第四十八話 仮想空間の絶対的なルール(瑞生とブルーベルの冒険譚 七)
商店街の通りをまっすぐ進んださきにその神社はあった。詩梁が腰をおりまげて深々と頭を下げ、男ふたりはかるく一礼してから鳥居をくぐった。
鎮守の森にかこまれた境内は、なにやら荘厳な雰囲気が漂っていた。拝殿までの石畳の参道の両脇には屋台がいくつも並んでいる。祭りまではまだ時間があるせいか、的屋の人間はひとりもいなかった。屋台の並びを抜けると、右側に手水舎があり、左側にこじんまりとした社務所があった。瑞生とブルーベルはそうしたものに視線を走らせながら、さきを歩いていく詩梁におとなしくついていった。
賽銭箱を迂回して階段をのぼっていき、拝殿にあがる。幣殿をぬけたさきにある薄暗い本殿の床は、ワックスでもかけたように綺麗に磨きあげられていた。祭壇のまえに白い布で覆われた台座があり、そこに細ながい木箱が置かれている。詩梁が右手をかざして言った。
「これがソードの収められている木箱です」
いかにも古めかしい、饐えた匂いのする木箱であった。ところどころに虫に喰われたような小さな穴があるが、内側まで侵食しているわけでもなさそうだった。さまざまに身体の角度を変えて木箱を観察しながら、ブルーベルが素朴な疑問を口にした。
「こんな無防備に放置していて、誰かに盗まれる可能性はないのかね」
詩梁が目を細め、にっこりと微笑む。
「ソードなんか盗んでも売ることもできませんし、そもそも触れることだってできません」
「なるほど。そいつはそうだ」
瑞生はブルーベルとは対照的に、外箱にはなんの価値もない、といった態度で木箱を無表情に眺めていた。しばらくしてから瑞生は詩梁に声をかけた。
「箱を開けてもらえますか」
詩梁は厳かにうなずいて蓋の両端を持ち、そっと持ちあげて木箱の脇に置いた。瑞生とブルーベルは木箱のなかを覗きこむ。ヒタリの説明どおり、ソードは木の板に縄で括りつけられていた。ソードの盛りあがっている部分に溝のはいった木の棒が当ててあり、刃に直接当たらないよう、そこに太い縄が通してある。錆ひとつなく身幅の広い重厚なソードは、まるで丹念に磨きぬかれた鏡面のように、覗きこんでいるふたりの顔を映し出していた。
「触ってみたい衝動にかられるな」
ブルーベルが独りごとのように呟いた。
「やめておいたほうがいいでしょうね」
瑞生はそう言ったが、ブルーベルは大胆に木箱のなかに手を突っこみ、ソードの刃に触れないよう、慎重に縄を指でつまんで引っ張ってみた。
「この縄を外せるのかってくらい、えらくきつく縛ってあるぞ」
ブルーベルは木箱から頭をあげて瑞生の顔を見たが、瑞生はただうなずいただけだった。ふたたびブルーベルは木箱に視線を落として、ソードを括りつけてある木の板をじっくり観察してから言った。
「ソードを木の板に括りつけた人間はどうやら、縄をほどくときのことをまったく考慮していなかったようだな。‥‥そうだ。縄ごと切っちまえばいいんじゃないか。明日龍がめざめるってんなら、もう元の木箱に収める必要もないんだし」
木箱の底にあるソードをじっと見つめたまま、瑞生は平坦な声で言った。
「でもソードを持ちあげることはできませんよ」
ブルーベルは額に手を当てて、苦々しい表情を浮かべながら言った。
「ああ、そうか。ソード自体を触ることができないんだったな」
瑞生は艶めかしい妖気を漂わせているソードにしばし見入っていたが、とつぜん我にかえったように顔をあげて詩梁に訊ねた。
「この木箱をここから持ち出しても構わないんですよね」
「はい。勇者の方たちでしたらなんの問題もないと思います」
詩梁は蓋を取って、丁寧に木箱に嵌めこんだ。瑞生は木箱の底に両手をまわして、そっと持ちあげてみる。木箱はずしりと重かった。少しだけ木箱の角度を傾けてみたが、縄がきつく縛っているため、そのままソードが自重で下にずり落ちていくこともなさそうだった。瑞生のその動作の意味をいまいち飲みこめないブルーベルが、不審そうな表情で瑞生に訊いた。
「これをいったいどうしようってんだ」
「とりあえず龍のところに持っていきましょう」
「まだどうするのか教えてくれないのか」
「ええ、まだお預けです」
ブルーベルは仕方なさそうに首を縦に振って言った。
「‥‥まあ、君のことだからなんとかするんだろう」
瑞生は詩梁のほうを振りかえって言った。
「僕たちはこれから龍のところに向かいますが、詩梁さんも来られますか?」
詩梁は涼やかに目を細めてうなずいた。
「ええ。ぜひお供させてください。このソードをどうやって龍の身体にくっつけるのか、この目で見てみたいです」
瑞生はおそるおそる木箱を垂直に立ててみる。木箱を少し揺らしてみて、箱の重心がずれていないことを確認してから、瑞生は垂直に立てた木箱の底を両手で持ち、本殿の外へと歩いていった。詩梁とブルーベルは、瑞生の一連の動作が結局よくわからないまま、木箱を抱えた瑞生のあとを黙ってついていった。
鳥居を出た三人は振りかえって一礼すると、商店街をぬけて石橋を渡っていった。そこからふたたび遊歩道に出て、しばらく歩いてから住宅地に入った。それまで遠くに見えていた龍がしだいに間近にまで迫ってきた。巨大な龍に近づくにつれ民家の数がぽつぽつと減っていき、やがて殺風景な砂利道に変わった。龍の石像は燦々とふりそそぐ昼の陽射しを受け、どこか昔ながらの大屋敷の屋根瓦を連想させる陰影をつくりあげていた。
龍に沿って伸びている一本道まで来ると、詩梁は額に手のひらをかざして、日光を遮って龍を見あげながら、まるで生まれてはじめて龍を見るかのように、目を細めて言った。
「子供の頃よくここに来ては、一日ぼうっと龍を眺めて過ごしていました。両親からは危険だから龍のところには行かないようにと、口酸っぱく言われてたんですが」
巨大な龍の全身をびっしりと覆っている鋭角な鱗に視線を走らせ、ブルーベルは何度もうなずいてから言った。
「無理もないだろうな。子供がこんなところを遊び場にしたら、三十分と経たないうちに身体じゅうが擦り傷だらけになる」
しかし龍を見あげている詩梁の耳に、ブルーベルの声はまったく届いていないようだった。詩梁はどこか遠い日々を慈しむような口調で言った。
「あの頃は、むしろ龍がめざめたらどんなにいいだろう、なんて呑気なことを思っていたものでした」
詩梁と同じように頭上を見あげると、龍の背中に生えている無数の背鰭が太陽の光のなかに溶けこんでいた。明日この龍と戦うことに想いを馳せたのか、ブルーベルは背鰭を見あげたまま溜め息をついたのだった。
「でもこんなおおきなものがむっくと起きあがって火を吐いてくるなんて、やっぱりぞっとしちゃいますね」
詩梁がブルーベルに向かってそう言うと、ブルーベルは龍の背鰭からゆっくりと視線を落としながら答えた。
「われわれは明日こいつと戦わなきゃいかんのですからね」
「ええ‥‥でも石板に預言された勇者の方たちでしたら、きっと大丈夫ですよ」
けっして無責任でも悪意があるわけでもない詩梁の声の響きに、ブルーベルは優しく微笑んでうなずいた。
気がつくと瑞生の姿がなかった。ブルーベルが後ろを振りかえると、瑞生はかなり後方で立ちどまったまま、龍の身体をじっと見ていた。ブルーベルが声をかけようとしたまさにそのとき、瑞生はとつぜん木箱を頭上に持ちあげたのであった。瑞生がなにをしようとしているのか理解するまえに、ブルーベルはとっさに大声で瑞生に向かって叫んでいた。
「おい、なにをするつもりだ」
だが瑞生はなんの迷いもなくそれを龍の身体めがけて思いきり投げつけたのだった。
木箱は龍の身体に当たって派手な音を立てて粉々に砕け散り、ソードは龍の鱗に突き刺さった。しばらくそのままなにも起こらなかったが、やがてソードの突き刺さっている部分の鱗が赤く発光しはじめ、まるでそこだけ独立した生き物のように小刻みに脈動してのたうちはじめた。
「これはヤバいんじゃないのか」
急いで瑞生のもとに歩み寄ってきたブルーベルが、髪の毛をかきあげながら呆然とした表情でそう言った。その部分の鱗がとつぜん龍の身体から魚のように飛び跳ね、ソードを喰わえたまま瑞生の足もとに落ちてきた。鱗はしばらくのあいだ地面でぴちぴちと跳ねていたが、ソードの三分の一ほどを包みこんだまま、うねりながら細ながい形状へと収縮していった。ソードの柄となったその部分は、まるでソードの輪郭にあわせて石を削り出したかのようであった。
赤い光が緩やかに明滅していき、ついには完全に消え失せてしまうと、かつて龍の鱗であった部分はぴくりとも動かなくなった。その様子を見て、胸をなでおろしたブルーベルがようやく口を開いた。
「瑞生君、大胆にもほどがあるんじゃないか。もしこれがきっかけとなって龍がめざめていたら、君はどうするつもりだったんだ」
「大丈夫ですよ。たぶんカエデにはこのあとに用意している筋書きがまだあるはず。カエデがそれを消化するまでは、この龍をめざめさせることはないだろうと僕は踏んだんです」
「しかしそれはあくまで君の読みに過ぎないわけだろう。君のそんな思惑とは関係なしに、石板に書かれている内容に沿って龍がめざめる可能性だってあったはずだぞ」
「そうなったら素手で戦っていたまでです」
平然とした顔をしてそう言った瑞生をまっすぐ見据えながら、ブルーベルは呆れたような表情を浮かべて苦々しげに言った。
「君はほんとうに無茶をするよな」
瑞生は身体を屈めて小さな石ころを拾うと、それをソードの柄となった部分に何度か当ててみた。硬い音が鳴るのをたしかめると、瑞生は石ころを投げ捨て、ソードの柄となった鱗の部分を握った。龍の鱗がソードの柄となったためか、ソードは木箱に収納されていたときよりもさらに重みが増していた。瑞生は身体を起こしながらソードをゆっくりと持ちあげ、手のなかにおさまる感触をたしかめるように、刀身を何度も返してみた。
ブルーベルがその背後から、もうしわけなさそうな口調で瑞生に言う。
「かといって、君がこれを使いこなせるわけでもないんだよな」
瑞生はソードの鏡面に映りこんでいる背後のブルーベルの姿を見ながら微笑む。
「ええ。残念ながら‥‥」
詩梁が不思議そうな表情を浮かべながら、ブルーベルの隣りに映りこんできて言った。
「どうしてですか?」
現実世界の身体能力がアバターにも反映される仮想空間の絶対的なルールを、さすがにこの詩梁に説明するわけにもいかなかった。瑞生は振りかえって詩梁に言った。
「能力不足、ですね。簡単に言ってしまうと」
詩梁がやはりにっこり微笑んで、無邪気な声で言った。
「これから猛特訓したらいいんじゃないですか?」
瑞生は静かに首を振った。
「僕は学生時代だって、授業以外じゃスポーツなんて全然やっていません。学校を出てからもほとんど身体を動かしてなかった人間が、明日までにこんなものを使いこなせるようになると思いますか?」
そう言ってにっこり笑うと、瑞生は手に握っているソードをいきおいよく振りかざし、龍の身体に突き刺さる直前でぴたりと止めた。
「しかも生きかえった龍にこのソードを突き刺して、切り刻んで倒さなければならない。そんな腕力は僕にはありませんよ」
詩梁はどこか寂しげな表情をして首を傾けた。
「‥‥無理かなあ」
ブルーベルが無言でソードに手を伸ばしてきたため、瑞生は柄のほうをブルーベルに差し出した。ソードを受けとったブルーベルは、重量を測るようにソードをこまかく左右に振っていたが、とつぜん見事な剣さばきで空中に十字を切ったのだった。詩梁は目を見開いて驚き、両手を口に当てながら言った。
「うわあ。‥‥ブルーベルさんて、ふだんいったいなんのお仕事をなさっているんですか」
「日本刀の実演販売です」
ブルーベルは真顔でそう言った。瑞生がブルーベルのかざしたソードに映りこんだ自分の顔に向かって言った。
「ソードはこれ一本しかありません。やはりあなたが使うべきでしょうね」
ブルーベルはうなずいて言った。
「さすがに明日ばかりは瑞生君に出番はなさそうだな。‥‥で、明日までこれをどこに保管しておくんだね。こんな危険なもの、持ち歩くことはできないぞ」
「龍の頭の近くに置いておけばいいですよ」
「なんで頭の近くなんだ?」
「頭がいちばんの目印になります」
「なるほど。ここらへんに適当に置いておくと、探さないとならなくなるな」
三人はそのまま龍に沿って歩いていった。けっこうな距離を歩いたが、龍の頭はいっこうに見えてこなかった。ようやく前足の部分にさしかかったものの、そこからもまだかなりの距離を歩かなければならなかった。
どうにか龍の頭まで辿りついた。龍は顔全体をこちらに向けて顎をぺたんと地面に置いていた。なかなか愛嬌のある顔だった。顔つきだけを見れば猫やフェレットのような愛玩動物とたいして変わらない。巨大なふたつの目は閉じられていて、丸く潰れた鼻の穴は人間ひとりがすっぽり入れそうなおおきさだった。完全に閉じられていない口の隙間から鋭利そうな歯がのぞいている。石化しているため角のようにも見える二本の髭が、天にむかってどこまでも長く伸びていた。ブルーベルがその髭を手でおそるおそる撫でながら言った。
「ほんとに明日こんなのと戦わなきゃならないのか」
瑞生はうわの空のように龍の顔を眺めたまま、なにも言わずにただうなずいた。ブルーベルは地面にソードを寝かせようとして、ふと思いついて瑞生に訊いた。
「もしこれを地面に突き刺してみたら、いったいどうなるんだろうな」
瑞生はいたずらっぽく愉快そうに笑って言った。
「理論的にはなんでも切り裂いてしまう設定になってますからね。やってみますか?」
「いや‥‥地面がまっぷたつに裂けても洒落にならん。カエデだってそうわれわれの好きなようにさせてくれるとも思えんしな」
ブルーベルが顔を引きつらせながら笑うと、詩梁がふたりに声をかける。
「めでたくソードに柄もついたことですし、もしよろしければ今日のお祭り、いっしょに行きませんか?」
「いいですね。どのみちわれわれも明日龍がめざめるまでは手持ちぶさたですからな」
瑞生が苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべて首を振った。
「明日この龍と戦わなければならないのに、さすがにそんな気分じゃありませんよ」
「いいじゃないか、ほかにすることもないんだから」
詩梁がおおきくうなずきながら言った。
「あたしとヒタリは巫女なので、あれこれとやらなければならないことがあるんですが、それが終わったら合流できると思います」
ブルーベルがうなずいて言った。
「構わんよ。それまで男ふたりで島を散歩でもして時間を潰そう。瑞生君、いいよな?」
瑞生は目を伏せて仕方なさそうにうなずいた。詩梁が思い出したように両手を打ちあわせて言った。
「たしか父の浴衣が二着ほど箪笥の奥で眠ったままになっているはずです。勇者のかたがたがそれを着てくださると天国の父も喜ぶと思います」
「ああ、気分が出るね。遠慮せずにお借りしますよ。よし‥‥そろそろアパートに戻るとするか。ヒタリさんも首をながくして待ち侘びているだろうしな」




