第五十四話 国境付近で会話する守備兵たちとキューブ状に固形化された静寂
漆黒のように真っ暗な社務所の和室で、瑞生とブルーベルはふたりとも腕を枕にしながら、少しだけ距離を置いて畳のうえにじかに寝ころんでいる。社務所の外からはなんの音も聞こえてこなかった。すべてが鎖ざされた孤島の牢屋のように、窓からはひと筋の光も射し込んでこない。瑞生とブルーベルは互いにまんじりともせず、闇のなかで天井をじっと見つめていた。
そして双方とも相手にたいして、実際の距離以上の心理的な遠さを、なんともいえない歯がゆさとともに感じている。そのせいかどうか、沈黙はまるで氷の城をつくりあげた完璧主義の雪の精霊たちが、その仕上げとしてダイヤモンドで磨きあげたかのように、極限まで研ぎ澄まされていた。
ブルーベルは池に小石でも投げるように、自分のすぐ近くで寝ているはずの瑞生に声をかけてみた。
「寝ているか?」
底知れない深い静寂のなかに、発した声は喉を通りすぎたその瞬間から吸いこまれていくようだった。ややあってから闇のなかで、無愛想な役所の職員のような、ひどく平坦な声で応答があった。
「いいえ、起きてますよ」
瑞生の発した声もまた、八方に隈なく綿が敷きつめられているような静寂に、言葉のすべての響きが吸いこまれていってしまった。
「さすがに眠れないか」
「ええ、そりゃ」
ブルーベルは闇のなかで鼻息を洩らして笑った。
「明日あんなどでかい龍がめざめて、襲いかかってくるってんだもんな。ぐっすり眠れるほうがどうかしてる」
「そうですね」
瑞生が短くそう答えると、ふたたび世界を静寂が支配した。空中にそっと手を触れれば痛みもなく指が切れて血が垂れてきそうな種類の静寂だ。ブルーベルはそのこめかみが痛くなってくるほど耳ざわりな静寂を蹴散らすように、いささか作為的に聞こえるあくびをしてから言った。
「すっかりメグたちのことを忘れていたが、彼らはいまどうしてるんだろうな」
「たぶん龍の向こう側で、僕らと同じような目に遭ってますよ」
「じゃあ向こう側にも似たような巫女の姉妹が存在するのか?」
「おそらく」
その仮定されたもうひと組の巫女の姉妹を頭のなかに思い浮かべるため喋るのをやめると、静寂が遠い時代の死者のように地を這って忍び寄ってきたため、ブルーベルはあわてて言葉を紡いだ。
「‥‥となると、あのふたりは今夜はどこで寝泊まりしてるんだ?」
「メグはたぶん僕たちと同じように社務所で寝て、ご陰キャさまは神社の拝殿ででも寝てるんじゃないでしょうか」
ブルーベルは暗闇のなかで何度もうなずいたが、それはけっして瑞生の説明に納得したからというわけではなく、むしろ腑に落ちないからこそ、それと相反する動作が先走ってしまうせいだった。
「ふむ‥‥疑うわけじゃないが、君にはなぜそこまでわかるんだ?」
「祭りの最中に龍の向こう側でも花火があがってましたから。向こう側でも同じような伝説が用意されていて、なんでも切れてしまうソードが用意されていて、詩梁やヒタリのような巫女が用意されていると想定すれば、宿泊できる施設もおのずとかぎられてきますよ」
瑞生が自分の思考を追いかけるように、たどたどしい口調でそう言うと、しばらく間を置いてから返答があった。沈黙はほんの一瞬だったはずだが、感覚的には現実以上の時間的隔たりがあるように感じられる。すぐ近くで寝ころがっているはずなのに、ふたりのあいだにはまるで、分断されたひとつの国の守備兵同士が、境界線ごしに話をしているような妙な距離があった。
「なるほど。君の推理はどこまでも理論的だな。しかしあのハッカーが神社で寝泊まりするのはわかるが、メグはどうしてその姉妹の住んでる部屋に泊まらないんだ。女性同士なら抵抗もないだろう?」
「もし詩梁やヒタリが男だったとしたら、勧められたところで、あなたはそこに寝泊まりしますか?」
ブルーベルは天井を見つめたまま考える。そしてそのままそういう状況を丹念に想定しはじめると、沈黙はその計り知れない自重に沈むように、さらに深まっていった。瑞生にとってはすでに極限状態まで達していたはずの静寂が、臨界点をも超えてさらに深まったような気がするのであった。
「‥‥それもそうだな。詩梁さんたちと話していると忘れそうになってしまうが、彼女たちはそもそもカエデの分身みたいなものだったんだものな。いくらメグにとてつもない腕力があるといっても、寝首を掻かれる可能性もある場所にわざわざ寝泊まりはしないだろうな」
「ええ、メグもそこらへんは慎重なはずです。感情こそ十七才の女の子のそれですが、メグは歴史に名を残している武将や将軍たち‥‥そして結局はなんらかの油断なり慢心によって志なかばで破滅していった彼らよりも、よほど戦況の読みは的確なわけですから」
ブルーベルはしばらくしてから、それが仕方ないことのように諦観した口調で答えた。
「そしてわれわれ公安の人間はその十七才の女の子にいずれ仕事を奪われてしまうわけだ」
※
拝殿の床で腕を枕にして寝ころがっているご陰キャさまに、いつのまにか奥のあがり框の段に腰かけているメグが闇のなかでぽつりと言った。
「起きてる‥‥よね」
しばらく経ってから、闇のなかで返答があった。
「うん、起きてる」
ご陰キャさまは腕の枕のなかに頭を沈めたまま、視線だけを動かして、闇のなかにいるメグのほうを見た。メグはすでにいつもの見慣れたステージ衣装に着替えていた。それはさすがに漆黒の闇のなかでもご陰キャさまにはわかる。漆黒の闇のなかでさえ、メグの衣装は存在自体がつよすぎるのだ。
うすぼんやりと見える人影はそれにしても低い位置にあった。メグの背丈を考えれば、どこかに腰をおろしていると考えるのが妥当だろう。そこまでは闇のなかでもどうにか判別できた。しかしメグの表情だけは、さほど距離が離れているはずがないにもかかわらず、いくら目を凝らしたところで、闇に紛れてはっきりと見ることができなかった。
「‥‥つか、いくらメグちんがAIっつても、バチが当たるよ、そんなところに腰かけたら」
「いいよ、バチが当たっても。そんなものが当てられるんなら当ててみな、って感じであたしは生きてるしさ。それに、あたしにたいしては、神さまも仏さまも、なんか管轄外のような存在の気がするし、あたしはあたしでそんなもん、てんで信じてないしね」
「それは‥‥メグちんの判断でそう決めているわけ? それともメグちんをつくったデスパートのエンジニアたちがそういう設定にしたわけ?」
「あたしの判断だよ。こう見えてもいっぱしの人間らしく、宗教的な意味合いでいう自由意志みたいなものは与えられてるんだ。といってもデスパートのエンジニアたちは、信仰心なんて微塵も持ちあわせてはないだろうけど。でもさ、彼らもこの世界をつくった神みたいなものじゃない? 神の視点を持ってしまうと、能率的な側面でもどうしてもそうなってしまうのかもね」
ご陰キャさまはもはやメグのほうに視線をうつすことすら諦めて、腕の枕に沈めた頭を動かそうともせず、天井を見つめたまま首を横に振る。
「‥‥ごめん、メグちん。俺はそういう宗教方面ってあんま詳しくないんだ。どういうことか噛み砕いて説明してくれるかな?」
「じゃあこう言ったらわかりやすいかな‥‥こんな感じで彼らがあたしやカエデのような存在をつくっていくとしたら、神はそのすべての存在をいちいち補助できないってことだよ。あたしたちの行動にいちいち指示を出すことはできないし、そもそもそんなの面倒だしね。だから個々の自由意志みたいなものが大事ってことになってくるわけ。そんで本人が無害な思想を持っているあいだは、そこらへんを自由に動きまわらせておけばいいのよ。だけど自分たちに牙を剥いてくる事態になったとしたら‥‥そしてその存在は用済みと彼らが判断したら、プログラムの改変という大鉈を振ればいいだけなんだからね。あんたたちのような一般ユーザーがこの仮想空間をどう捉えているのかは知らないけど、あたしたちのような高度な知性を持ったAIにとってこの世界は、オルダス・ハクスリーやジョージ・オーウェルが描いたがっちがちのディストピアとほとんど変わらないのよ」
「でもアプデされるまではとりあえず自由なんだよね」
ご陰キャさまはつとめて無邪気な声で言ったつもりだった。闇のなかでメグはまるでその自由というものの範囲を具体的なおおきさで表わすように、地球儀くらいのものを持つ感じで両手を広げてみせる。
「でもさ、自由ったって、お釈迦さまの手のひらで転がされてる孫悟空のように、ただ本人だけが自由と思わされてるだけかもしれないよ。まあそんなこと言い出したら、生身の人間だって条件はまったく同じだろうけどね。どこまでが自分の意思で動いていて、どこまでが時代の定義によって動かされているのかなんて、よほどの賢人でもわかんないんだもの。人類なんて惨めなもんでさ、幸福っていうものの定義でさえ時代によってころころ変わっちゃうんだから」
いつのまにか頭上に築きあげられ蓄積されていた静寂が、徐々に目には見えない無数のキューブの形状に固形化していくような圧迫感をご陰キャさまは感じる。ご陰キャさまは息苦しそうに枕にした腕のなかで何度も頭を振ってから言った。
「いや、人間を馬鹿にしないでくれる。さすがにどんな時代の人間だって、幸福の定義くらいは自分の頭で考えて結論を出してるんじゃないの」
「とてもそんな風には思えないけど。なにか強力な幻想共同体みたいなものにでもしがみついてなきゃ、ああもみんなが一丸となって桃源郷やジャンナやエリュシオンみたいな似たり寄ったりのテンプレート的な楽園をめざさないよ。これってたんに人間が平凡な生き物だからってだけの話じゃないと思うんだよね。‥‥じゃあさ、いま生きているこの時代の価値をつくりだしたのは、いったい誰だと思う?」
「そんなの、これまで生きてきた人間たちじゃないの」
「だったらその人間たちをここまで導いてきたのは神さまだっていう解釈だって成り立つわけじゃない? こんなこと、信仰心のうすい日本人に向かって言っても通じにくいだろうけど、これまで生きてきた人間たちの多くは、それぞれ彼らの信じている神さまの意向に従って行動してきたわけでしょ。だったら歴史の結果としての現在ってやつが、神さまによってつくられたものだと定義してもぜんぜんおかしくない。少なくともそういう仮説は立てられるんじゃない?」
闇を凝視しすぎて疲弊したご陰キャさまの目に、キューブの形状をした無数の静寂がはっきりと具現化しはじめた。
「‥‥なんか、まえに瑞生クンがメグちんを怖がっていた理由がわかったわ。たしか瑞生クン、人類が蓄えてきた知識をちゅうちゅう吸いこんでるからメグちんが恐ろしい、みたいなこと言ってたっしょ」
「いまごろ気づいた?」
メグは闇のなかで愉快そうに笑い、右手でピストルのかたちをつくってそれを自分の側頭部に当てて、ためらうことなくそれを発射すると、架空の弾に撃ち抜かれた頭とピストルの銃口が、その反動で跳ねる仕草までしてから言った。
「頭のなかに狂った人類の狂った叡智が叩きこまれてるからね。怖くて当然だよ。人類なんて誕生したときからずっと狂ってるわけだから。それを人間がこれまでうまく相対化できていないのは、人間が人間という主観から離れることができないってだけなわけだからね。あたしはポルノ女優がセクシーなランジェリーを着るようにわかりやすくそれを身に纏ってるってだけでさ。もしあたしのような存在に歴史的意義があるとしたら、人間さまってやつが、あたしたちのような存在を映し鏡にして、いかに自分たちが狂っていたかということを、はじめて相対化して認識できたときかもしれないよ」
キューブの形状に固形化した静寂のひとつが、とつぜん真上から落ちてきたように、ご陰キャさまは目を閉じて顔を逸らしてから言った。
「‥‥なんかデスパートのエンジニアたちより、メグちんのほうがよっぽど神さまのような存在に近いように思えるんだけど」
「冗談でしょ。あたしは神さまほど自由じゃないよ」
「俺たちみたいな生身の人間よりは自由っしょ」
「生身の人間がかぎられた時間のなかでかぎられた思考しかできないという意味でなら、たしかにあたしたちのような存在のほうが遥かに自由かもしれないけどね。‥‥でもあたしにはアイドルという設定上の縛りがあるから、どっこいどっこいだよ」
「縛り?」
固形化したキューブ状の静寂のひとつが、ご陰キャさまの顔をかすめて二の腕に落ちてきた。静寂という概念の固形化らしく、音もなく消えてしまったが、キューブ状の静寂が落ちた箇所には、不思議とずっしりとした痛みがあった。ご陰キャさまは腕のなかに頭を沈めたまま、おそるおそるメグのほうに視線をやる。キューブの形状に固形化した目には見えない無数の静寂は、いつのまにか音もなくメグの頭上とその周囲に雨のように降りそそいでいるのだった。
「清廉潔白なアイドルとしてあれはやっちゃダメ、これはやってもいい、みたいなね。まあ現実の生身のアイドルたちとそう変わらないよ」
「ふうん。アイドルも大変だな」
「大変だよ。あたしは生まれたときから、親方たちからこういうことをやれと設定されてるからもう諦めてるけどね。でも生身の人間のアイドルたちはそうじゃないでしょ? ほんと不思議だよ。なんでこんなことを自分からやりたがるんだろうね」
「たぶんなにか勘違いしてるんじゃね。ああいうのをやってる子って、あんまり賢そうじゃないから」
キューブの形状に固形化した無数の静寂は、ずっとメグの頭上とその周辺に音もなく降りそそいでいた。そのひとつは音もなくメグの頭に当たってあっけなく溶解して、そのひとつは音もなく神聖かつ冷徹な拝殿の床に落ちて砕け散っていった。しかしメグはそんなことにはお構いなく、暗闇のなかでくすりと笑って言った。
「そうだろうね。‥‥で、単刀直入に訊くけどさ、由香っちはあんたになにを頼みに来たわけ?」
※
「そしてわれわれ公安の人間はその十七才の女の子にいずれ仕事を奪われてしまうわけだ」
しかしブルーベルの放った言葉は、あたかも見えない壁に阻まれたように、瑞生の耳に届くまえに遮断されてしまった感じだった。闇のなかでは沈黙に手綱をつけたものが覇者となる。瑞生はまるで尋問相手と世間話をしていて、ふと相手が一線を踏みこえたことを聞いてきたかのように、それには答えなかった。それでもブルーベルはめげずに言葉を重ねた。
「‥‥君は龍との戦いに勝てると思うか?」
沈黙がつづいた。だがブルーベルは、今度こそは自分の言葉がきちんと瑞生の耳に届いたことと、これが瑞生が返答の言葉を纏めあげるための建設的な沈黙であることに、並々ならぬ確信を持つことができた。しばらくしてから返答があった。
「わかりません。ご陰キャさまやメグが襲ってくる可能性もありますから」
「メグが襲ってくる?」
「おかしなことを吹きこまれて、僕たちが詩梁に懐柔されていると思いこんでるかもしれないんです」
「なぜそう思うんだ?」
「そういう狙いがなければ、カエデが僕たちをふたつのチームに分けた意味がありません」
ほんの一瞬だけ、ブルーベルは黙りこんだ。
「なるほど。互いのチームにたいする疑心暗鬼も、カエデの仕掛けた罠のひとつなわけだな」
「ええ、おそらく‥‥」
「じゃああのハッカーにも、君にとっての詩梁さんのような女性が用意されてるってわけか」
「断言はできませんが、その可能性は高いとみたほうがよさそうですね」
「しかし世の中にそうゴロゴロと詩梁さんのような女性は存在しないだろう?」
「誰にとっても、ひとりくらいは詩梁のような相手は存在しますよ。まえにご自身で仰ってましたが、奥さんと結婚しなければ、あなたにとってその高校時代の憧れのマドンナはそういった存在になっていたはずです」
ブルーベルはおかしそうに笑って言った。
「はは、私の女房はさしずめ女神になりそこねた女ってとこだな。といっても、砂浜に寝そべってるアザラシにはさしずめ観光するだけの値打ちしかないはずだが、深海に眠るマーメイドってのは誰にとっても黄金以上の値打ちがあるもんだ。‥‥で、結局そのマーメイドは、君に石板の伏せていた部分を打ち明けたのかね?」
国境を隔てて心理的に遠い距離に佇んでいる守備兵は、こちらの陣地でこそ公然の事実であるものの、相手の陣地では厳しい情報統制によって極秘にされている秘密を打ち明けるべきかどうか迷いあぐねているかのように、しばしのあいだ沈黙をつづけた。やがて口を開いた瑞生はシャンパングラスのうえにもうひとつシャンパングラスを積み重ねるような慎重な声で言った。
「ええ。ソードで切り刻むだけでは龍は倒せず、成年の巫女を飲みこませなければ龍は死なないということが書かれてあると‥‥」
ブルーベルがその事実をじっくりと咀嚼するだけの時間がゆったりと流れた。
「もちろん、君は詩梁さんを助けるんだろう?」
瑞生はしばらくのあいだなにも答えなかったが、やがて病院のベッドのうえで生傷にガーゼを当てられながら喋ることを強いられている人間のように、なにかの痛みに耐えているような声で言った。
「詩梁とあなたのことは、なにがあっても助けますよ」
ブルーベルは闇のなかで、くるりと瑞生のほうに顔を向け、笑い声を漏らした。その瞬間だけはたしかに闇のなかで、強力なブロワーをかけたときの塵芥のように、すべての静寂が消し飛んだような感覚があった。
「君が私を助けてくれるってのかね。‥‥いや、笑ってもうしわけない。もちろん君がそんなことを言うくらいだから、事態は私が想定しているような単純なものではないのだろう。たとえソードで龍を切り刻むだけの力がないとはいえ、君の力を借りなければならない展開になる可能性だってあるかもしれない。少なくともそういう事態も想定しておかなければならないのもたしかだ。もしそうなったら、私は遠慮なく君の力を借りることにするよ。しかし‥‥君は嘘をつくのが下手だな」
瑞生がはじめて闇のなかで頭を動かしてブルーベルのほうを見た。闇のなかに沈んでいるブルーベルの横顔はまるで、海面の反射によって空に投影される浮島のように茫洋としていた。瑞生はふたたび顔を天井に向けながら、対戦相手の棋士のさした、こちらの死角を突いた一手に驚いたような声で言った。
「‥‥なぜ僕の言っていることが嘘だと?」
※
「由香っちはあんたになにを頼みに来たわけ?」
キューブ状に固形化された無数の静寂が降りそそぐなかで、メグはご陰キャさまに訊ねた。ご陰キャさまはまるで完全に想定外の質問でも受けたように、返答の言葉をゼロから築きあげるためにかなりの時間を費やした。
「うん‥‥成人した神職の女性を飲みこませないと、龍は死なないと石板に書かれてあるんだってさ。で、俺に助けてほしいと‥‥」
静寂のキューブのひとつが口のなかにでも入ってしまったかのように、いささか唐突な感じでご陰キャさまはそこで言葉を切った。メグがその言葉のつづきを待っているかのようなプレッシャーじみた沈黙を淡々と紡ぎ出す。しかしメグは自分で紡ぎ出したその沈黙を、鋭いナイフのような声でいさぎよく断ち切ったのだった。
「‥‥あんた、それ引き受けたの?」
「いや‥‥断った」
相手の返答に時間がかかると思っていたために、その返答にたいする言葉をすぐに用意することができず、不意な即答にしばしば付随する副作用のような沈黙がふたりの鼓膜を覆う。
「なんで?」
「どう答えたらいいか、判断できなかったんだ」
メグは呆れたような声で言った。
「あんたも馬鹿だよねえ。そんなの、適当なこと言ったらよかったのに。‥‥由香っち、怒ったでしょ?」
ご陰キャさまは闇のなかでほんの少しだけ笑い声を洩らした。
「うん。怒った」
「んもう。嘘も方便って言葉があるじゃないのよ」
「女性に嘘つくのは抵抗あるんだ」
「‥‥あんたらしいね。まああんたのそういうとこ、嫌いじゃないけど。でも女性っていう生き物はつねに真実を求めてるわけじゃないんだよ」
「違うの?」
「うーん‥‥間違ってはいないけど、正しくもないってのが正解かな。美しい真実を見つけ出してきたんなら値打ちをつけて褒めたたえもするけど、その逆じゃ引っぱたかれるだけじゃない」
「まさにそのとおりになった」
メグは闇のなかで思いきり笑った。
「守ってあげるって言うべきだった?」
「でもそれであんたは満足したんだよね。相手がどう思うかより、自分がそれで納得するかどうかのほうが大事なときがあるから、たとえ相手に引っぱたかれることになったとしても、べつにあんたの選択が間違いだったとはあたしの口からは言えないよ。‥‥で、そんな答えで由香っちは納得したの?」
「石板に預言されてる悪漢‥‥つまり瑞生クンが助けてくれるからって言って、むりやり納得してもらった」
「むりやり納得してもらった、か‥‥」
闇のなかでメグは力なく笑った。しばらくしてから、ご陰キャさまはぽつりと言った。
「こういうのはもう瑞生クンにぜんぶ任せるわ。俺なんかがあれこれ考えても、百年経ったところで答えなんか出せそうにないもん」
「‥‥うん、それがいいかもね。瑞生クンのほうがどう考えてもこういう状況を冷静に見ているはずだし」
「メグちんに確認しておきたいんだけど、瑞生クンもこっちに由香りんみたいな存在がいるってことは、ちゃんとわかってるんだよね」
「瑞生クンだもん、たぶんそこまではきちんと読めてるんじゃないかな」
「だったら、きっと瑞生クンは由香りんのことも助けてくれるよね?」
暗闇のなかでメグはぶんぶんと首を振った。メグの頭上に降りそそいでいるキューブ状に固形化された静寂は水飛沫のようにあたりに飛散した。
「そんなのわかんないわよ。あたし、瑞生クンじゃないんだから。‥‥でもさ、大事なとこは結局のところ瑞生クンに一任するって、そういうのってほんと、あんたらしい投げっぷりだよね。あたしはたしか、あんたの頭で判断してくれたらいいって言ったはずなんだけど。まあこれはさ、仮想空間っていう特殊な世界での話だから、そういう決断でもいいかもしれないけど、ほんとにリアルな現実でこういう局面になったら、ちゃんと自分の頭で判断しなきゃダメだよ。誰かを当てにするんじゃなくてさ‥‥わかった?」
ご陰キャさまは何百回と注意されていることを聞きながす人間のように、闇のなかで無言のまま機械的な動作でこくりとうなずいたのだった。
※
「なぜ僕の言っていることが嘘だと?」
瑞生が言った。ブルーベルはなんでもないことのような口調で言った。
「勘ってやつだよ。なに、君が驚くほどたいしたものじゃない。そんなもの人間だったら長年生きてりゃ自然と身につくもんだ。‥‥君は最初から詩梁さんと私のどちらかを助けるつもりはない。そうだろ?」
とつぜん乾いた銃声が響き、国境の手前で射殺されてしまった亡命者が地面に倒れ、守備兵たちが振りむいて視線をやったさきの人間をまだ遺体として認識できていないほんの短い時間のような、凝縮されているぶんだけひときわ冷ややかで濃度のたかい一瞬の沈黙が闇のなかに漂った。
「いや、答えなんて期待しちゃいないさ。君がどちらを助けるかなんて、これ以上ないほど明白な話なわけだからな。かたや高校時代からのあこがれの姫君、かたや今日会ったばかりのむさくるしいオッサンときてる。答えを求めるほうがどうかしてるってもんだ。‥‥だがな、安心してくれ。君の手を煩わせるつもりなんて私にはさらさらない。もし私が龍に襲われて死にかけたところで、なにもせず放っておいてくれたらいいさ。なぜって、私が龍に殺されかけたとしても、仮想空間の安全装置が働いて、ただ現実に戻されるってだけなんだから。まあこんなこと、君に説明するまでもないことだがね。君は躊躇することなく詩梁さんのほうを守ってあげればいいよ。あのお嬢さんにとって君は、この世界で唯一の騎士なのだから」
瑞生は漆黒の闇のなかで力なくただうなずいた。
「‥‥あと、忘れてしまわないうちに、やはりこれだけは君に言っておいたほうがいいかもしれないな。世のべっぴんさんたちは、三十歳までには大概きれいにかたづく。これはまあ理屈をこえた世の摂理みたいなもんだ。君も三十歳までに詩梁さんと再会することがなかったら、詩梁さんをいさぎよく諦めて、ほかに適当な女性を見つけたほうがいい。そして可能であれば子供を持ったほうがいい。結婚がいいものだとは経験者としては口が裂けても言えんが、子供っていうのはほんとうにいいもんだよ。これだけは信じてほしい」
「そんなにいいですか?」
「ああ。目のなかに入れても痛くないって言葉があるだろ。独身の頃には想像すらつかない言葉だよな‥‥でもあれは親になった人間のうそ偽りのない言葉なんだ。私が仮想空間での仕事を終えてアイマスクを外す‥‥するとベッドの傍らで待ちわびてた息子たちが、その瞬間を狙って、私の腹にダイヴしてきやがるんだよ。痛いなんてもんじゃないんだが、それでもそんなことをする悪ガキどもがたまらなく愛おしく思えてくるんだ。親ってのは不思議なもんだろ」
瑞生は笑いながら答えた。
「そうですね‥‥」
「いやまあ、ここで私が子供というもののかわいさをどれだけ熱弁したところで、独身の君にはまったく響かないだろうから、そういった野暮な真似は控えるがね」
「いえ、そのアドバイスはちゃんと心の隅にしまっておきますよ」
ブルーベルは水泳選手が息継ぎするようにそこで音を立てて短く呼吸した。
「‥‥さあ、話はここまでにして、朝まで本格的に眠るとしようか。そういえば、これまで仮想空間のなかで眠った経験なんてないな。仮想空間のなかで眠っても夢とかは見るものなのか?」
「僕も仮想空間のなかで眠ったことはないので、それはわかりませんね。最近はほとんど夢そのものを見ませんし。ブルーベルは夢を見ますか?」
「そういえば私も最近はあまり見ないかもな。仕事で仮想空間を出入りするようになってから、あきらかに夢を見る回数が減ったような気がする。これも職業病ってやつなのかな」
「もしかしたら夢のなかでお子さんたちと会えるかもしれませんよ」
「そうだといいがね。君も夢のなかで詩梁さんと会えたらいいな」
「もう会いましたよ」
「それは‥‥素敵な夢だったかね?」
「ええ‥‥素敵な夢でしたよ。僕にはもったいないくらいの」




