第五十三話 十年越しの懺悔(メグとご陰キャさまの冒険譚 九)
ひっきりなしに喋りたおす女子ふたりとご陰キャさま、それから道中ずっとむっつり黙ったまま、不機嫌さを隠そうともしない女子おひとりさまの御一行は、とくにこれといったトラブルもなく、なんとか無事に神社へと辿りつくことができた。
御一行は鳥居をくぐってそのまま参道を斜めに横ぎっていくと、社務所のドアの鍵を開けてなかに入った。奥にあるこぢんまりとした小上がりの和室に案内され、メグは由香に勧められるまえからさっさと腰をおろすと、サンダルを履いたまま伸ばした足をばたばたさせるのだった。メグは四畳ほどの和室をぐるりと見まわしながら由香に向かって言う。
「ここが今夜のあたしの宿ってことになりそうだね。ゼイタク言うつもりはないけど、寝具とかはあるのかな」
ご陰キャさまが妙にもじもじしながら言った。
「そのまえにひとつ言っていい?」
メグは目のまえに立っているご陰キャさまを見あげた。
「ん? なに」
「最初の夜だけは優しくしてほ‥‥」
「いや、あんたはべつんとこで寝んの」
メグがぴしゃりと言った。由香がにっこり微笑んでメグに言った。
「陰キャさんはちょっとムリがあるかもしれませんけど、メグちゃんはうちに泊まってくれたらいいよ」
そう言った由香をミキがやはり無言で鋭く睨みつけ、そのミキの顔を見たメグは表情を引きつらせながら、首を振って由香に言った。
「ううん、やめとくわ。なんかあたし、招かざる客って感じだし。んで、こいつは朝まで拝殿のまえにでも縄で括って転がしとくから、気にしないでいいよ。おい、賽銭泥棒でも来たら吠えて教えろよな」
ご陰キャさまは犬の鳴きまねで返事した。由香は困ったような表情をして、しばらく考えこんでいたが、やがてご陰キャさまに向かって言った。
「あんまり褒められたことではないんですが、陰キャさんさえよかったら、拝殿のほうで寝てくださっても構いませんよ」
「ん。だいぶ硬そうな床だったけど、俺用の布団はあるん?」
「いえ、押し入れのなかに布団はひと組だけしかありません。でもこれはメグちゃんに使ってもらうし」
「由香りん、なんか俺にキビしくない?」
ご陰キャさまは不満そうな声で言った。
「うーん。そこはやっぱり男性なので‥‥」
「逆になんでお前はそこまでがっつり寝ようとしてんだよ」
「俺ってちゃんと眠らないと十分にパフォーマンスを発揮できない人なんよね」
「だから明日龍と戦うのはあたしだっつてんだろ。龍が暴れまくってる横で布団敷いてぐっすり寝てろや、このおたんこなすがっ」
「いや、メグちんのほうこそ睡眠とかカンケーなさそうじゃないよ。なんなら不眠不休でも大丈夫っしょ」
「あ? 人のことバケモンみたいに言ってんじゃねーぞこら」
またふたりの漫才がはじまったので、由香はミキとともに社務所のドアに向かって歩き出しながらメグとご陰キャさまに言った。
「まだ屋台の人たちも来てませんから、ここでしばらくゆっくりしててください」
メグがぶるるんと首を振りながら言った。
「うんにゃ、お祭りが始まるまでここでぼーっと待ってるわけにもいかんよ。ねえ由香っち、あたしたちになんか手伝えることってある?」
由香は顎に指を当てながら考えこんだ。
「あるにはあるんですけど‥‥でも英雄のかたがたにそういった雑務をやってもらうのはわるいですよ」
ミキが不機嫌そうな顔をしたまま口を挟んだ。
「本人がそう言ってるんだから、遠慮せず手伝ってもらったらいいんじゃないの。お祭りが始まったら、お姉ちゃんの大判焼きの売り子してもらうのもいいし」
メグが露骨に表情を歪めながら言った。
「え、それはちょっとイヤだわ。龍を討伐に来た英雄が、にこにこ笑いながら龍の大判焼きを手売りするのって、なんかすんごく抵抗あるんだけど」
ミキが目を閉じて首を振りながら、溜め息をついて腕を組み、嫌味たらしくメグに向かって言った。
「口ではやるやると言いながら、結局はやりたいこと選り好みするんすか。ずいぶん立派な英雄もいたもんっすよね」
メグが眉をぴくぴくさせながら言った。
「ちょっとミキちゃん、そういう言い方はないんじゃないの」
「正直な感想を述べただけなんで」
「ふわ。あのさ、この際だからはっきり言っておくけど、あたしミキちゃんよりひとつ年上なんだからね」
「はあ? それがこの話となんか関係あるんですかぁ?」
メグとミキはゴリラのようにだらりと両腕を垂らして、視線だけで火花を散らしはじめた。由香が両手を叩きながら言った。
「ほらもう、すぐバチバチやらないの。じゃあこれからあたしたち拝殿と本殿のお掃除をするんで、メグちゃんにはそれを手伝ってもらおっか」
「あ、それならいいよーん」
由香はあらためてメグの着ている浴衣を眺めた。
「うーん。でもそれだとミキの浴衣が汚れちゃうな。メグちゃんも巫女の服に着替えたほうがいいかも。予備の巫女服がまだ何着かあるし」
メグは自分の着ている水玉模様の浴衣に視線を落として言った。
「ああ、せっかく貸してもらったミキちゃんの浴衣汚しちゃうもんね。‥‥でもあたし、巫女姿なんか似合うかなあ」
由香がメグを励ますように自分の両の拳をぎゅっと握りしめ、力づよい口調で言った。
「大丈夫。メグちゃんみたいにかわいい女の子だったら、きっと似合うと思うよ」
メグはまんざらでもない表情を浮かべ、じつにいやらしくニタつきながら言った。
「そりゃ、似合うのは似合うんだけどもお」
由香は引きつった笑顔を浮かべながら言った。
「メグちゃんてそういうの、ぜったい否定しないんだね」
それまで黙っていたご陰キャさまが、とつぜん重要なことを決心したような表情を浮かべて言った。
「わかった。俺も覚悟をきめて巫女姿になるわ」
「あ、着なくていいです。陰キャさんは境内に提灯を吊るす作業をしてもらえます? いつも商店街の方たちにやってもらっているんですけど、その方たちももうけっこうお年なんで、手伝っていただけるとすっごく助かります」
「いいよーん。力仕事は男の担当だもんね。俺に任せてちょ」
由香が和室の隣りにある小部屋から、二本のロープと畳んだ状態の紙提灯を何十枚と持ってきた。それを見たご陰キャさまは目を丸くした。
「え。こんなあんの」
「はい。参道の両端にある木にそれぞれロープを結んで、適当でいいんでほぼ等間隔で提灯を吊るしてください。陰キャさんの背丈だと脚立はいらないかな」
「おう、りょーかい」
ご陰キャさまはロープと提灯を持って社務所を出ていった。働いた経験さえないご陰キャさまは、まったくこうしたことの要領がわからなかったため、頭を掻きながら考えあぐねていたが、とりあえず参道の両端にある木の片方にロープを結び、そのまま地面に垂らしておくことにした。それから参道に座りこみ、四苦八苦しながら紙提灯の骨をひとつずつ広げていったのだった。
ややあってから、社務所から神々しいまでのオーラを放つ巫女姿の三人が現れた。由香とミキはもちろんのこと、メグまでがおしとやかな所作でご陰キャさまのほうに歩いてくる。ご陰キャさまは大名行列に出くわした農民のように、地面に額をこすりつけんばかりにして何度もひれ伏した。メグがひれ伏したご陰キャさまの頭を、履いている草履でぐりぐりと踏みつける。
「余は美をつかさどる女神じゃ。もっとひれ伏すがよいぞ」
「あの、メグちゃん、巫女の格好をしてそういうことしないでね」
「おっと。ごめりんこ」
そんなやりとりをしているうちに、ぞろぞろと屋台の人間が境内にやって来て、めいめい支度をしだした。少し遅れて商店街の人たちもやってきて、由香はご陰キャさまを紹介した。そして由香はミキとメグとで拝殿のほうに歩いていきながら、商店街の人たちとご陰キャさまに声をかけた。
「あたしたちは拝殿と本殿を掃除してきますので失礼しますね。陰キャさん、がんばってください」
「あいよー」
ご陰キャさまは商店街の人たちとともに提灯をロープに吊るしていき、ロープを空中に伸ばして反対側の木に結んだ。参道のもう片側にも同じように提灯をロープに吊るして空中に渡しているとき、ほこりで顔が少し黒ずんだメグがへろへろになって拝殿から出てきた。
「んもー。ほんものの由香っちもあんな綺麗好きだったわけ? 床とか壁を隅から隅まで磨きあげて、えっ、そんなとこもすんの、みたいなやたら細かいとこまで、ごしごし拭き掃除させるんだもん。さすがのあたしもくたくたになっちゃったよ」
「綺麗好き? いや、その真逆みたいなキャラだったはずだけど。‥‥たぶんだけどさ、ふだんまったくそういうのやってないから、こういうときだけ徹底的にやってんじゃね」
メグはいまさら気づいたようにおおきく口を開け、手を当てながら言った。
「あ、そーゆーことか。くそ、あのなまけものの鬼畜姉妹め」
拝殿のほうから由香の声が響いた。
「メグちゃーん、ちょっと‥‥」
「ん? なあに?」
「まだ手伝ってほしいことがあるんだけどー」
「今度はなにを手伝うの?」
「ちょっと来てくれるー」
「はーいはい。んもう、由香っちってけっこう人づかいが荒いんだな」
メグはげんなりした表情を浮かべて、また拝殿へと歩いていった。その頃にはもうすっかり日が暮れてしまっていて、つぎからつぎへと祭り客たちがやって来たのだった。メグが拝殿のなかに消えたあと、しばらくしてから由香だけが拝殿から出てきて、商店街の人たちとともに屋台の焼きそばをがっついているご陰キャさまのもとに歩いてきた。同時に太鼓の音が鳴り響いて、雅楽が境内に流れはじめた。ご陰キャさまはメグの姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
「あれ、メグちんはどこ行ったの?」
「あそこです」
由香が指さしたさきの拝殿の外廊下に、大幣を持って澄まし顔をしたメグが、儀式の列の先頭に立ってゆっくり歩いているのだった。
「おお、なんかやらされてる。っていうか、由香りんはあれやらなくていいわけ?」
「だってあれ、ゆっくり歩かないといけないから大変なんですよ。たまには誰かに交代してもらってもバチは当たらないかなって‥‥」
ご陰キャさまは少し呆れたような表情で由香の顔を見てから、拝殿の外廊下を歩いているメグのほうに視線をうつして言った。
「うーん。メグちんて世界でいちばんああいうことさせちゃいけない女の子のような気がするんだけど」
それでもメグはすぐうしろを歩いているミキとともにそつなく行事をこなしたのだった。すると見慣れない巫女の姿に、祭り客たちから口笛がとんだ。メグはいかにも生粋のアイドルらしく、条件反射的にキュートな営業スマイルを浮かべると、口笛に応えて、ぶんぶんとおおきく手を振ったのだった。大幣を持ったミキがまえを歩いているメグを敵意と殺気にみちみちた目で睨みつける。
しかしメグは口笛のするたびにそっちのほうを向いて手を振るため、とうとうつまずいて倒れてしまった。ミキがイラッとした表情で、廊下の床に倒れたメグのお尻を右足のつま先でこんと蹴った。ご陰キャさまと由香が同時に声を出した。
「あ、蹴った」
メグは顔だけあげてミキを思いきり睨みつけたが、いそいそと立ちあがってまたゆっくりと外廊下を歩き出した。儀式の最中にはさすがに反撃してこないとわかったミキは半笑いになりながら、メグの背中をここぞとばかりにうしろから大幣のさきでつんつんと小突いてからかいはじめた。メグは大幣で突かれるたびにうしろのミキを振りかえっては、てめえ、いい加減にしろよ、あとでおぼえてやがれ、みたいな表情で睨みつけるのだった。
「あのふたり、ほんと、姉妹みたいに仲がいいですよね」
由香はほっこりとした顔でそう呟くと、ご陰キャさまの食べている焼きそばに視線をうつして、露骨にものほしげな表情をして言った。
「陰キャさんが食べてるの見ると、あたしもお腹へってきたなー。かといってひとりぶん注文しても食べきれないし‥‥あの、すみませんけど、陰キャさんの食べてる焼きそば、少しだけでいいんでわけてもらえます?」
ご陰キャさまは焼きそばを食べている手をとめると、懐かしそうに目を細めて、由香の顔を見据えながら言った。
「少しだけって言って、けっこうがっつり人のやつ食うの、由香りんのいつもの手だったんよね」
由香は驚いた表情をして言った。
「え、なんでそれ知ってるんですか」
「‥‥って、あれやっぱ確信犯だったのか」
しかし由香はご陰キャさまの言葉が聞こえなかったふりをして言った。
「でもお店の人にお箸をもらうのもわるいかなあ」
ご陰キャさまは仕方なさそうに首を振りながら言った。
「いいよ、俺が食べさせてやっから。口あーんして」
由香は躊躇することもなく、ご陰キャさまに言われたとおりに口を開きながら言った。
「あーん」
ツッコミを待っていたご陰キャさまは、拍子抜けした表情を浮かべながら言う。
「いや、あーんて。俺ら、今日会ったばっかなはずなんだけど‥‥そういや由香りんて、最初からこういうの抵抗ない性格だったんよな」
ご陰キャさまは自分の箸で由香の口に焼きそばを運んであげた。口の端についてしまった紅生姜を指でとってやり、ついでに少し汚れてしまったその部分をささっと拭ってあげる。由香も由香で、昔を思い出したような表情を浮かべて笑った。
「ん? なんで笑ってるん?」
「あたしって食べかたがあんまり綺麗なほうじゃないんで、まえにお話しした、十年前になにも言わずに引っ越した男の子にも、よくこうしてもらってたなあって思い出してたんです」
ご陰キャさまは由香の顔をじっと見つめながら微笑んで言った。
「俺もよくこういうことしてあげてたの思い出したわ」
「昔のカノジョさんにですか?」
「あ、うん、まあ‥‥」
ふたりの背後から花火があがる音がした。ご陰キャさまが振りかえって、空を見あげて声を弾ませながら言った。
「おっ、花火まであげてくれちゃうわけ。花火なんて見んの、いったい何年ぶりなんだろーな」
由香もご陰キャさまとともに空を見あげて花火を見ていたが、とつぜんなにかを思いついたように声を弾ませて言った。
「そうだ、陰キャさんをもっと花火が見える場所まで連れてってあげます」
「ん? ひとけのない辺鄙なとこ連れてかれたら大声あげるけど」
「勝手にあげてください」
由香はそう言って笑いながらご陰キャさまの手を掴んで、祭りの人混みのなかをむりやり引っ張っていった。
ご陰キャさまが連れていかれたのは本殿の裏側だった。鬱蒼と生い繁った木々にかこまれた殺風景な場所で、その木々の隙間から遠くの龍が見える。由香がご陰キャさまのほうを向き、いたずらっぽく笑いながら、おどけた仕草で夜空にむかって両手をかざしてひらひらさせると、その瞬間、龍の向こう側から花火があがった。由香は自分がこうしたサプライズを仕込んだ張本人であるかのように、得意げな表情を浮かべてご陰キャさまを見る。
「へえ。龍の向こう側でもお祭りやってんだ」
由香は得意げな表情を浮かべたままうなずいた。
「毎年、こうして同じ日に、龍の向こう側でも花火が打ちあげられるんです」
ご陰キャさまは龍の向こう側の空に打ちあげられた花火に見入りながら言った。
「ふーん。じゃあ、やっぱり向こう側にも、こっちと同じような伝説があるってこと?」
ご陰キャさまのその言葉にはなにも答えず、由香は花火の光が映りこんでいるご陰キャさまの顔をじっと見つめていた。しかしとつぜん由香は泣きそうな表情で駆け寄っていくと、ご陰キャさまの身体に抱きついた。まごついているご陰キャさまに、由香は胸に顔を沈めたまま、かすかな声で言った。
「助けてください」
「ん? 助けるって、誰を?」
顔をあげた由香は頬に涙を伝わせていた。
「ほんとうはソードで切り刻むだけでは龍は死なないんです。神職の血がながれる成年の娘を飲みこませたうえでソードで切り刻まなければ、龍を討伐することはできないんです」
ご陰キャさまは呆然とした表情を浮かべ、龍の向こう側に打ちあがる花火を見つめていた。しばらくしてからわれにかえって視線を落とすと、由香の額に張りついた髪をかきわけてあげながら優しい声で言った。
「それが‥‥由香りんがミキミキに伏せていた預言の部分なんだね」
由香は涙を流したまま、無言でうなずいた。
「ミキミキにそのことを伏せてるのは、心配させたくないから?」
「はい。あの子がこんなことを知ったら、半狂乱になってしまいますから‥‥」
ご陰キャさまは無言のまま、何度もうなずいた。由香はご陰キャさまの胸に顔をうずめながら、とぎれとぎれのかすれた声で言った。
「まさか自分が龍に食べられてしまうなんて思ってなかった。そんなことは遠い未来の誰かに起こることだってずっと思ってた。ううん‥‥思いこもうとしてた。でもその誰かって、結局のところあたしのことだった‥‥いやだよ‥‥そんなの、ぜったい嫌だよ。あたし、死にたくない。あなたみたいな人と出会ったばっかりだっていうのに‥‥」
言葉の出てこないご陰キャさまは、由香の身体をつよく抱きしめた。由香は勇気を振りしぼるようにして顔をあげて涙を流しながら言った。
「でも、メグちゃんが誰にも触ることのできないソードを握ったのを見て、あたし思ったんです。石板で預言された英雄の方たちだったら、もしかしたらあたしが死なないで済む道筋を見つけてくれるかもしれないって‥‥だからお願いです、どうかあたしを助けてください」
ご陰キャさまはしばらくのあいだ黙りこくったままだった。やがて意を決したように抱きしめていた由香の身体を少しだけ離して、由香の顔をじっと見つめた。それからゆっくりと首を横に振って言ったのだった。
「無理だよ‥‥自分のことも助けられない人間が、誰かを助けられるわけない」
由香が顔をあげて言った。
「‥‥どういう意味ですか?」
「こんなこと、この世界の由香りんに言ってもわからないだろうけど、俺はべつの世界の由香りんを苦しめてしまったんだ」
由香は不思議そうな表情をして、ご陰キャさまの顔を見た。
「なんの話してるんですか‥‥誰のこと話してるんですか」
ご陰キャさまは自分で自分の頬を何度も引っぱたいてから言った。
「いや、君の話でもあるんだ。頭がこんがらって、俺自身にもよくわからないんだけど、たぶんいま話しているのは目のまえにいる由香りんのことだと思う。でも同時にべつの世界の由香りんのことでもあるんだ」
「‥‥陰キャさんは、その女の子にいったいなにをしたんですか」
ご陰キャさまは静かに涙を流しながら何度も首を振った。
「話せない。この世界の君にまで嫌われたくない」
由香はご陰キャさまの頬を思いきり引っぱたいた。そして泣きながらご陰キャさまの顔を見あげて言った。
「あたしのことだけ見てください。その女性のことなんか考えず、いまはあたしのことだけ見てください」
「違うんだ、違う女性のことを話しているんじゃない。これは君の話でもあるんだよ。俺は十年前に君のことを傷つけて、そのまま君のいる世界から消えてしまった」
由香はようやく相手の言っていることを理解したように目を見開き、涙を流したまま弾んだ声で言った。
「傷つけてなんかいません。十年ぶりに再会しても、あなたはやっぱりあの頃のままで、今日だってあの頃のまま優しくて面白くて素敵な人でした」
ご陰キャさまは由香の目を見据えたまま、ゆっくりと首を振って、真剣な表情をして言った。
「違うんだよ、俺はそいつじゃない。十年前にこの世界から消えてしまったのは俺じゃないんだ。たぶんそいつは俺よりぜんぜんまともなやつなんだ。そいつと俺をいっしょにしたらダメだよ。それだけは許されない」
由香はとめどなく涙を流しながら、不思議そうな目でご陰キャさまの顔をまじまじと見る。
「さっきからいったい誰のこと話してるんですか‥‥他の人のことなんかどうでもいいんです。あたしを守ってくれるとはっきり言ってください」
ご陰キャさまはやはりゆっくりと首を振った。
「俺にはできない。でも‥‥たぶん向こうから来る人が由香りんのこと助けてくれると思う」
「向こうから来る人? 誰のことを言ってるんですか?」
「ほら‥‥石板の預言で悪漢あつかいされてる人のことだよ」
由香は怒ったような目つきをして、責め立てるような口調でご陰キャさまに言った。
「なに言ってるんですか。そんな人があたしのこと救ってくれるわけないじゃないですか。目をさましてください、預言で悪漢とされている人間があたしのことなんか助けてくれるわけないじゃないですか」
「助けてくれるんだ、その人に任せていればいいんだ‥‥頭がよくて、いつだって冷静で、女性にだってちゃんと優しい。俺みたいな大バカ野郎には、こういうときにどうするべきか、判断することさえ許されてないんだ」
由香は涙を流しながら、何度も首を振り、ご陰キャさまの目をじっと見つめたまま言った。
「でもあたしのことを救ってくれるのはあなたしかいないんです」
ご陰キャさまはまたゆっくりと首を振って、弱々しい声で言った。
「十年前に君を傷つけて、救えなかった人間なんかに、君を救う資格はないんだ」
「資格なんかどうでもいい‥‥答えてください、あたしのことを守ってやるって言ってください」
由香は大声でそう叫んで、ご陰キャさまの胸を小さなふたつの拳で何度も叩いたが、やがて力尽きたようにその手を止めると、胸のなかに深く顔をうずめて静かに泣きつづけたのだった。
「ごめん、ごめん‥‥」
ご陰キャさまは由香をつよく抱きしめ、ひたすら首を振りながら由香に謝りつづけた。遠くで打ちあげられる花火の滲んだ淡い色彩が、暗い場所に佇むふたりの姿に音もなく映りこむ。
※次回のアップは9月20日の予定です。




