第99話 知らない平和
白い木綿のカーテンが、春めいた柔らかな風にふわりと揺れていた。
木枠の窓の隙間から差し込む陽光が、板張りの床に温かな四角い光の池を作っている。
どこかで、小鳥がさえずっていた。
ピピ、チチ……と、長閑なリズムで鳴き交わす声。
遠くからは、川のせせらぎと、鍛冶屋が金床を叩く規則正しい金属音が、のんびりと響いてくる。
俺はゆっくりとまぶたを押し上げた。
見知らぬ天井だった。素朴な白漆喰で塗られた梁のある天井。
敷かれたシーツからは、干したての干し草とお日様の匂いがした。
「……ん……」
身体を起こそうとして、腕に力が入らないことに気づいた。
全身の関節が軋むように重い。だが、骨を焼くような激痛や、魔力の逆流による焦燥感はどこにもなかった。
ただ、ひどく長い夢から覚めたあとのような、深い脱力感だけが残っている。
肌に触れる空気が驚くほど澄んでいた。吸い込むたびに胸の奥が洗い清められるような、清冽で穏やかな大気だった。
(……ここは、どこだ……?)
壁を見回す。
棚には薬草を詰めたガラス瓶や乾燥させた野草の束が几帳面に並び、机の上にはインク瓶と帳簿、そして植物の細密画が描かれたスケッチブックが無造作に広げられている。どこかの診療所兼研究室のようだった。
(俺は……誰だ……?)
頭の奥を探ってみる。
冷たい暗闇の底から、ぽつんと一つの単語だけが浮かび上がってきた。
ソウマ……レン。相馬蓮。
二十六歳。
男。
――それだけだった。
自分がどこで生まれ、どんな両親に育てられ、どんな学校へ行き、どんな仕事をしていたのか。
どうしてこの服を着て、なぜこんな場所で倒れていたのか。
過去を遡ろうとするたびに、思考が白い霧の壁にぶつかって跳ね返される。
何も思い出せない。
まるで、昨日生まれたばかりの人形に、名前のラベルだけを貼り付けたような、異様な空白。
恐怖がないわけではなかった。だが、その空白の底には、不思議と凍えるような冷たさはなく、微かな温もりの残り火のようなものが灯っていた。
「おや、気がついたかね」
木製の扉が静かに開き、白衣を羽織った男が入ってきた。
少し乱れた茶髪に、銀縁の眼鏡。手には木製のトレイを持ち、湯気の立つカップを載せている。
落ち着いた佇まいの、四十代半ばほどの学者肌の男性だった。
「……あ……」
声を出そうとしたが、喉が張り付いて掠れた音しか出なかった。
「無理に喋らなくていい。まずは水をお飲み」
男は穏やかな手つきでカップを差し出してくれた。
受け取ると、白湯の温もりが冷えた指先にじんわりと染み渡る。一口含むと、乾ききった喉が生き返るようだった。
「君は三日前、街道沿いの草原で倒れていたのだよ」
男は丸椅子を引き寄せて腰掛け、手帳を開きながら言った。
「外傷はなかったが、極度の脱力状態だった。脈拍も極端に微弱でね。だが、生命力そのものは強いようだ。こうして意識が戻って安心したよ」
「……あの、ここは……?」
「ルミナリア王国の南端、緑風の谷と呼ばれる小さな町だよ。私はここで診療所を開いているオルドという。しがない町医者兼、博物学の研究者さ」
オルド。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと疼いた。
(……オルド……先生……?)
頭の中に、そんな言葉が反射的に浮かんだ。
だが、なぜ「先生」と呼びそうになったのか、その理由が分からない。
この人とどこで会い、どんな会話を重ねたのか、記憶のインデックスをどれほど探しても、ページは白紙のままだった。
「私の顔に、何かついているかね?」
オルドが不思議そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……いえ。なんでもありません」
俺は首を横に振った。
「あの……何か、恐ろしい災厄や争いのような夢を見ていた気がして……ここは、安全な場所なんですか……?」
なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥に残る切迫したざわめきに突き動かされるように、口が勝手に動いていた。
「災厄?」
オルドは目を丸くし、それから可笑しそうに口元を緩めた。
「おかしなことを聞く青年だな。戦争など、この国ではもう何十年も起きておらんよ。隣国の北方連合とも平和条約が結ばれ、交易も盛んだ。魔物の大暴走もなければ、天変地異の兆候もない。世界は平和そのものさ」
「……平和……」
「ああ。君は何か、恐ろしい悪夢でも見ていたのかね?」
オルドの瞳は、どこまでも澄んでいて、穏やかだった。
机の上にあるスケッチブックには、野草の葉脈や鳥の羽のスケッチが緻密に描かれているだけだった。
学問を愛し、命の美しさを慈しむ、穏やかな町医者の日常がそこにあった。
***
「おいオルド! 例の行き倒れの若者は目を覚ましたか!」
廊下から、ドスドスと床を揺らす豪快な足音が近づいてきた。
バタンと勢いよく扉が開き、大柄な男が顔を覗かせる。
仕立てのいい近衛兵の赤い制服を着た、豊かな髭を蓄えた屈強な武人。手には籠いっぱいの真っ赤な林檎を抱えている。
「声が大きいぞ、ガウェイン。病室なのだから静かにしたまえ」
オルドが呆れたようにため息をついた。
「おおっ、起きてるじゃねえか!」
ガウェインと呼ばれた男は、オルドの小言などどこ吹く風で、破顔して病室に入ってきた。
「よかったよかった! 街道で見つけた時は青白い顔をして息もしてねえように見えたから、肝を冷やしたぞ! ほらよ、町の果樹園で採れたての林檎だ。精をつけろ!」
籠から取り出された真っ赤な林檎が、俺の手元にぽんと置かれた。
みずみずしい甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「……ありがとうございます」
「礼なんていいってことよ! 昔は北方の戦線で命のやり取りもしたが、今じゃ近衛兵も街の見回りと果物の収穫手伝いくらいしかやることがねえからな。平和ってのは実にありがたいもんだ!」
ガウェインは豪快に笑い、俺の肩を軽く叩いた。
五体満足で、傷一つなく、元気そのものの笑顔。
(……この人も……知っている気がする……)
胸の奥で、暖かな親しみが溢れてくる。
だが、やっぱり思い出せない。
この人がかつて、どんな戦場で殿軍を務め、どんな危機を共に乗り越えたのか。何一つ、頭には浮かんでこなかった。
「ガウェイン副団長。また任務を抜け出して油を売っているのですか」
静かで、凛とした声が入り口から響いた。
振り返ると、銀色の軽甲冑を身につけた女性が腕を組んで立っていた。
腰まで届く鮮やかな緋色の髪を後ろで束ね、涼しげな切れ長の瞳。腰には手入れの行き届いた直剣を佩いている。
「げっ、セラ隊長……! い、いや、私は行き倒れの青年の安否を確認しに来ただけで――」
「警備隊の巡回任務中のはずだ。街の治安維持を怠るなといつも言っているだろう」
セラは冷ややかに窘めながらも、その口元には微かな苦笑が浮かんでいた。
そして、視線を俺へと向けた。
「気分はどうだ、青年」
「……あ、はい。おかげさまで、だいぶ落ち着きました」
「そうか」
セラは頷き、穏やかな眼差しで俺を見た。
「身元を証明するものは持っていなかったようだが、記憶の方はどうだ?」
「……自分の名前が、相馬蓮だということくらいしか……思い出せなくて」
俺が伏し目がちに言うと、セラは少し痛ましそうな顔をし、それから優しく首を振った。
「そうか。無理に思い出そうとする必要はない。この緑風の谷は誰をも拒まない平穏な町だ。記憶が戻るまで、のんびり過ごすといい」
セラ。
その凛々しい立ち姿、背筋の伸びた歩き方。
見つめているだけで、背中を預けられるような絶対の安心感が湧き上がってくる。
だが――彼女もまた、俺のことを「ただの記憶喪失の青年」としてしか見ていなかった。
***
午後になり、体調が落ち着いた俺は、オルドの許可を得て診療所の外へ出てみた。
町は、息を呑むほど美しかった。
白い漆喰と赤い瓦屋根の家々が並び、石畳の通りには露店が立ち並んでいる。
焼き立てのパンの香ばしい匂い、新鮮な野菜や果物を売る威勢のいい声。
道行く人々はみな穏やかで、笑い声を交わしながら歩いている。
日焼けした素朴な農夫たちも、ここでは平穏に荷馬車を引いていた。
通りの広場へ出ると、噴水の周りで子どもたちが歓声を上げていた。
その中心で、銀髪の華奢な少女が、子どもたちに囲まれて花冠を編んで笑い合っていた。
「ほら、見てミラちゃん! 上手にできたよ!」
「うん、すっごく可愛い。上手だね」
少女――ミラと呼ばれたその子は、銀色の髪を揺らしながら、子どもの頭を優しく撫でていた。
ただの一人の、陽だまりのような愛らしい笑顔。
けれど、その姿を見つめているだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられるように痛んだ。
まるで、かつて過酷な運命に耐えていた誰かが、ようやく穏やかな幸せに辿り着いた姿を見届けたような……言葉にならない切なさと安堵が、胸いっぱいに広がっていく。
誰も死んでいない。
誰も泣いていない。
飢えも、戦争も、魔導の暴走も、世界の崩壊もない。
広場の噴水のふちに腰を下ろし、俺はぼんやりと空を見上げた。
雲一つない、どこまでも突き抜けるような青空。
暖かな日差しが肩を包み込み、肌を撫でる風が心地よい。
完璧な平和だった。
かつて誰かが夢見て、命を削って手に入れようとした、究極の理想郷。
けれど。
(……俺は……)
ぎゅう、と胸が締めつけられるように痛んだ。
激しい喪失感が、足元から這い上がってくる。
みんなが笑っている。
オルド先生も、ガウェインさんも、セラさんも、子どもたちと笑っていたあの少女も。
町の人たちも、みんな幸せそうに、今日という日を生きている。
それなのに――俺だけが、彼らを知らない。
俺は、彼らとどんな言葉を交わしたのか知らない。
彼らがどれほど俺を信頼してくれたのかも知らない。
この平和な世界が、どうやって作られたのかも、誰が何を支払って手に入れたのかも、何一つ知らないのだ。
まるで、他人の幸せな絵画の中に、間違って迷い込んでしまった異物のような感覚。
圧倒的な幸福の只中で、俺は世界でたった一人、過去を失った透明人間のように取り残されていた。
(俺は……何を捨てて、ここに来たんだ……?)
右手を胸元に当てる。
服の上からでも分かる、青白い十字の傷痕。
触れると、そこだけがトクン、トクンと、微かに熱を帯びて脈打っていた。
ふと、上着の内ポケットに、硬い感触があるのに気づいた。
「……これ、は……」
取り出してみると、二つのものが入っていた。
一つは、古びた真鍮製の小箱――中央の文字盤で、針が完全に零を指して静止したままの、見慣れない小さな計器。 そしてもう一つは。
擦り切れた、銀張りの手帳だった。
***
煤で汚れ、水に濡れて波打った革の表紙。
銀箔はところどころ剥げ落ち、無数の傷がついている。
手にした瞬間、指先から電気が走ったような衝撃が走った。
ドクン、と心臓が激しく跳ねる。
(この手帳は……俺の……?)
震える指先で、表紙を撫でた。
理由も分からないのに、目頭が熱くなった。
涙が、ぽたぽたと表紙の上に落ちて、乾いた革に黒い染みを作っていく。
知らないはずなのに、狂おしいほど懐かしい。
命よりも大切な何かが、この手帳の中に眠っている――そう、魂の奥底が確信していた。
ゆっくりと、表紙をめくろうとした。
その時だった。
カサ、と背後の草を踏む、静かな足音が聞こえた。
ふわりと、風が吹いた。
どこか甘酸っぱい、林檎を煮詰めたような、香ばしくあたたかい湯気の香り。
嗅いだこともないはずなのに、なぜか涙が出るほど懐かしい香りが、鼻腔をくすぐった。
「――あの」
澄んだ、鈴を転がすような声が、すぐ後ろから降ってきた。
息が止まった。
心臓が、破裂しそうなほど強く打った。
胸の奥の十字の傷痕が、まるで呼び合っているかのように熱く疼く。
俺は手帳を握りしめたまま、ゆっくりと、振り返った。




