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序章

 その夜、女の子は眠れなかった。


 寝台を抜け出して、冷たい廊下を歩いた。燭台の灯りが、石の壁に長い影を落としている。両親の部屋の扉が、少しだけ開いていた。


 中から、母の声がした。泣いていた。


「あの子を……どうして、あの子なんですか」


 父の声は、低くて、静かだった。


「他に方法があるはずだ。まだ探せる。時間はある」


「もし、間に合わなかったら」


 母は、それ以上言葉にしなかった。押し殺した泣き声だけが、扉の隙間から漏れてくる。


 女の子は動けなくなった。


 自分のことを話しているのだと、なぜか分かった。何が起きているのかは、分からない。ただ、二人が自分のために泣いている。それだけは分かった。


 母が泣くところを、初めて見た。


 女の子は、そっと廊下を引き返した。灯りの影が、後ろでゆらゆらと揺れていた。その夜は、もう眠れなかった。


*


 朝になった。


 窓の外が白んで、庭で鳥が鳴いた。女の子は、いつもより早く目を覚ました。


 まだ、侍女が起こしに来る前だった。


 女の子は寝台を抜け出して、衣装棚を開けた。いちばん気に入っていた服を選ぶ。ひとりではうまく着られなくて、背中の紐が何度もほどけた。それでも、誰も呼ばなかった。


 鏡の中の自分に、笑ってみせる。うまく笑えるまで、何度か練習した。


 それから、両親のところへ行った。


 二人は、女の子を見て言葉を失った。父の顔がこわばる。母は、口元に手を当てた。


 女の子は、二人の前に立った。膝が、少しだけ震えていた。


 それでも、笑った。朝、鏡の前で練習した、いちばんの笑顔で。


「私、行くね」


 母が首を横に振った。


「だめ」


 短く、はっきりと母は言った。


「行かせない。あなたを行かせたりしない」


 女の子はもう一度笑った。うまく笑えているか、自分でも分からなかった。


「お父様も、お母様も、泣かないで」


 母の目から、また涙がこぼれた。


「私なら、大丈夫だから」


 父が何か言おうとして、言えなかった。大きな手が、女の子の肩に置かれる。その手が震えていた。


 母が立ち上がり、近づいてきて、強く、痛いくらいに女の子を抱きしめた。


 女の子は、母の肩越しに窓の外の朝を見た。母のあたたかい匂いがした。


「大丈夫よ」


 抱きしめられたまま、女の子はその言葉だけを繰り返した。


「泣かないで。私なら大丈夫だから」


 母は、答えなかった。ただ、いつまでも離さなかった。


 やがて、支度が整ったと知らせが来た。


 母が身体を離した。女の子の髪を一度だけ撫でて、それから手を下ろした。


 父が、女の子の前に立った。何も言わずに、手を差し出す。


 大きな手だった。肩に置かれたときと同じように、まだ震えていた。


 女の子は、その手を握った。父の指が、ゆっくりと閉じる。


 二人は、朝の光の中を歩いていった。母は門の内側で立ち止まって、それ以上はついてこなかった。


 門のところで、女の子は一度だけ振り返った。


 つないでいないほうの手を振って、母に笑ってみせる。泣かないで、というように。


 母は、女の子の姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。


* * *


「おはよう、エリシア」


――いつもの声に呼ばれて、私は目を覚ました。

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