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神様、それはスキル付与ではなく権限昇格です  作者: J-AI


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100/100

第100話 初めまして

「あの……」


背後からかけられた声は、まるで澄んだ風鈴の音のように柔らかく、どこかためらいを含んでいた。


俺はベンチの上で息を呑み、ゆっくりと振り返った。


柔らかな木漏れ日の中に、一人の少女が立っていた。

年の頃は十七、八だろうか。陽光を浴びて淡く金色に透ける亜麻色の髪を、麻の紐で後ろに緩やかに束ねている。

身に纏っているのは、きらびやかな神官服でも豪奢なドレスでもない。

丁寧に洗濯された白い麻のブラウスに、深い萌黄色の木綿のロングスカート、そして簡素なエプロンだった。 慎ましくも朗らかな、この開拓町の娘の装いだった。


その両手には、素焼きのトレイが大切そうに抱えられていた。

載せられた二つの陶器のカップから、白い湯気とともに、シナモンと干した林檎、そして香ばしく焙煎された木の実の香りがふわりと漂ってくる。 甘酸っぱく、どこか懐かしい、あの香ばしい匂い。


その香りを吸い込んだ瞬間、俺の右胸の奥――触れても痛まない古い傷痕の奥底が、ドクンと激しく跳ね上がった。


「……っ」


少女の顔を見つめる。 丸みを帯びた輪郭に、少し困ったように下がった眉。大きく澄んだ、夜明け前の湖のような青い瞳。


俺の頭の中にある、たった数百バイトの記憶領域――「俺の名前は相馬蓮である」ということと生活言語の知識しか残されていない空っぽの引き出しのどこを探しても、彼女の顔や名前に結びつく記録は一文字もなかった。

知らないはずの少女だ。

それなのに、彼女を視界に収めた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。 胸の奥から熱いものが逆流してきて、目頭を激しく押し上げた。 激しい切なさと、言葉を絶するほどの安堵、そして抱きしめたくなるような愛おしさが、全身を駆け巡る。


大粒の涙が、俺の頬を伝い落ちていった。

どうして泣いているのか、自分でもまったく分からない。

ただ、彼女がそこに立って湯気の立つカップを持ち、自分を見つめているという事実だけで、魂が震えて止まらなかった。


「……あ」


少女は俺の涙を見て、息を呑んだ。

その青い瞳がみるみる潤んでいく。

けれど彼女は取り乱さず、トレイを握る指先に力を込め、震える唇を結んで涙を堪えていた。


俺の記憶が消えていることを、彼女は知っているのだ。

彼女の瞳には、深い悲哀と、それを何倍も上回る世界一あたたかい光が宿っていた。


俺は袖で涙を拭った。初対面の娘の前で泣き崩れるなど情けない。

それでも、胸の奥から込み上げるこの感情に、言葉を与えずにはいられなかった。


「……初めまして」


掠れた声だった。人違いかもしれない。だが、今の俺が出せる誠実さはその一言しかなかった。


少女は一瞬だけ目を見張り、それから、耐えきれずに一筋の涙をこぼしながら――世界で一番美しい、泣き笑いの笑顔を咲かせた。


「……はい。初めまして、相馬蓮様」


その声が届いた瞬間、胸の奥で小さな歯車が優しく噛み合う音がした。


***


「お隣、よろしいですか?」


「あ、ああ……どうぞ」


彼女はトレイを膝に載せ、俺の隣に腰掛けた。日だまりのようなあたたかい匂いが漂う。


「冷めないうちにどうぞ。カファ・アプルという、この町の伝統の飲み物です。少し甘酸っぱくて、身体が芯から温まりますよ」


手渡されたカップを受け取る際、彼女の細い指先が俺の指に触れた。 指先からかすかな熱が伝わり、冷えた胸の奥がじんわりと解けていく。 息を吹きかけ、そっと口をつけた。

シナモンのスパイシーな香りと、煮詰めた林檎の優しい酸味が喉を滑り落ちていく。


「……美味しいな」


「本当ですか? よかった……お口に合わなかったらどうしようかと、心配だったんです」


少女は心から安堵したように微笑み、自分のカップに口をつけた。

その横顔を見つめるだけで、胸が痛いほど疼く。俺は本当に、この子を知らないのだろうか。


「あの……俺のこと、知ってるんだよな?」


「はい。よく知っています。……蓮様が、私のことを何も覚えていらっしゃらないことも」


「……そうか」


苦笑交じりに息を吐く。 診療所で出会ったオルド先生やセラさんたちの優しい眼差し、そして目の前の少女の温もり。俺には過去の記憶がないが、彼らの中に「相馬蓮」が生きた証が確かに息づいていた。


少女は足元の籠から布包みを取り出し、膝の上で開いた。

こんがりと濃い焼き色のついた硬い黒パンと、つややかに磨かれた紅い林檎が入っていた。


「簡単なものですが、お昼に持ってきました。このパン、少し硬いですが、噛むほど麦の甘みが出るんです。……こうやって食べるんですよ」


彼女は慣れた手つきで、黒パンを両手でパキリと二つに割った。

さらに林檎の軸の窪みに指をかけ、器用に二つに割ってみせる。

刃物を使わず、素手で綺麗に二等分されたパンと林檎。彼女はその半分を、悪戯っぽく微笑んで差し出した。


「はい、半分こです」


半分こ。 その言葉を聞いた瞬間、脳の奥底で名残の光が弾けた。

誰と、どこで、いつそうしたのかは思い出せない。けれど俺の魂は知っていた。 俺たちは昔から、こうして分け合ってきたのだ。硬いパンも、林檎も、過酷な運命も、いつだって二人で半分こにしてきた。


「……ありがとう」


受け取った黒パンをかじる。硬い外皮の奥から滋味深い甘みが広がり、林檎をかじると瑞々しい果汁が溢れた。


「美味しいよ、すごく」


「ふふ、よかったです。蓮様、昔からこのパンを召し上がる時、いつも同じお顔をされるんですよ。『硬いな』って眉を寄せてから、嬉しそうに微笑むんです」


眩しい笑顔を見つめながら、俺は膝の上に置いた煤けた銀張りの手帳に目を落とした。 少女もそっと視線を落とし、愛おしそうに呟いた。


「その手帳……中をご覧になりましたか?」


「開いてはみたよ。でも、最初の数式も、そのあとの俺の字の日記も……まるでどこかの見知らぬ誰かの冒険譚を読んでいるみたいで、実感が湧かないんだ」


寂しそうに零す俺に、彼女は小さな両手を差し出した。


「読んで差し上げましょうか? 蓮様が忘れてしまわれた、蓮様ご自身の旅のお話を……私が、最初から読んで差し上げます」


俺は手帳を彼女の掌に預けた。彼女は宝物に触れるように、優しく表紙を撫でた。


***


彼女は手帳を開き、最初のページからゆっくりと文字を追い始めた。木漏れ日が紙面を照らし、穏やかな声が風に溶ける。


「昔……ここではない遠い世界から、一人の青年がこの世界に呼ばれました」


その声は子守唄のように優しかった。


「青年は特別な勇者でも聖人でもありませんでした。東京という大きな街で、毎日満員電車に揺られ、夜遅くまで機械の設計をしていた、ただの不器用で優しい会社員でした」


東京。会社員。情景は浮かばないが、彼女の言葉は乾いた心へ静かに染み込んでいく。


「大聖堂に召喚された青年は、神様からスキルを授かったと言われました。けれど青年は気づいたのです。それは奇跡などではなく、世界の裏側を勝手に書き換えてしまう、神様の重大な設定ミス……『権限昇格事故』だったのだと」


「……権限、昇格?」


「はい。神様は完璧ではありませんでした。だから青年は、神様のバグを直すために、泥臭く知恵を絞って戦い始めました。強い魔法で敵を倒すのではなく、冷たい計算と仲間との連携で、誰も死なせない道を探したのです」


彼女はページをめくった。几帳面な作戦図やメモがびっしりと並んでいる。


「北方の雪深い要塞で、青年は仲間と出会いました。頑固だけれど命を尊ぶ町医者の先生。厳格で誇り高い近衛の隊長さん。優しい大男の騎士様。そして、遠い北の空からやってきた、孤独な銀髪の女の子」


オルド先生、セラさん、ガウェインさん、そして広場で笑っていたあの少女。さっき出会った温かな顔が胸に浮かぶ。


「青年は仲間が傷つくのを恐れ、たった一人で未来をやり直そうとしました。自分の記憶という大切な宝物を削り落としながら、何度も世界線を渡り歩いて……仲間を救い続けたのです。故郷の街を忘れ、大好きだったお母様の声を忘れ……それでも、最後まで誰の手も離しませんでした」


彼女の声がわずかに震えた。


「どうして……」


俺は思わず呟いた。


「どうしてその男は、そこまでして……自分の全部を失ってまで、仲間を救おうとしたんだ? 自分が消えてしまったら、何の意味もないのに」


彼女は本から顔を上げ、じっと俺を見つめた。瞳には溢れんばかりの敬愛が宿っていた。


「馬鹿なんかじゃありませんでした。青年は神様のような救済者になりたかったのではありません。ただ、隣で泣いている人を放っておけなかっただけです。一緒に黒パンを分け合って、温かいカファ・アプルを飲んで笑い合える明日が、どうしても欲しかっただけなのです」


彼女はさらにページを進めた。二人の異なる筆跡が対話するように寄り添っている。


「世界は増えすぎた可能性で壊れかけていました。青年と仲間たちは、神様の管理を終わらせることを選びました。特別な勇者をやめ、誰もが自分の足で歩き痛みを分かち合える、ただの人間たちの世界を作ることを選んだのです。……そのために必要だったのは、たった一つの代償でした。増えすぎた世界の歪みを引き受け、新しい世界へ皆を導くためのアンカー……青年の『記憶』でした」


彼女の指が最後の数ページをめくった。


「青年は、自分が誰かも分からなくなることを知っていました。愛した人の名前も忘れてしまうことを知っていました。……それでも笑って扉を開けたのです。『俺が忘れても、あんたたちが生きてる。それ以上の現実がどこにあるんだ』って」


俺は言葉を失っていた。 その台詞が、耳の奥で自分自身の声として再生された気がした。 誰も死なず、神の支配もない、ただの人間たちが生きる世界。 さっき見た穏やかな町、人々の笑顔。 俺は――この手帳の青年は、あの日常を守るためにここにいるのだ。


***


彼女は手帳の最後のページを開いた。 そこには白紙の余白の真ん中に、二つの筆跡がしっかりと刻まれていた。 角ばった不器用な男の字と、流れるように力強い少女の字が、同じペンを握りしめたように重なり合っている。


『私たちは、新しい明日で、何度でも出会い直す』 ――相馬蓮 ――リナ


その文字を見た瞬間、右胸の奥がカッと熱くなった。 痛くはない。待ち望んでいた合言葉を聞いたように、温かい光が全身を満たしていく。


記憶は戻らない。 東京の雑踏も、母の声も、雪の冷たさも思い出せない。千分の三の欠片しかない空っぽのままだ。 けれど、激しく脈打つ心臓の鼓動と、目の前で微笑む少女の温もり。 思い出せなくてもいい。 誰かを愛おしいと思う心は記憶のデータではない。存在そのものに焼き付いた情動の残差なのだ。


紙面に刻まれたその名前と、目の前で涙ぐむ少女の姿が、胸の奥の激しい疼きとともに一つに重なり合った。


「……リナさん」


自然と、その名前が口からこぼれ落ちた。


少女――リナは目を見開き、息を呑んだ。


「……私の名前、呼んでくださるのですか……?」


「ああ」


俺は優しく微笑み、首を振った。


「過去の出来事を思い出したわけじゃない。……だけど、この文字を見て、あんたの顔を見ていたら、胸の奥から自然とその名前が溢れてきたんだ。『リナさん』って」


リナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。 俺は向き直り、彼女の小さな手を両手で包み込んだ。冷えた指先が体温で温まっていく。


「俺は何も覚えてない。あんたと過ごした時間も、世界を救ったことも実感が湧かない。今の俺は、自分の名前とこの手帳くらいしか持たない空っぽの男だ」


「そんなことありません!」


リナが泣きながら首を振った。


「蓮様がここにいてくださるだけで……私を見てくださるだけで、私は……!」


「ああ、分かってるよ」


俺は優しく微笑み、彼女の濡れた瞳をまっすぐに見つめた。


「不思議なんだよ、リナさん。俺は思い出を何一つ持っていないのに……あんたの隣にいるだけで胸が痛いくらい温かくて、あんたが泣くのを見るだけで胸が苦しくなる。……俺は、過去を忘れた。かつての相馬蓮の記憶は戻らないかもしれない。……だけどな」


俺は彼女の目をしっかりと見つめ、告げた。


「俺は、もう一度あんたを好きになった」


風が吹き抜け、彼女の髪を揺らした。


「記憶が消えても関係ない。明日また全部忘れたとしても、俺は絶対に、もう一度あんたに恋をする。ゼロから、何度だってあんたを好きになる。……だから」


手をぎゅっと握りしめる。


「もう一度、初めから始めさせてくれないか。俺と、あんたの新しい物語を」


リナの顔がくしゃりと崩れた。 彼女は両手で俺の手を握り返し、額を俺の胸に預けて、子供のように声を上げて泣いた。過酷な運命を越えて愛する人を待ち続けた少女の、世界一幸せな涙だった。


「はい……っ! はい、蓮様……! 何度だって……何度だって、出会い直しましょう……!」


温もりが胸の傷痕を満たしていく。俺は彼女の背にそっと手を回し、優しく抱きしめた。


***


しばらくして、リナが恥ずかしそうに顔を上げた。涙をハンカチで拭い、照れくさそうに笑う。


「……すみません、取り乱してしまって」


「いいよ。泣かせて悪かったな」


「ううん、嬉しい涙ですから」


リナは手帳を閉じ、俺の胸ポケットへ戻してくれた。


「これは蓮様が持っていてください。私たちが歩んできた、大切な証拠ですから」


「ああ、大事にするよ」


その時、診療所の表通りの方から賑やかな声が風に乗って届いた。


『おいガウェイン! 薬草の束をそんな風に積むなと言ったはずだ! 風通しが悪くてカビが生えたらどうする!』


『がはは! 細かいことを気にするなオルドの旦那! 太陽が照ってるんだ、半日もありゃ乾くさ!』


『オルド殿、あまり怒鳴ると血圧に障りますよ。……それとガウェイン、荷降ろしが終わったら裏庭に来い。昨日の模擬戦、お前の太刀筋に隙があった』


『げっ、セラ隊長、勘弁してくれよ! 俺は非番なんだぞ!?』


『ふふっ、ガウェインさん、頑張ってね。お花を踏んじゃダメだよ?』


オルド先生の小言、ガウェインの豪快な笑い、セラの凛とした声、花冠を編んでいた少女――ミラの楽しげな笑い声。 誰も死なず、当たり前の今日を生きる人たちの声。 俺とリナは顔を見合わせ、吹き出した。


「本当に賑やかだな」


「ええ。みんな、蓮様が守ってくださった大切な家族です」


「……家族か。いい響きだな」


俺は立ち上がり、空を見上げた。 恐ろしい異変も、冷たい不吉な兆候もない。 あるのは、どこまでも高く澄み切った秋の青空だけだった。 奇跡や魔法なんて起きなくてもいい。誰もが今日という日を懸命に生き、笑い合える、静かで優しい世界。


俺はリナへ右手を差し出した。


「行こうか、リナさん。みんなのところに」


リナは花が咲くような満面の笑顔で、自分の手を俺の掌へ重ねた。


「はい、蓮様!」


二人の手がしっかりと結ばれる。 どんなスキルよりも強く、どんな権限よりも確かな、二人の約束。


私たちは、新しい明日で、何度でも出会い直す。


柔らかな光に包まれながら、俺たちは並んで、新しい最初の一歩を踏み出した。


(完)

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