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第三十四話 2026年のピンボール

「いや、持ちあがるわけがないだろ」

 瑞生が口から唾をとばしながら、まるで怒鳴りつけるように言った。

「何度も言ってるでしょ、物理法則なんか平気で無視できる子なんだって」

「ビルごと持ちあげてどうするってんだよ」

「投げ飛ばされてしまわないよう、祈るばかりね」

 ぴたっと揺れが止まった。瑞生とメグも踊るような姿勢をとったまま、ぴたりと動きを止める。瑞生がその姿勢のまま、おそるおそるまわりの景色を見まわした。

「ほかのビルの高さが目線から下がったような気がするんだけど、気のせいなんかじゃないよな」

 メグが瑞生の目をじっと見ながら、こくりとうなずく。

「うん。気のせいなんかじゃない」

「逃げるぞ」

 瑞生が叫んだ。

「逃げるって、どこに?」

「ブルーベルのいる向かいのビルの屋上にだよ。完全にビルが持ちあげられないうちに、このビルから向かいのビルに飛びうつるんだ」

 メグが目を凝らして、向かいのビルとの距離を測った。

「そんな跳躍力、あたしにだってないわよ。ビルとビルのあいだに、せめてなにか中間的なクッションがないと」

「下にでっかい弾丸がある。いったんあれに飛びおりて、そこから思いっきりジャンプするんだ」

「いやいや。あたしだったらできなくはないけど、瑞生クンにはぜったいムリよ」

 瑞生がメグの顔を見据えたまま、にっこり微笑む。メグがその笑顔の意味をすぐさま理解して、表情を変える。

「ちょっと待って。あたしが瑞生クンをおんぶして飛びおりるってこと?」

 優しく微笑えんだまま、瑞生はうなずいた。

「そうだ」

「あのさ、そういうのって、ふつう男女逆じゃない?」

「さっき自分で言ったじゃないか。僕じゃムリだって」

 瑞生がにやにや笑いながら言った。

「‥‥わかったわよ。やったげるわよ」

 メグがヤケクソ気味に言った。そしてふたりは胸壁に向かって歩いていった。胸壁に登ったが、メグはいつまで経っても姿勢を変えようとしない。瑞生は急かすように言った。

「はやく背を屈めろよ。時間がないぞ」

 今度はメグがにたにた笑いながら、瑞生に言う。

「いやよ。‥‥こうなったら、瑞生クンをお姫さま抱っこして落っこちてやるんだから」

 そう言うとメグはすかさず左手を瑞生の両足に当てて、右腕を背中にまわした。瑞生は少しだけ抗ったが、メグがそのまま身体の方向を変えようとするので、反射的に両腕をメグの首にまわしたのだった。

 ひと際おおきな揺れとともに、ビルががくんと持ちあげられたまさにその瞬間、メグは瑞生を抱きかかえて屋上から飛びおりた。下からの風の抵抗を受け、ほんの一瞬だけ、ふわりと空中に舞いあがる。しかし自分たちの身体がふとその重さを思い出したように、空気の抵抗を突っ切って、ふたりは果てしなく落下していった。弾丸にまで辿りつくと、メグは右足で思いきり弾丸を蹴りあげ、向かいのビルの屋上にまで跳ねとんだ。

 ふたりは向かいのビルの屋上でブルーベルが呆っけにとられた表情を浮かべているその目と鼻のさきに無事着地したのだった。

「君たちは頭がおかしいのか?」

 ブルーベルがそう言ったが、それには誰も答えず、瑞生がメグの首から腕をほどいて床におりた。

「フツーの人間だったら確実に足が折れてたよね」

「いや、フツーの人間だったらまずこんなことしねえよ」

 気が済むまで何度も髪の毛をかきあげ、深く溜め息をついてからブルーベルがふたりに言った。

「とりあえず下におりよう。ここだってまったく安全というわけじゃないんだ。ビルがこんな状態だとエレベーターは動いていないだろうから、階段をつかおう」

 三人は屋上のドアを開けて非常階段をおりていった。階段の踊り場ごとに取りつけられている天井の蛍光灯はどれも明かりがついておらず、壁の上部についている上下スライド式の小窓からほのかな光が差しこんでいるだけだった。

「カエデは弾丸を打ってくるな」

 ブルーベルが足も止めずにそう言うと、さきを歩いて階段をくだっているメグがうなずいた。

「間違いなくね」

 ふたりに遅れて階段をくだっている瑞生が、少しおおきめの声で呆れたように言う。

「あのビルをバットのようにして弾丸を打つってのか。ちょっとスケールがおおきすぎないか、これ」

「この空間だとなんでもありだから」

 メグが溜め息をついて言った。

「どうするつもりだ?」

 ブルーベルがメグに訊いた。メグは後ろを振りかえりもせずに、苛立った声で言う。

「あたしに訊いてないで、あんたが自分で考えなさいよ」

「どう動こうとしているのか訊いているんだ。お前はなににつけても自分で勝手に考えて動こうとする傾向があるからな」

「ブルーベルの言うとおりだ、へたな動きかたをするとおかしなことになる」

 メグが苛立った声のまま、十七の女の子らしい意味不明な身ぶり手ぶりをつけながら返事する。

「だからあたしには対策が打てないんだって何度も言ってるでしょうが。瑞生クンにはいい案でもあんの?」

 瑞生は唸った。その声は音がよくとおる階段の空間のなかで、わずかな残響をともなって響きわたった。

「いったん整理してみよう。カエデがビルで弾丸を打ち尽くしたあと、最後に投げてくるのはあの高層ビルに間違いない。そうですよね?」

「あれで両手がふさがっているからな。われわれのほうにビルを投げてくるのは、四発の弾丸を打ち尽くしてからだろう」

「それまでは一発ずつの投球ってことになる」

 メグがあくまで足もとに視線を落としたまま、やけに嬉しそうな表情を浮かべ、うんうんとうなずく。

「うんうん。いい感じじゃない」

「やはり三人に一発ずつということになるんだろうか」

「僕たちがバラバラに動けばそうなりますよね」

「んじゃ、三人でいっしょに動いたらいいんじゃない」

「でもたぶんカエデはそっちの方向でも計算してる。僕たちが足を向けた方向から即座に軌道さえ精密に計算して、確実に狙えそうな人間に当ててくるんじゃないかな。だからかならずひとりは犠牲になる。あれだけのおおきさのボールを当てられたら、それこそ一巻の終わりだよ」

「ああ。狙われた人間が途中で軌道を変更しても手遅れだ。カエデはわれわれ三人が思いつけるだけのことを思いついても、その裏をかくことまで想定してるはずだ。いずれにしても無駄だよ、こんな議論は。私たちが時間をかけて何百何千もの対策を練ったって、あの子がそれにたいする対策を考えめぐらすのはほんの一瞬だし、苦痛でもなんでもないんだ」

 みな黙りこんでしまった。階段をくだる各自のまだらな足音だけが空間に虚ろに響く。しばしの沈黙のあと、瑞生が口を開いた。

「‥‥メグ、下に転がっている弾丸をビルの上方めかげて蹴って、ビルを後ろざまに倒してくれないか」

「え。それ、チョー痛そーなんですけどー」

 メグはそう叫んで、足を止めずに顔だけ見あげ、瑞生の顔を見ながら、いかにも痛そうな表情を浮かべる。ブルーベルがうなずきながら言った。

「そうか。カエデが物理法則を超越しているとしても、ビル自体にはちゃんと物理法則が適用されているから、うまく狙えば、それを支えているカエデごと飛ばすことになるな。しかし‥‥カエデはそれすらも計算に入れていないか?」

「メグ、カエデにたいして対策を打てないと言っても、頭のなかであれこれ考えはしただろ」

「うん。どれもすぐ自分で反論できちゃうようなもんばっかりだけど」

「お前はいま僕が言った案を思いつけたか?」

「じぇーんじぇん」

「なら、たぶん大丈夫だ」

 三人は階段をおりきって、一階の広々としたエントランスに出た。非常階段をくだってきたので気づかなかったが、このビルは比較的高級なホテルらしかった。いささか過剰な装飾の施されたロビーには、下品なまでに絢爛豪華な雰囲気が漂っていた。おそらくそういう層が利用するホテルなのだろう。

 カエデが投げつけた弾丸が当たったときに停電したようだったが、それを差し引いてもエントランスはひどく薄暗かった。それもそのはずで、一面ガラス張りの壁の向こうに、巨大な弾丸がふたつ並んで鎮座して、外からの日差しを遮っているのだった。

「なんて眺めだ。常軌を逸している」

 ブルーベルが顔をしかめながら言ったが、瑞生が冷静な声で言った。

「ビルを出たら、もっと常軌を逸した光景に出くわしますよ」

 開いたままになっている自動ドアを抜け、三人はほぼ同時に外に出た。

「ビルが少し斜めに傾いてるな」

 ブルーベルが巨大な弾丸の隙間から、うえを見あげて言った。メグも同じように巨大な弾丸の隙間から覗いて、彼らから少し離れたところで、両手でビルを持ちあげているカエデの姿を見つけた。

「あの子、もう持ちあげてるわよ」

 メグにうながされてその光景を目のあたりにしたブルーベルが、自分の額をぱしんと叩いて言った。

「なんてこった」

 瑞生がその後ろから静かに言った。

「メグ、いけるか」

 メグは瑞生のほうを振りむきもせずうなずいて、カエデが持ちあげているビルの上層部分を見あげた。そしてカエデの立っている位置の対角線上まで歩いていき、ふたたびビルの上層部分を見あげる。

 しばらくしてから、プロのサッカー選手のような美麗なフォームで、弾丸の下部を思いきり蹴りあげ、それはカエデが持ちあげている高層ビルの上層階部分にまで、弧を描いて飛んでいった。

 きちんと特定の階層部分を割り出し、そこに当てることによってカエデがある種の支柱バランスを崩すのを計算したキックだった。たぶんそれより下か上の階に弾丸を当てても、カエデは平然と持ち堪えたはずである。その高度で抜かりのない数式の算出は、さすがはAIといったところだ。弾丸はそのまま高層ビルにめり込み、カエデは大根の根っこ部分のように鉄骨の筋やらを垂らしている高層ビルを持ちあげたまま、後ろに身体を反らした。ブルーベルがしゃっくりのような声をあげる。

「もう一発いけるか」

 瑞生が声を弾ませながら言った。メグが呆れた表情を浮かべて瑞生のほうを振りかえった。

「この状態のあの子にもう一発当てるわけ?」

「そうだ」

「瑞生クンて、ほんとドSだよね」

「直接当てなくていい。あのめり込んでる弾丸にもう一発当てるんだ」

 ブルーベルがまた髪の毛をかきあげながら口をはさむ。

「狙いが読めないな。君はいったいなにをどう計算している?」

「ビルにめり込んでる弾丸にもう一発の弾丸を当てて、カエデにビルから手を離してもらうんです」

「そりゃ、ビルが後ろに倒れたら手を離さざるえなくなるが‥‥そこからどうするつもりだ」

「ビルにめり込んでる弾丸にもうひとつべつの弾丸を当てたら、確実にビルは後ろに倒れます。といっても後ろに同じような高さのビルが控えているんで、うまくいったらそれが支えになってビルはすぐには倒れないかもしれない。もちろん、倒れてきたビルの重さで、後ろのビルもたちまち倒壊する可能性もあるかもしれません。そこはカエデがどうやっていま持ちあげているビルを手から離すかにもよります。ひょいと放り投げるか、たんに手を離すかです」

「ふん‥‥それで?」

「カエデがビルから手を離したら、ビルがまだ垂直か、あるいはわずかな傾斜の状態を保っているあいだに、すかさずメグにまたべつの弾丸をビルにめり込んでいる弾丸に当ててもらいます。弾丸はメグの力加減によっては、ビルから手を離したカエデのちょうど真上に落下してくる。そしてさらにもう一発、残っている弾丸をそのうえから蹴りこみます。球体同士だから、なんの芸もなく蹴りこむとそのまま跳ねかえってしまいますが、あれはボールのような軟体の物質ではないから、互いにめり込むくらいの力の入れ具合で蹴りこめば、ぴたっと上下に重なり合います」

「瑞生クンはなんでそうあたしに痛い思いさせようとしてるわけ」

 メグが泣きそうな声で叫んだ。

「でもたぶんカエデはその二発の弾丸をいともたやすく持ちあげるだろう?」

「メグがそのたびに弾丸をうえから蹴ってカエデを抑えこみます」

 ぶるるんとメグは首を振る。

「いやいやいや。あの子のほうがだんぜん力があるから、そんなことをしても弾丸のうえに立っているあたしごと持ちあげるわよ」

「弾丸を持ちあげようとしているカエデの力の入り具合と、弾丸に蹴りを入れてそれを抑えこもうとしているメグの力の入り具合じゃ、力学的な条件がちがう。大人の力がカエデで、子供の力がメグだと仮定してその状況を想像してみてくれ。カエデが途方もない身体能力を持っているとしても、その状況だったらお前のほうがかなり有利なはずだ。もちろんメグ自身がそう言っているわけだから、お前ごと持ちあげられてしまうのは時間の問題なんだろうけど」

「なんだ、結局は時間稼ぎじゃないか」

 瑞生はそう言ったブルーベルの目をじっと見つめながらうなずき、真剣な表情で言った。

「そうです。さっきから僕らがやっているのは時間稼ぎなんです」

 ブルーベルが瑞生の顔をじっと見たまま、ゆっくりとうなずいた。

「そうだったな‥‥」

 瑞生もブルーベルの顔をじっと見たままうなずいて、それからメグのほうを見る。メグもまた真剣な表情でうなずいた。

 しばしの間を置いてから、メグはふたたび弾丸を蹴りあげ、カエデが支えているビルの壁にめりこんでいる弾丸に命中させると、ビルは前後にぐらついて、少しずつ後ろに傾きはじめた。

 メグはビルの上層部分を睨みながら、ぴくりとも動かなかった。なんらかのシステム的エラーが起きてメグがフリーズしてしまったのかと、瑞生が本気で心配したくらいだった。瑞生はメグが生きているのを確認するように背後から声をかける。

「カエデがビルから手を離したときに弾丸が真下に落下するようなタイミングを計算して蹴るんだ」

「わかってるから。ちょっと話しかけないでくれる?」

 とげとげしい声でそう言ったきり、メグは黙りこみ、やがてゆっくりと片足をあげて思いきり弾丸を蹴りあげた。まえと同じように、巨大な弾丸はやはり正確すぎる軌道をたどって、ビルの壁にめり込んでいる弾丸へと飛んでいった。弾丸はまだ辛うじて垂直を保っているビルの壁にめり込んだ弾丸に見事に命中して、そのまま真下へと落下する。そしてそのタイミングでメグは路上に残っている最後の弾丸を蹴りあげた。

 同時にビルが後方に倒れてカエデの手から離れ、ビルに隠れていた太陽の光が三人の目を射ったその瞬間、聞こえた途端に耳鳴りのはじまるような凄まじい轟音が空間全体に鳴り響いた。カエデが支えていたビルと、その後ろにあったふたつのビルの倒壊によって発生した粉塵が、三人の視界を完全に覆いつくした。

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