第五十五話 溶けあう物語
ブルーベルは龍の頭の近くに置いていたソードを拾いあげた。瑞生がその傍に置いていた姿見をいかにも大事そうに持ちあげ、黙ったまま龍に沿った道を歩き出した。ブルーベルもそのうしろについて歩いていきながら、やはり姿見をうさんくさそうに一瞥して、それを抱えている瑞生のほうに視線をうつして言った。
「詩梁さんはもうすぐここに来るのか」
「ええ。昨日の別れ際、太陽が真上にのぼる頃合いに、龍に沿ったこの道を頭のほうにむかって歩いてくるよう伝えておきました。龍に食べられるという設定になってる以上、巫女が姿を現さなくては、カエデが龍をめざめさせない可能性もありますから」
「それはやむをえないな。妹のほうは来ないのか?」
「ええ、来ないでしょう。つぎにヒタリと会うのは、龍との戦闘で大量の血がながれたあと、おそらく彼女がメガネをかけている状態の姿‥‥つまりカエデの姿に戻ったあとです」
「じゃあ、やっぱりヒタリは、カエデの化身だったってことか?」
「いいえ‥‥基本的にはヒタリというカエデの意思からは独立した人間だったはずですが、ヒタリにかぎっては必要に応じてカエデの人格とスイッチしていたような気がしますね」
「なぜそう思う?」
瑞生は自分の抱えている姿見を顎でしゃくって言った。
「これを持ってくる際にさんざん睨まれましたから。彼女が完全にヒタリの人格だったら、僕を睨みつける理由なんかなかったはずです」
ブルーベルはあらためて瑞生の抱えている姿見を眺めて言った。
「それが母親の形見だったからじゃないのか?」
瑞生は静かに首を振りながら答えた。
「あれだけ石板に刻まれた伝説に忠実であろうとした彼女が、そんな感傷的な理由だけで、勇者の設定である僕をあそこまで睨みつけるとはとても思えません。カエデの意思がまったく及んでいない詩梁が援護射撃してくれたおかげでこの姿見を持ち出すことができましたが、それなりに納得のいくはずの姉の言葉にも彼女は耳をかさず、最後まで僕を睨みつけてましたからね」
「そうか、私にはまだ瑞生君がそいつをなににつかうのかまるでわからないが、カエデはその意図をすぐ理解したというわけだな。‥‥こりゃいい、痛快だ。君がこれをなんにつかうのか、いまから楽しみだな」
弾んだ声でそう言ったブルーベルから目を逸らして瑞生はうなずいた。ブルーベルはそんなことには構わず、太陽の陽射しを受けてきらきら光るソードの剣身に眩しそうに目を細めながら瑞生に訊いた。
「しかし龍の向こう側にちゃんとメグたちは来ているのか。いや、けっしてあいつのことを当てにしているわけじゃないんだが、舞台の緞帳があがって、役者が遅刻してて不在なんてことになってたら、ひどく腰砕けなことになるからな。それに、こちらと同じように、向こう側にも巫女の生贄が用意されているとしたら、そのお嬢さんが到着するまでは龍がめざめない、なんてことになるんじゃないのか」
メグが地面に置いていたソードを拾いあげながら、ご陰キャさまの発したその疑問にたいして答えた。
「心配しなくて大丈夫だよ。向こう側で瑞生クンが詩梁ちゃんにここに来る時間をきちんと指定してたら、こっちの由香っちはそれにあわせてここに来るはずだから」
ご陰キャさまが不思議そうな表情を浮かべてメグに訊ねた。
「なんでそんなことがわかんの? 昨日の晩、俺は由香っちに時間のこととか、なんも話してないんだけど。俺自身もそんなとこまでまったく気がまわらなかったし。それになんで瑞生クンがわざわざ詩梁ちゃんに時間まで指定すんの」
「そうしておかないと、どちらかが相手側のチームを無駄に待つことになるからね。龍をめざめさせるのは向こうのチームだけど、こっちのチームが来ていなかったら、カエデはこっちのチームが到着するまで、龍を動かさない可能性だって十分あるわけだから。カエデの意思ってのは、ようするに石板に刻まれている内容そのもののはずだから、瑞生クンはそれが罠だとわかってても、あくまでその内容に沿って突き進んでいかなきゃならないわけよ」
「ん。つまり瑞生クンはカエデっちのつくったルールに、あえて乗っかってるってこと?」
メグは、なにいってんのこいつ、みたいないつもの表情でご陰キャさまの顔を見ながら言った。
「いや、乗っからざるをえないでしょ。カエデが隅から隅までつくったこの島でそれをやらずに、どうやって物事を進めていけるっての。この島を取りかこんでいる広大な海でさえ、あの子のつくったものなわけだからね、どう転んだところで、あたしたちには最初から逃げ場なんてものはないのよ」
「それはそうだけど‥‥でもなんでカエデっちの支配がまったく及んでないはずの由香りんが、向こうの詩梁ちゃんの動きとシンクロすると思うわけ?」
「由香っちや詩梁ちゃんたちの意思にカエデの支配が及んでいないとしても、それ以外はあくまでカエデの采配でこの島全体が動いているはずだからね、カエデが計算してそういう細かい調整をかけるのは朝飯前なわけよ」
「えーと。‥‥つまりどういうこと?」
「たとえばさ、あんた自身が今日、龍に食べられてしまうかもしれない日だったとしたらどうする? そういつまでも寝床でごろごろしてないよね。だから由香っちは、もしかしたら朝早くにめざめてしまったかもしれない。でも生身の人間によく起こるように、急な来客があったり、電話がかかってきたりして、由香っちはちょうどいい時間になるまでアパートで足止めを食らってたはずなんだ」
ご陰キャさまはメグの説明に何度かうなずいたが、それでもまだ納得のいかない感じで首を傾げながら言った。
「‥‥だけどさ、俺がカエデっちだったら、てっとりばやく由香りんに乗り移って行動しちゃうけどね。カエデっちだったらそんなことすんのはわけないんっしょ?」
メグは笑いながら答えた。
「たしかにそのほうがてっとりばやいけどさ、そんなことをしてそれがあたしたちに‥‥少なくともあたしに見透かされてしまった場合、カエデが負うリスクがおおきすぎない? これだけおおがかりな物語と舞台装置を用意したにもかかわらず、状況によっては由香っちの中身がカエデと入れ替わってるかもしれない、なんてことが判明しちゃったりしたら‥‥」
ご陰キャさまは顎に手を当てながら、ふんふんとうなずいた。
「なーるへそ。カエデっちがそんなことしてたのがこっちにバレたら、由香りんが龍に食べられかけたところで誰も助けなくなるな。‥‥そうか、だからこの世界の由香りんは純度100パーセントの由香りんだったわけか。でもさ、メグちんはなんで、向こう側に瑞生クンたちが来る時間までわかってたわけ?」
メグはぶるるんと首を振ってから言った。
「わかってたわけじゃないのよ。ただ流れに身を任せたってだけ。あたしたち神社でぐっすり寝ていたら、境内を散歩しているおじいさんのつれた犬がでっかい声で吠えて、それで眠りから叩き起こされたわけでしょ。それから由香っちがつくってくれてたおにぎりを食べて、布団たたんで社務所とか拝殿を掃き掃除してから、この龍のとこまでのんびり歩いてきたじゃない?」
「うーん‥‥つまりカエデっちは、うちらの行動パターンをあらかじめ読んでそれを考慮に入れて、そこから逆算した時間に犬を吠えさせたってこと? でも布団もたたまず、掃き掃除もせずにうちらが神社を出る可能性だってあったわけっしょ?」
「仮りにそういったことをしなかったとしても、あたしたちがちょっとだけ早く龍のとこに着くってだけのことだからね。そもそも龍をめざめさせるのは向こうの悪漢チームなわけだし、カエデだってあたしたちなんかにそこまで気を遣ってくれるわけじゃないわよ。カエデからしてみたら、時間があまったらまたふたりでくだらない漫才でもやってなよ、って感じなんじゃない」
ご陰キャさまは腕組みしながら、感心したように言った。
「ふーん。俺らが戦ってるのは、カエデっていう女の子というより、最先端のコンピューターの演算能力ってことなんだな。‥‥しかしなんでカエデっちはそこまでして全員を集合させたいんだろ。カエデっちだって片方ずつチームを相手にしたほうがだんぜん有利なはずなのに」
「そこはあたしにもわかんないわね。向こう側のチームに、あくまで石板に書かれてた『悪漢が襲ってくる』ってのをやらせたいのかもしれない。といっても、いくら詩梁ちゃんに向こう側で、インド神話でいうモーヒニーみたいなハニートラップ的役割をやらせてるんだとしてもさ、あの瑞生クンがそんな単純な罠に引っかかるとはとても思えないんだけどね。でもそんなことはカエデだって、瑞生クンのこと正面きって変態呼ばわりしてたくらいだから、ちゃんとわかっているはずだし‥‥ほら、由香っちが来たから、たぶん向こう側でも詩梁ちゃんが来てるはず」
龍に沿った道の向こうから、楽器ケースを持って歩いてきた由香が、にっこり微笑んで小さく手を振りながら言った。
「遅くなってすみません」
「ううん、ぜんぜん大丈夫だよ。龍はこのとおり、まだめざめてないし」
「ああ、石板の伝説では龍をめざめさせるのは、向こう側にいるはずの悪漢たちですものね」
由香の着ているカジュアルな服装を見てメグが言った。
「‥‥ていうか、由香っち、巫女の格好じゃないんだね」
「はい。べつにこれは儀式というわけでもないので」
由香はそう言ってから、雲ひとつなく晴れわたった空のもと、いつものように大地に悠然と横たわっている龍の巨大な身体を見あげた。
「こんなものがほんとうにこれから起きあがってくるんですねえ」
平然とした声でそう言った由香に、メグが心配そうな表情で訊いた。
「由香っち、怖くないの?」
「怖いですよ、そりゃ。でも昨日の晩、陰キャさんが約束してくれましたから‥‥向こう側から来る悪漢たちがあたしを助けてくれるって。陰キャさんがそう言うのなら、あたしもそれを信じることにします」
由香はご陰キャさまにむかって微笑んだ。ご陰キャさまは居心地がわるそうに指で額を掻きながらうつむいて力なく笑う。ふたりのその表情を、唇を結んで温かい目で交互に見てから、メグは右手に持っているソードをかざしながら、にんまり笑って由香に言った。
「あたしもちゃんと由香っちを助けてあげるから」
由香はメグに向かってにっこり微笑んだ。そして由香はご陰キャさまに視線をうつして口を開いた。
「それで、龍はいつめざめるんですか?」
詩梁はそう言って瑞生の顔を見つめた。瑞生はゆっくりとうなずいてから答えた。
「これからブルーベルがソードで龍の身体を切り刻んでめざめさせます。詩梁さんも来られたんで、ちょうどいい頃合いでしょう。‥‥ブルーベル、そろそろいいですか」
ブルーベルは瑞生に目で合図してうなずき、それから詩梁に向かって言った。
「では、参りますよ」
両手で握ったソードを頭上にかざし、ブルーベルはいきおいよくそれを振りおろして、ありったけの力をこめて龍の横腹に突き刺した。そしてブルーベルは渾身の力をこめたまま、手加減なくソードをそのまま右方向へと滑らせていった。なんらかの手応えを感じたように、ブルーベルはソードから手を離して少しだけ後ずさり、放心したように龍の身体を見てから、さほど意味もなく瑞生のほうに視線をうつして、相手の表情からなにかを読みとるまえに、ふたたび龍に視線を戻したのだった。瑞生とブルーベルと詩梁は直立不動のまま固唾をのんでなにかが起こるのを待った。
しばらくしてから、瑞生がソードに柄をつけるために龍の鱗に木箱ごとソードを投擲したときと同じように、龍の身体が赤く光りはじめた。前回はソードの突き刺さった鱗のみが点滅したが、今回は龍の身体全体が赤く点滅しだした。やがて龍の身体は、ソードの突き刺さっているその部分を起点として、それまでのくすんだ灰色から、生命の息吹そのもののような濃い緑色へと、鮮やかに色が塗り重ねられていった。
同時にそれまで晴れわたっていた空をぶあつい雲が覆いはじめ、雲のなかに縦横無尽に光線が走りまわって雷鳴が轟いた。ブルーベルが空を見あげながら、唇だけを歪めて皮肉たっぷりな笑みをこぼすと、誰にともなく言った。
「‥‥雰囲気バツグンだな。こういう粋な演出をするところだけは、カエデのお嬢ちゃんを素直に褒めてやってもいいかもしれん」
しばらくしてから、雷鳴に紛れて、地響きのような音が鳴りわたった。三人はあたりを見まわした。
「おい、なんだこの音は」
ブルーベルの独りごとのような呟きを瑞生が拾いあげる。
「おそらく龍の悲鳴です」
「悲鳴? こんな地響きのような音が龍の悲鳴だってのか?」
「ながい眠りからめざめたばかりで、ちゃんと声が出ないんです」
ブルーベルは瑞生のほうを向いて笑いかけたが、相手の真剣な表情を見てすぐに真顔に戻して言った。
「そいつはまた、やたらとリアルな設定だな」
「仮想空間というのは、どんな代物を現出させようと、プログラムの構造上、どうしても現実の因果関係の法則を忠実に再現せざるをえない仕様になっているんです」
「龍なんていう現実には存在しないものを存在させているのにか?」
「ええ」
低周波のような響きは、段階を経て少しずつ音域が上昇していき、やがて高周波へと変化していった。それまで地面にばらまかれていた音符が、空から落ちてきたひとつの網によって掬われて引き揚げられ、上空のある一点からより強度を増して発信されるような音域の移行だった。それはまるで軍事目的で使用される特殊な音波のように聴覚を圧迫した。瑞生とブルーベルと詩梁はそろって耳に両手を当てる。ブルーベルが耐えきれないように叫んだ。
「勘弁してくれ、鼓膜が破れてしまいそうだ」
瑞生も両手を耳に当てたまま、大声で叫んだ。
「ブルーベル、突き刺さっているソードで龍の身体を思いきり深く抉ってから、すぐに引き抜いてください」
ブルーベルは無言でうなずくと、瑞生に言われたとおりにふたたびソードの柄を握って、ソードの刃を龍の身体のさらに奥深くへと押しこんだ。そしてブルーベルがすぐさまソードを引き抜いたつぎの瞬間、あたかも掘削機のシャベルの先端が帯水層に当たって、そこからいきおいよく湧き出た地下水が天をめざすように、龍の傷口から血飛沫が景気よく噴き出してきた。深紅の血飛沫は、まるで着物に模様をえがく友禅職人が大胆に筆を振るったように、瑞生やブルーベルや詩梁の身体に派手に飛び散った。
龍はさらに甲高い悲鳴をあげ、前足をもぞもぞと動かしはじめた。瑞生たちの立っている場所からかなり後方で薄く折りたたまれていた翼が、軋む音を立てながら扇子のように広がっていった。翼は最初のあいだ痙攣しているように細かく震えているだけだったが、やがて慣らし運転でも終えたように、滑らかな動きとなって上下に運動をはじめる。それこそ巨大な扇子を地面にむかって叩きつけているようなその風圧が瑞生たちのもとに届いて足もとを揺るがせた。さらに龍が前後の足を動かそうとしているため、地震のような揺れもそこに加わった。そしてついさっきまで石化して微動だにしなかった巨大な龍は、まるで生まれてこのかた自分の意志で身体を動かすことのできなかった動物が、節々を暴れさせ不器用に七転八倒して起きあがるようなダイナミックな動きかたをした挙げ句、鞭をしならせるように全身をうねらせ大地に一撃を与えて、とうとう空に舞いあがったのだった。
四方八方から風が吹きあがった。いや、風が吹くというよりも、空気が動くという表現がぴったりだった。空中で龍が身体を動かすたびに、何層もの空気が重量を伴った目に見えない物体として、瑞生たちの立っている場所に押し寄せてくる。たちまち砂塵が舞って、三人の視界を遮った。詩梁はとっさに近くに立っていた瑞生の着ているジャケットの端をぎゅっと握り、自分の身体をぴったりと瑞生に預けることで、かろうじて地面に立っていることができた。瑞生は瑞生で、そんな詩梁の身体を支えているのがやっとというありさまだった。ブルーベルがどこにいるのかさえもわからなかった。
龍がぶあつい雲を突き破りながら急激に高度をあげて遠ざかっていったため、地上に吹き荒れていた風はほどなくしておさまった。砂塵は緩やかに地面へと戻っていく。瑞生のすぐ近くに立っていたブルーベルが、ぶあつい灰色の雲にぽっかりと空いたおおきな穴を見あげながら、深く息を吐いて言った。
「まったく、地面に立っているだけで精一杯だったな。しかし現実に龍なんてものが存在して、動きまわったとしたらこんなことになるのか」
それにたいして瑞生がなにか言おうとしかけたところで、背後のほうから聞きおぼえのある声がした。
「あー、いた」
メグの叫び声がして、瑞生とブルーベルと詩梁はいっせいにそちらのほうを向いた。瑞生の顔を見たとたん、メグの表情はみるみる緩んでいった。メグは両手でソードを握ったまま、半ベソの顔になりながら、お湯をかけられた海苔のようにふにゃふにゃな声で言った。
「瑞生クーン。お懐かしやー」
その声を聞いた瑞生は、苦々しい表情を浮かべてメグに向かって言った。
「お前はこんなときでも、緊張感ってもんがまるでないな」
メグは恋する乙女のように頬を赤らめ、なにやら恥ずかしそうに上目遣いに瑞生の顔を見あげながら、ご陰キャさまと話しているときとは露骨に声色を変えて言った。
「だってぇ、丸一日会ってなかったんだもぉん。おまけにあたしに相棒としてあてがわれたのはあんなポンコツだったわけでしょ。それで瑞生クンの顔見たら、そりゃこんな声も出ちゃうわよ。‥‥でも安心したあ。この感じだと瑞生クンは詩梁ちゃんに籠絡されてるわけじゃなさそうだね」
瑞生はその言葉を無視して、メグのすぐうしろに立っている由香に目をとめた。
「もしかしてその女性が、ご陰キャさまの憧れの女性なのか?」
「うん。さすが瑞生クン、ちゃんとわかってたんだね。すんごく簡単に言っちゃうけど、陰キャのやつが、高校時代に本格的に付きあうまえに、笛舐めてご破算になっちゃった女の子なんだって」
瑞生がドン引きしたように顔を歪めながら言った。
「なんだそりゃ。あいつ、そんな性癖があったのか」
「龍を倒したら瑞生クンからもきちんと言ってやってよ。そんなんじゃ一生カノジョなんかできないぞって。ソードの柄のほうをつかってお尻ぺんぺんしてやってよね」
「無事に龍を倒せたらな。でもちょっと動いただけでこんなに風が起こるんじゃ、龍に近づくことさえできないぞ」
「大丈夫。瑞生クンのほうにも預言の書かれた石板ってのがあったと思うけど、こっちにも石板があってさ、そこに刻まれた伝説によると、神職の血がながれる娘がフルートで曲を演奏しているあいだは龍を鎮めることができるんだって。ね、由香っち。あれ、由香っち、フルートはどうしたの?」
由香が困ったような表情を浮かべながら両手を広げて言った。
「それが、陰キャさんが持っていってしまったんです」
「は? なにやってんのあいつ」
瑞生とメグと由香がご陰キャさまの姿を捜すと、ご陰キャさまは少し離れたところで、由香のフルートの吹きぐちに口をつけていた。みんなの視線に気がつくと、ご陰キャさまはすぐにフルートから口を離して顔をあげ、よくわからないキメ顔をつくりながら由香に向かって言った。
「由香りん、ごめん。君のことが好きで君の笛舐めちゃったんだ。心から謝るよ。ほんとにほんとにごめん。‥‥こんなどうしようもない俺を許してくれる?」
「え‥‥」
由香はそう言ったきり、困惑したような表情を浮かべていたが、やがて頬を赤らめ、うつむきながら恥ずかしそうな声で言った。
「‥‥はい。許します」
由香はそのまま恥ずかしそうにうつむいたままだったが、高まる感情を抑えきれないようにふたたび顔をあげると、なぜか嬉しそうな表情を浮かべ、フルートを握りながら優しい表情でこちらを見ているご陰キャさまの顔を、熱いまなざしでじっと見つめかえしたのだった。キョトンとした表情で一連のながれを黙って見ていたメグが、ふとわれにかえったように、縋るような表情をしてうしろを振りかえり、瑞生に向かって大声で叫んだ。
「なにこれ。いったいなに見させられてんの。ねえ、答えてよ、瑞生クン。あたしたち、いったいなに見させられてんの」
しかし瑞生はあくまで真面目な表情を浮かべたまま、淡々とした声で言ったのだった。
「‥‥メグ、お前がいま見ているのは、人類の歴史のなかでもっともロマンティックな光景だ」
瑞生のその返答に、メグはあんぐりと口を開けた。そしていま見たばかりの悪夢を振り払うかのように、ぶんぶんと頭を振りながら喚き散らした。
「は?‥‥いや、そんなわけないでしょ。これのどこがロマンティックなのよ。答えてよ、瑞生クン、これのどこがロマンティックだってのよ。もう。わけわかんないわよ。認めないからね、こんなのがロマンティックだなんて、あたし、いっさい認めないから。‥‥んもー、あんたたちってやっぱ同じ穴のムジナだわ」
瑞生とメグがそんなやりとりをしているあいだ、ご陰キャさまはずっと由香と熱く見つめ合っていたが、やがて視線を落として、手に持っているフルートをじっと見た。そしてご陰キャさまは、それが自分の失われた青春と別れを告げる最後の儀式ででもあるかのように、またフルートを持ちあげて吹きぐちに軽くキスをしたのだった。
ご陰キャさまがフルートに口をつけたときに音がピーッと鳴った。すると、まるでさんざん土下座して謝りたおして許してもらったチンピラに、もうこの距離では聞こえないだろうと悪口を言って、それがちゃんと耳に届いて引きかえしてくるみたいに、龍が空を急降下してきて猛スピードでこちらに向かってくるのであった。由香や詩梁やブルーベルも含めて、その場にいた人間の全員が、殺気にみちみちた表情でご陰キャさまを睨みつけた。ご陰キャさまはフルートを手から落としてぽつりと言った。
「あ、やばっ‥‥」
すかさずメグが龍が向かってくる軌道のうえに進んでいって、両手でソードをぎゅっと握りしめながら言った。
「ほら、詩梁ちゃんと由香っちはあたしのうしろに隠れて。心配しないでいいよ。ちゃんとあたしが守ってあげるから」
詩梁はとまどっているような表情を浮かべながらメグに言った。
「え、あの‥‥どなたですか」
「あたしはメグっていうの。こう見えて、この伝説のほんとうの主役なんだ。詩梁ちゃんのその類い希な美貌をもかるく凌駕する、このきゃわいいきゃわいい華奢な女の子が龍を討伐するなんて、にわかには受け入れがたいことかもしれないけどね。こんな龍なんかほんの数秒ですぐ片づけちゃうから、あたしを信じてくれたらいいよ」
詩梁はどう判断したらいいかわからない様子で、困ったように瑞生の顔を見た。瑞生は真剣な表情で詩梁に向かってうなずいて優しい口調で言った。
「その女の子の言うことを信じて」
その瑞生の言葉に、詩梁はこくんとうなずいた。そして詩梁と由香は早足でメグのうしろにまわると、龍は竜巻のような突風とともにメグのもとに近づいてきた。風が吹き荒れても微動だにしないメグのうしろで、ふたりの巫女は吹き飛ばされてしまわないよう、お互いの身体に両手で懸命にしがみついていた。
龍はめいっぱいまで自分の顔をメグに近づけると、石化していたときのように身体をぺたんと地面につけて翼を静かに折りたたんだ。そしてその距離で龍はメグを威嚇するようにおおきく口を開いて咆哮をあげた。それから口を閉じた龍は、相手の出方を窺うように頭を少しだけ傾け、ふたつのおおきな目玉でぎろりとメグを見据えたのだった。
しかしそれっきりメグは、両手でソードを構えたまま、ぴくりとも動かなくなってしまった。いつまで経っても動こうとしないので、とうとうご陰キャさまがしびれを切らせて不審そうな声で言った。
「あれ、メグちん、どうしたの。まったく動かなくなっちゃったけど」
まだわからないのかよ、とでも言いたげな表情でご陰キャさまのほうを向きながら、瑞生が呆れたような口調で言った。
「気絶したんだよ」
「は? 気絶?」
瑞生はこうした事態がさも当然だとでもいいたげな表情を浮かべて、ご陰キャさまに向かって冷静な声で言った。
「なんだ。お前は十七の女の子が、ほんとに龍を倒してくれるとでも思ってたのか」
「いや‥‥でもさ‥‥メグちんは自分ひとりででも龍をやっつけてやる、とか言ってたんだけど」
瑞生は表情を歪めながら言った。
「お前はそんなこと信じたのかよ」
ご陰キャさまは目を伏せてせわしなく頭を掻きながら、いいわけがましい口調で言った。
「でもメグちん本人がそう言ってたんだけどなあ‥‥」
龍がふたたび口を開き、舌を突き出してその先端でメグをちょこんと突くと、気絶したメグは握っていたソードを地面に落として、そのまま背後に倒れた。地面に倒れたメグは完全に白目を剥いているのだった。龍は倒れたメグのすぐうしろに立っているふたりの女性の下半身を咥えると、たちまち空高くへと登っていった。瑞生は巻き起こる風を堪えながら、龍に咥えられて遠ざかっていく詩梁と由香の姿を少しのあいだだけ目で追っていたが、すぐにご陰キャさまのほうに視線を落として言った。
「ご陰キャさま、お前のほうの石板になんかおかしな箇所はなかったか?」
ご陰キャさまは呆然とした表情で龍の姿を目で追っていたが、そう話しかけられて、視線を落として瑞生の発した問いに反射的に答える。
「おかしな箇所? 全部おかしかったけど‥‥瑞生クンの言ってるのってもしかして、龍の向こう側から悪漢が襲ってくるってとこ?」
それを聞いた瑞生はおかしそうに笑った。
「悪漢ってか。言ってくれるよな。‥‥よし、じゃあお望みどおりに襲ってやろうか」
瑞生はそう言って、ズボンのポケットから自害用の小型拳銃を取り出すと、ご陰キャさまの頭に狙いをさだめた。




