表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/37

第三十六話 女神としての役割(瑞生とブルーベルの冒険譚 一)

 世界は見渡すかぎりの大海原となった。どの方角を向いても、果てしなく水平線が広がっているばかりだった。

 やたらと太陽が近い位置にあったが、焼きつけられるほどの日差しというわけでもなかった。そこはカエデによってほどよくコントロールされているのだろう。瑞生とブルーベルは、メグがコンクリートを削ってつくった舟に乗って、穏やかな波に揺られていた。

 瑞生が海の下を覗きこむ。水は異様なくらいに澄みきっている。しかし、やはり太陽の光が届かない水域以降は真っ暗だ。魚もなにもいない。水の底に沈んでいるはずの高層ビルの群れの頭すら見えなかった。

 とくになにも話すこともなく、瑞生とブルーベルのふたりは舟に揺られていた。ブルーベルは経験豊かな船長のように、舳先に肩肘をついて、はるか彼方の水平線を睨みつけていたが、やがて沈黙に耐えかねたように口を開いた。

「水の都は足の下ってわけか。君のつくったこのコピーの仮想空間には、あのハッカー以外にも不法滞在者が何人かいたはずだが、彼らはいったいどうなってしまったんだろうな」

「安全装置が働いて、現実の世界に戻ったんじゃないですか。それをはずしているわけではないですから」

「なるほど。悪夢からめざめる感じでベッドのうえで跳ね起きたんだろうな。メグがこの舟をつくってくれなきゃ、われわれもそうなっていたわけだ。あのハッカーは現実の世界に戻って、君たちふたりが強制退場されないようにロックをかけたわけだが、仮想空間の安全装置ってのはそういうのとはまた別種のプログラムなんだろう?」

「ええ。まったく系統の違うプログラムです。だからメグがこの舟をつくってくれなければ、僕とご陰キャさま、そして公安の人間であるあなたも、溺死する寸前に強制的にこの世界から締め出されていました」

 ブルーベルがコンクリートでできた舟を指で弾きながら言った。

「こんな頑丈な舟をものの数分でつくっちまうんだからな。状況判断もおそろしく的確だ。おまけに給料も不要ときている。そろそろ本腰いれて職を探さないとな」

 沈黙。

「見事にあのコンビとはぐれてしまったな。あっちは大丈夫なんだろうか」

「まあ、メグがいますから‥‥」

 ブルーベルは深くうなずいてから言った。

「逆にいうと、われわれはメグを失ったことになるわけだ」

 瑞生も深くうなずいた。

「君はカエデがどうするつもりだと思う?」

 ブルーベルがまっすぐ前方を見つめたまま、瑞生のほうを見もせずに訊いた。

「見当もつきませんね。たぶんなにか仕掛けてくるとは思うんですが」

「このままこんな風にただ海を彷徨させるつもりはないだろうな。きっとなんらかのアクションを起こしてくる」

「それを待つしかないんでしょうね」

 また沈黙。男ふたりだから会話もながくは持たない。ブルーベルが無造作に髪の毛をかきあげながら言った。

「‥‥ところで、詩梁さんというのは、そんなに魅力的な女性だったのかね?」

 瑞生にとってみれば、いささか唐突にブルーベルが詩梁のことを持ち出してきた感があった。たとえブルーベルにかぎらずとも、詩梁の話題を持ち出されるのは、瑞生にとってはどこか性的嗜好を覗き見られたような恥ずかしさがあった。瑞生は居心地わるそうに少しうつむき、ブルーベルから目を逸らして言った。

「詩梁のことはほんとうによく知らないんです。高校で三年間同じクラスだったのに、喋ったことさえなかった。陸上部のエースで、いつもきらきら輝いていて、彼氏がいなかったということ以外は、ほんとうになにも知らないんです。いま詩梁がなんの仕事をしているのかさえ知りません」

「好きな人のことをなんにも知らないというのは、じつにすばらしいことだよ」

 ブルーベルがそう言うと、瑞生は力なく笑った。

「ときどき思うんです。僕が追いかけているのは、青春のある時点での自分自身なのではないか、と。‥‥いや、たんに自分の青春時代を追いかけているだけなのかもしれません」

 瑞生が淡々とそう語ると、ブルーベルはその内容を丹念に咀嚼してから口を開いた。

「なるほど。社会に出ると、学生時代というのは輝きを増していくからな。失われたものってのはなんでも美しいんだ。瑞生君の青春時代は輝かしかったのかね。私は小学校から大学までずっと野球ばかりやっていたよ。朝から晩まで野球。月曜日から日曜日まで野球。365日、野球漬け。そこまでやってもプロ野球の三軍チームにも属することができないんだから、人生ってやつは泣けてくるほど厳しいものだな」

 瑞生は何度も首を振ってから言った。

「‥‥青春なんて言葉をつかってしまいましたが、僕に青春時代なんていう気のきいたものはありませんでしたよ。部活にも入らず、家に帰ってパソコンばかりいじってました」

「それだって立派な青春さ。なにか夢中になって打ちこめるものがあれば、そいつはとてもいい青春なんだ。いや、打ちこめるものがなくたっていい。学校をさぼってゲーセンでUFOキャッチャーをやろうと、公園のベンチに寝ころがっていようと、家に引きこもってひたすら天井の隅っこを眺めていようと、十代の若い頃に目に映った風景というのは、あとあとになってそれなりの値打ちが出てくるもんさ。それは時間が経つと自分のなかでおそろしく熟成するものなんだ。べつに空高くバットを打ちあげて、ポカリスエットをぐびくび飲むのだけが美しい青春ってもんではないさ」

 瑞生は声を出さずに少し笑った。

「そう言ってくれると、これからもう少し前向きに生きていけそうな気がしますよ」

「‥‥ところで、詩梁さんという崇拝対象がいる瑞生君を、私はちょっと羨ましく思わないではないんだ。というのも、私はまさに高校時代の憧れの女の子と付きあって結婚したわけだからね」

 瑞生が顔をあげ、はじめてブルーベルにたいして心からの笑顔を浮かべた。

「いいじゃないですか。僕のほうこそ羨ましいですよ」 

 しかしブルーベルはまた髪の毛をかきあげながら、渋い表情をさらに渋くさせて言った。

「なにが羨ましいものか。高校時代の麗しの女の子が、自分とともに確実に年をとっていくっていう避けがたい現実から、君は目をそむけている」

 瑞生はせまい舟のうえで三角座りをしたまま、おかしそうに笑った。

「現実世界の女ってのは、いささか残酷なまでに年を重ねていくんだ。私のカミさんは高校時代と比べて10キロも太ったし、性格もその頃と比べたらまるで別人だよ。結婚していっしょに暮らすようになってから、地を出しはじめやがった。子供ができてからは、さらに加速がついたね。たぶん学生の頃はちょっとネコ被っていたんだろうな。もし学生時代に付きあっておらず、憧れの対象として詩梁さんのように自分のなかで結晶化していれば、そしてもっとパソコンに詳しければ、私だって仮想空間のなかにカミさんのコピーをつくっていたかもしれない」

 瑞生は真顔に戻って首を振る。

「たぶん、そうしてないと思いますよ。というか、世界で僕ぐらいですよ、こんなことしている変態は」

 今度はブルーベルが真顔になって首を振る。

「変態だなんてとんでもない。私にいわせれば、世界で一、二をあらそうロマンティストだよ。こんなことは人類の歴史のなかでも例のないことなんじゃないか」

 瑞生は照れくさそうに笑ってうつむいた。

「‥‥じつをいうと、私はカミさん以外の女性に恋らしい恋をしたことがないんだ。カミさん以前だと、相手が小学生とかになってしまう。そしてそういう相手というのは、あとになって幻想としての機能を果たしてくれないわけだよ。まあ無理もないがね。相手の記憶が幼い子供の姿で止まっているんだから、こちらの幻想も育ちようがない。そうだろ?」

 瑞生はしばらく考えてからうなずいた。

「僕にもそういう淡い思い出はありますけど、たしかに存在そのものを忘れがちになりますね。小学生のときに気になっていた女の子たちのことなんて、五年に一度くらいしか思い出さない」

「やっぱり中学か高校くらいからなんだな、そういう対象になるのは。大人の一歩手前なわけだから、成人したときの姿が想像しやすいんだろう。やはり人生に女神がいるのといないのとでは違うんだろうね。独身の君には想像できんだろうが、ひとつ屋根の下で暮らしている女‥‥居間で寝ころんでテレビを観ている旦那の横腹を、無表情のまま掃除機の吸引口で槍のように突いてくる女というのは、なかなか女神としての役割は果たしてくれないもんでね」

 瑞生はその光景を想像して笑った。

「私もそんな女神のような女性を追いかけてみたかったもんだよ」

 ブルーベルがそう言うと、瑞生はしばらく遠い目をして宙空の一点を見つめていたが、静かに首を振った。

「でも僕の場合、詩梁を追いかけているというより、詩梁に引きずられていると言ったほうが正しいかもしれない」

「引きずられている?」

「ええ。僕の人生で出会ったいちばん美しい女性に引きずられているんです。見た目は僕のつくったコピーの詩梁そのまんまのはず。仮想空間を利用している、現実世界の詩梁本人がスキャンしたマイナンバーカードの写真から、データを引っぱってきたわけですから」

 そう言った瑞生にたいして、ブルーベルは何度もうなずいた。

「美しいお嬢さんだよ。だからよけいに私は羨ましいんだ」

「しかし中身までそっくり同じかといえば、それは保証できません。高校時代に傍で見ていた性格をなるだけ思い出して、データとして打ちこみ、他のこまかな部分は、同年代の平均的な女性が持つ性格的傾向をAIに生成させているに過ぎないんです。だからもしかするとほんものの詩梁は、いまごろ近所のファミレスで走りまわる自分の子供をヒステリックに叱りつけているのかもしれません」

 ブルーベルはもうしわけなさげに太い眉を寄せる。

「‥‥おかしな言いかたをしてしまったかな。勘違いしないでほしいんだ。もちろん詩梁さんと私のカミさんはあくまでべつの人格だ。女という生き物をひと括りにすることはできない。私のカミさんのように、時の流れに身を任せきって怠惰に腐っていくのではなく、熟成する人間だって世の中にはちゃんといる。たぶん詩梁さんはそういうタイプの女性だろう。女にかぎった話じゃないが、人間ってのは顔を見りゃ、芯のとおったタイプかどうかわかるものだ。詩梁さんはおそらくそのタイプだよ。そしてそういう人間ってのは、ちょっとやそっとのことでは腐らない。最初から消費期限ってのがないみたいにね」

 瑞生は少しだけ嬉しそうな表情を浮かべる。

「そうであればいいですけどね。でも僕は、詩梁がいまも独身で、かりに彼氏がいないとしても、なるべくなら会いたくはないんです」

「思い出を汚したくないから?」

「‥‥ええまあ、それもありますけど、それ以上に怖いんです」

「怖い。ふむ‥‥なにが怖いんだね?」

 瑞生はブルーベルの目を見て静かに言った。

「詩梁が僕のことをまったくおぼえていない可能性があることが」

 ブルーベルはどこか憐れむような目で瑞生の顔をじっと見つめた。

「仮りにだよ、現実の世界で、詩梁さんと瑞生君がたまたまどこかで出くわして、もし万がいち君のことをまったくおぼえていなかったとしたら、どうなるってんだね」

「それは僕にとっていわば死刑宣告みたいなものです。そして‥‥こんなことをしている自分が、よけい惨めに思えてくる」

 ブルーベルはなにも言わずにただ首を振り、しばらくのあいだぼんやりとした表情で水平線の彼方を見つめていたが、やがて苦味ばしった表情を浮かべてから瑞生に視線を移し、諭すような優しい口調で言った。

「酸いも甘いも噛み分けたとは言わんが、それなりに経験が豊富で、すっかりくたびれてしまった人生の先輩から忠告しておく。女性に幻想を抱くのは、ほどほどにしておいたほうがいい。そんなものは子供の頃に公園の砂場でつくった城のようなもんだ。女性にたいする幻想なんて、あれと同じくらい脆い。いや、もちろん砂の城をつくるなとは言わん。そこは個人の自由だ。だがそこにどっしりと尻を据えて、家具までそろえて住んでしまうってのは考えものだな」

 瑞生はブルーベルの顔をじっと見た。そしてゆっくりと首を振った。

「そうかもしれないですね‥‥」

 しばらくすると霧がたちこめてきた。せまい小舟に乗っている瑞生とブルーベルの顔が、お互いにさえ見えなくなるような深い霧だった。とはいえそれもながくはつづかなかった。霧が晴れると、遠くに島が見えてきた。完全に霧が晴れたわけではないことも相まって、水彩画のように淡い山稜の風景も、同時にふたりの目に飛びこんでくる。だが舟が島に近づくにつれ、しだいにそれが山稜ではないことがわかってきた。

 龍だ。遠くから山稜に見えたそれは、じつのところ龍らしき生き物の横たわった姿だったのである。それが龍だとわかったのは、漫画でしばし描かれる龍のように、氷柱みたいな突起物が背筋から生え、島の端に龍の頭部があり、こちらに顔を向けていたからだ。ふたつの目は閉じていた。ぴくりとも動かない。寝ているのだろうか。そんな感じにも見えない。生きている感じすらしない。微動だにしないのだ。

「龍‥‥ですよね?」

 瑞生が目を細めながらブルーベルに尋ねる。

「石像のように見えるんだが」

 そう言われると、たしかに石像のようにも見える。

「孤島のコミュニティによくあるような信仰対象の偶像なんでしょうか」

「たとえば‥‥イースター島のモアイ像みたいなか?」

「ええ、僕が言いたかったのはまさしくそれです」

 島が近づくにつれ、龍の途方もないおおきさがわかってきた。龍の全身はじつに島全体を横断しているのだ。龍の頭の近くの砂浜に、何人かの人影があった。

「まあ、島におりてみよう。ああして住民たちが出迎えてくれているし、棍棒やら刀やらを持っているわけでもなさそうだ。島におりた途端に、隠し持った武器で襲いかかってくるとも思えんしな」

 瑞生とブルーベルは海面を手で漕いで島に近づいていった。島の入り江には日本人の顔つきをした島民らしき人々が何十人とたむろしていた。まえからこうなることがわかっていて、あらかじめ待機していた風だった。ふとブルーベルの手が止まる。ブルーベルは岸に並んでいる住民たちに目を凝らしていた。

「カエデか、あれは?」

 瑞生も手を止めて目を凝らした。たしかにならんでいる住民たちのなかに、カエデらしき少女が立っている。しかし眼鏡はかけておらず、白いセーターとジーンズというかなりカジュアルな格好であった。

「よく似てますが、眼鏡を掛けていませんね。おそらく別人格の人間の設定なんでしょう。たぶんここからなにかが始まると思いますよ」

「まったく、あんな娘っ子がなにを仕掛けてくるのやら。もちろん文字どおりの娘っ子ではないんだが‥‥。いやはや。子供の頃にガンプラを組み立てて遊んでいたのが、百年以上も昔のことだったような気がするよ」

 ふたりの乗った舟が砂浜に流れつくと、瑞生とブルーベルはコンクリートでできた舟から降りた。カエデによく似た少女が、すたすたとこちらに向かって歩いてくる。少女は瑞生とブルーベルに向かって淀みなく言った。

「五の月の十五の日に島を分断する巨大な龍を切り刻めし勇者ふたり現わる‥‥。石板に刻まれた伝説のとおりでございます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ