも家が倒れ、兵庫でも同じように屋根が落ち、人が潰れたという。
――世に言う、慶長伏見地震である。
京の町を中心に多数の死者と建物の倒壊など、未曽有の被害に見舞われた。京の町衆や世間の人々は、「無実の罪で殺された秀次公の祟りだ」「朝鮮での無益な戦や、身内を惨殺した太閤への天罰だ」と噂した。
「身分の低い出自から天下人になった英雄」「気さくで人たらし」と称賛された秀吉の面影は完全に消え去り、次第に衰えを見せた老人の死を、身内も民衆も息を潜めて待つような異様な空気に包まれていった。
――天下は、揺れの中で、次の形へ割れ始めていた。
◆第十八章 「表と裏」に続く




