第五十話 彼女たちの母親の形見(瑞生とブルーベルの冒険譚 八)
アパートの部屋に戻ってくると、ヒタリが心配そうな表情を浮かべて三人を出迎えた。ヒタリは姉の顔をまっすぐ見据え、なにか言いたそうな表情をしていたが、詩梁はそんなヒタリから視線を逸らして早口に言った。
「お父さんの浴衣って箪笥の引き出しのなかにあるよね」
「え? たぶんあると思うけど‥‥」
ヒタリの言葉を最後まで聞かず、詩梁はいそいそと靴を脱いで廊下を歩いていくと、奥の和室に入っていき、ぴしゃりと襖を閉めた。するとヒタリは詩梁に向けていたのと同じような目つきで瑞生のほうを見たが、瑞生はそんなことはかまわずヒタリに訊ねた。
「姿見はありますか」
ヒタリが訝しげな表情で瑞生の顔をじっと見る。まるで相手がとつぜん一度も聞いたことのない言語で話しはじめたかのような表情だった。しばらくしてからヒタリはようやく口を開いた。
「もちろんありますが‥‥それをどうされるんですか」
どこか警戒しているような口調でヒタリはそう訊いた。
「浴衣を着るときに使いたいんですが」
ヒタリは少し安堵したような表情になり、それから微笑んで言った。
「少しお待ちください」
そう言ってヒタリは玄関のすぐ隣りの洋室のドアを開け、背面に支えのついた折りたたみ式の縦長の姿見を抱えて出てきた。
「台所のほうまで持っていきますね」
「僕が持っていきますよ」
「いえ、たいして重くもないので大丈夫です」
瑞生とブルーベルは靴を脱いで廊下にあがった。ヒタリが姿見を台所まで運んだのと同時に、詩梁が二着の紺色の無地の浴衣を持って部屋から出てきた。
「おふたりとも父とだいたい同じくらいの背丈だと思います」
「これはこれは‥‥どうもありがとう」
たまたま詩梁の近くに立っていたブルーベルが綺麗に折りたたまれた二枚の浴衣と帯を受けとり、そのうちの一枚を瑞生に渡してから詩梁に訊ねた。
「お祭りはあとどれくらいで始まるんです?」
「夕方の四時から始まりますが、あたしたちは巫女なので、もう少ししたら神社に行って下準備をしなければなりません」
ブルーベルが目を細めて隣りの和室の壁にかかっている時計を見ると、針は二時過ぎを指していた。
「それならいま着替えてしまって、詩梁さんたちといっしょに部屋を出たほうがいいな」
詩梁が首を振りながら言った。
「あなたがたはここでゆっくりしていてください」
「そういうわけにはいきません‥‥女性だけが暮らしている部屋に、男ふたりが残るなんてわけにはね」
「お気になさらないでください。この島に平和をもたらしてくださる勇者の方たちなのですから、ここをわが家だと思って寛いでいてください」
ブルーベルは片方の手を振りながら言った。
「いや、お気持ちだけありがたく頂いておきます。われわれもぱっぱと着替えてしまうので、しばしお待ちを」
詩梁はにこやかにうなずいて、ヒタリとともに和室に入っていき、襖を閉めた。たぶんこちらの着替えの物音を掻き消してくれるためだろう、わりとおおきめな音量でテレビの音が襖の奥から聞こえてきた。
「こっちのコピーの仮想空間にもテレビ番組は流れているのか」
ブルーベルが茶色のくたびれたコートを脱ぎながら瑞生に訊いた。瑞生もジャケットを脱ぎながら答える。
「たしかオフィシャルのほうの仮想空間と同じように、現実世界のテレビ番組を引っ張ってきているはずですよ。僕は仮想空間を構築しているプログラムには携わっていないし、現実世界でもテレビを観ることなんてまずないんで、そこらへんのところはちょっと疎いんですが」
瑞生の言葉にうなずくと、ブルーベルはシャツのうえから浴衣を羽織りながら言った。
「しかしわざわざ仮想空間に来てまで、テレビを観る人間なんているのかね」
脱いだジャケットをテーブルの椅子に掛けながら、瑞生は思わず笑ってしまった。
「世の中には色んな人間がいますから」
「君が言うと妙に説得力があるな。いや、皮肉を言っているわけではないんだが‥‥」
浴衣を羽織って帯を締めた瑞生は、ジャケットを折りたたみながらブルーベルに言った。
「服はこのまま持っていきましょう」
「うん? 服を持ったまま祭りを練り歩くのか?」
「祭りをやっているあいだは神社の社務所にでも置かせてもらいましょう。社務所に軽い休憩スペースみたいな部屋があれば、今夜はたぶんそこに寝泊まりすることになるでしょうしね。それに、もう二度とこのアパートに戻ってくることもありませんよ」
「ああ、そうか。野郎ふたりが女性の住んでいる部屋に泊めてもらうわけにもいかないからな。そこまで考えてなかった」
ブルーベルも自分のコートを折りたたんで腕に掛けると、和室の襖を拳でかるくこんこんと叩いて言った。
「終わりましたよ」
しばらくしてからテレビの音が消えて姉妹が出てきた。詩梁がふたりの浴衣姿を見て、弾んだ声で言った。
「よくお似合いですよ」
瑞生とブルーベルは照れくさそうに笑った。ブルーベルが詩梁に訊ねた。
「もう部屋を出ますか」
「はい、そろそろ時刻ですので。準備するのに少し時間がかかりますが」
「女性ふたりが身支度を整えるのに、われわれはどう考えても邪魔だな。瑞生君、祭りがはじまるまで島を散歩でもしてこようか」
ブルーベルが同意を求めるように瑞生の顔を見て、瑞生はこくりとうなずいた。それから瑞生はヒタリのほうを向き、姿見を指さしながら言った。
「これを持っていっていいですか」
ヒタリはまた怪訝そうな表情を浮かべた。しばしのあいだ黙りこんで、瑞生の目をじっと見つめながら答えた。
「構いませんが‥‥どこに持っていくんですか」
「龍のところです」
面食らったような表情を浮かべながら、ブルーベルが口を挟む。
「姿見なんて、いったいなんに使うんだね」
瑞生は真顔で答えた。
「盾として使うんです」
「盾? なんの冗談を言ってるんだ?」
「剣があるのだから、盾もないとサマになりません」
ブルーベルは噴き出して言った。
「私が使うってのか? 姿見なんかを盾にするほうがよっぽどサマにならないと思うんだが」
「龍が炎を吐いたりするかもしれませんから、この姿見で身を守るんですよ」
瑞生があくまで真剣な表情で話すため、ブルーベルもつられて真面目な表情になった。
「姿見なんかで龍の炎を防げるとは思えんのだがね。クッション的な意味あいで自分の身を防げたとしても、たぶん一瞬で燃え尽きるはずだぞ」
「少なくとも一回くらいは役に立つわけだ」
ブルーベルは相手の言っていることのどこまでが冗談で、どこまでが本気なのかを見きわめるような目つきで、瑞生の顔を見ながら言った。
「しかしこの姿見は詩梁さんとヒタリさんがふだん使っているものだろう。そんな一回こっきりしか役に立たないことのために使うのは、たとえわれわれが預言された勇者だからといっても、さすがに気が引けるよ」
「大事なものですか?」
瑞生がヒタリのほうを向いて訊いた。ヒタリはこれまで見せたことのないような真摯な表情を浮かべ、訴えかけるような切実な声で言った。
「はい。母の形見のものです」
「だったらなおさら‥‥」
ブルーベルがそう言いかけたのを、詩梁が強い口調で遮った。
「いいえ、持っていってください。母は生前に、もし勇者の方たちが来られたら、どんな指示でも従うようにとあたしに言っていました。‥‥うまく言えませんが、あたしにとっては母のそうした気持ちこそがいちばんの母の形見なんです」
ヒタリは睨みつけるような目で姉の顔を見た。瑞生は詩梁のほうを向いて訊いた。
「じゃあ、持っていっていいんですね?」
「ええ、この子が不満でもあたしが許可します。ふたりで使っていますが、どちらの所有物というわけでもないので‥‥遠慮なく持っていってください」
詩梁のその言葉に瑞生はゆっくりうなずいて、腕に掛けていたジャケットを左肩にかけると、右手で姿見を抱えて、なにも言わずにそのまままっすぐ廊下を歩いていった。ブルーベルが少し呆気にとられながらそのうしろを歩いていき、途中で振りかえって言った。
「では、神社でまた落ちあいましょう」
ブルーベルが姉妹に向かって言ったその言葉に、詩梁だけがにっこりと微笑んだ。




