第69章 俺より俺を知る奴
天蓋を切り裂くように降り注いだ深紅の光柱が、ノクタ遺構の最深核ドームの床石を激しく焼き焦がした。
大気を震わせる重低音とともに、光の奔流の奥から姿を現したのは、銀色の無機質な甲殻に覆われた異形の巨躯――神の直轄例外処理兵器『調停デーモン』だった。
三対の幾何学的な光翼を広げ、中央に埋め込まれた赤黒い単眼が、冷酷な演算パルスを放ちながら俺たちを見下ろしている。
その周囲の大気は、神の強制調停プログラムによって確率の揺らぎが凍結され、呼吸をするだけで肺腑が凍りつくような高密度のデコヒーレンス圧に満たされていた。
[TARGET_LOCKED: ANOMALY_CLUSTER_BR-044]
EXCEPTION_TYPE: UNAUTHORIZED_CONSENSUS_MESH
EXECUTING_SUBROUTINE: FORCED_DECOHERENCE_AND_PURGE
「散開しろッ!」
セラの鋭い号令が飛ぶと同時に、調停デーモンの単眼から極太の強制静定レーザーが薙ぎ払われた。 俺は黒辰石の床を強く蹴って横へと跳ぶ。
かつての管理者権限(EXCLUSIVE_ROOT)があった頃なら、空間の確率を自在に書き換えて一瞬で攻撃を無力化できただろう。だが今の俺は、ただの人間だ。肺の奥がひりつき、砕け散る石屑が頬を掠めて熱い血が滲む。
だが、恐れはなかった。
「ミラ、左翼の導波路を抑えろ! セラさんは右から回り込んで足止めを!」
「了解……広域結合、三点メッシュ転送……!」 「受けて立つぞ、神の走狗め!」
ミラの指先から放たれた幾何学的な光の糸がデーモンの巨躯に絡みつき、王都の静定保管庫とラーナ要塞から転送される干渉エネルギーが敵の機動力を削っていく。王都ではガウェインが、ラーナでは防衛隊が、それぞれのノードで魔導回路を支えてくれている感覚が、メッシュを通じてリアルタイムに伝わってくる。
セラが電光石火の踏み込みでサーベルを一閃させ、左脚の装甲関節を断ち切った。
無精髭を生やした気鋭の魔導学者オルドが、小型干渉計を掲げて叫ぶ。
「小僧、敵の演算周波数は三十二ギガエーテル帯だ! 右翼の波束収束パターンを乱せば、装甲のパリティチェックに致命的な隙ができるぞ!」
特権を失っても、俺たちには三点同期メッシュがある。一人のチートで世界を背負うのではなく、全員の意志と力を分散合意で重ね合わせる新時代の戦法だ。世界中のみんなが、俺たちの背中を押してくれている。
だが――神のRoot Engineは、そんな人間の結束すらも冷徹な例外処理の対象として認識していた。
***
調停デーモンの単眼が、不気味な紅蓮の明滅を繰り返した。
装甲を切り裂かれながらも、デーモンは一切の怯みを見せず、その視線を一直線に俺――相馬蓮へと固定した。
[ANALYZING_CORE_ACTOR: SOMA_REN]
SCANNING_PSYCHE_SECTORS: MEMORY_INTEGRITY = 83.00%
DETECTED_VULNERABILITY: UNRESOLVED_TRAUMA_JP_SECTOR_03
INJECTING_TRACEROUTE_EXCEPTION...
「なっ……!?」
突如、視界が激しく歪み、世界が灰色に反転した。
物理的な攻撃ではない。敵の例外処理ルーチンが、俺の魂の『パージされた記憶の欠落部(Memory Void)』を直接こじ開け、精神の内側から侵食するバックドア攻撃(Trace Route Injection)を仕掛けてきたのだ。
――ズキンッ!
頭蓋の奥で、経験したことのない激しい激痛が走る。
視界の奥に、見知らぬ、だが耐えがたい胸の苦しさを伴う情景が強制展開された。
冷え切った冬の夜。暗い予備校の自習室の蛍光灯のちらつき。
机の上に放り出された模試の結果表に並ぶ、冷酷な『E判定』の赤い文字。
高校の教室の片隅で、友人たちの笑い声の輪に入れず、机に顔を伏せて耳を塞いでいた放課後の惨めな孤独。
就職して二年目の夏、本番サーバーのトラブルで全社的な大損害を出し、会議室で上司や同僚全員から浴びせられた冷笑と失望の視線。
「あ……がっ……!?」
胸が張り裂けそうに苦しい。
俺自身は、それらの出来事の詳細を完全に忘却しているはずだった。
だが、事実のディテールが消去されても、その時に魂に刻み込まれた
『俺は何をやってもダメな出来損ないだ』
『俺なんかが誰かを救えるはずがない』
という根源的な自己否定の傷痕(Affective Residue)だけが、猛毒のように全身の神経を駆け巡る。
「やめろ……俺は……俺は……」
足が竦み、聖剣イグニスを握る指先から力が抜ける。
動けない。息が吸えない。
目の前で、調停デーモンが巨大な深紅の光の槍を掲げ、無防備な俺の胸元へと振り下ろそうとしていた。
「レン様ッ!!」
リナの悲鳴が遠く聞こえる。だが、俺の身体は金縛りに遭ったようにピクリとも動かなかった。
***
『――何をもたついてやがる、相馬蓮ッ!!』
その時、俺の頭蓋の奥底――星辰コンソールの中枢から、鼓膜を破らんばかりの激しい怒声が叩き込まれた。 Echoだった。
『模試のE判定が何だ! お前はその日の帰り道、自習室のゴミ箱を蹴っ飛ばして悔し泣きしながら、夜通し参考書が破れるほど解き直したじゃねえか! 母さんが「蓮なら大丈夫だよ」って夜食のおにぎりを持ってきてくれた時、お前は机の下で拳を握りしめて誓ったはずだ!』
Echoの激しい叫びとともに、俺の中に『俺自身が忘れていた泥臭い闘志の記憶』が一気に流れ込んできた。
『高校の放課後だってそうだ! 誰とも話せなかった代わりに図書室でプログラミングの本を読み漁って、一人で夜中までキーボードを叩いてゲームのコードを書き上げたんだろ! サーバーを落とした夜だって、終電のホームで冷え切った缶コーヒーを一気飲みして、「明日絶対ログを解析してやり直してやる」って、歯を食いしばって翌朝一番に出社したじゃねえか!』
Echoの声は、魂を震わせる熱情に満ちていた。
『お前はいつだって格好悪くて、不器用で、泥を啜りながら立ち上がってきた男だったはずだ! 過去を忘れて格好つけてんじゃねえ、相馬蓮! お前の人生を一番近くで見ていた俺が保証してやる! 右足を踏み込め、左へロールしろッ!』
Echoの言葉に、俺の身体が反射的に動いた。
思考よりも早く右足が床を蹴り、身体を左へと投げ出す。
ドォォォンッ!!
俺が立っていた床石を、デーモンの光槍が粉々に粉砕し、凄まじい衝撃波が吹き荒れた。
冷や汗を流しながら立ち上がった俺の胸に、激しい衝撃と戦慄が走った。
――あいつの方が、俺を知っている。
俺自身が削り落とし、思い出せなくなっていた俺の過去の弱さも、惨めな挫折も、そしてそこからどうやって泥を啜って立ち上がってきたのかも……切り捨てられたはずのEchoの方が、遥かに正確に、深く、鮮明に覚えていたのだ。
どちらが、本物の「相馬蓮」なのか? 記憶を失って空っぽになった俺なのか、それとも、すべての過去と痛みを抱え込んで生き残ったあいつなのか?
自分という存在の輪郭が揺らぎ、自己所有の足場が音を立てて崩れかけるような感覚。自分が自分の人生の部外者になってしまったかのような、底知れない疎外感。
『……勘違いするなよ、相馬蓮』
Echoの静かな声が、俺の心の奥底に染み渡った。
『俺たち切り捨てられた相馬蓮はな……お前を恨んでいただけじゃないんだ。お前が生きて、いつか誰かを守り抜いて笑ってくれる日を……暗闇の中で、ずっと待っていたんだよ。俺たちの生きていた証を無駄にするな!』
その時――温かな小さな手が、俺の震える右手を強く包み込んだ。
「レン様」
リナだった。
リナは麦わらのお守りを胸元で輝かせながら、真っ直ぐに俺の瞳を見つめていた。
「どちらが本物かなんて、迷う必要はありません。……過去の痛みを抱きしめてくれたEchoさんも、今ここで私を守るために泥だらけで立ち上がってくださるレン様も、どちらも大切な私たちの相馬蓮様です! レン様がご自身を見失いそうになったら、私が何度でも、レン様の命の証拠になります!」
リナの言葉が、霧を吹き飛ばすように俺の魂を貫いた。
そうだ。迷うことなんて何もない。
過去を預かってくれたEchoと、今を生きる俺が、ひとつの意志となって手を結べばいいのだ。
『……フン、言ってくれるぜ、リナ神官』
Echoの声が、今度は不敵で頼もしい笑みを伴って響いた。
『行くぞ、相馬蓮! 俺たちの過去と現在を束ねて、神の走狗をぶっ飛ばせ!』
***
「ああ……行くぞ、Echo!」
俺は聖剣イグニスを両手で構え直し、コンソールを介して三点同期メッシュの全プロトコルを解放した。
「セラさん、ミラ、オルドさん! 分散合意コマンド(CONSENSUS_EXECUTE)を叩き込みます!」
「承知した!」
「全ノード、同調率百パーセント……!」
「小僧、存分に貴様たちの設計を叩き込んでやれ!」
リナの観測の祈りが、空間の位相を完全に固定する。
ミラの光の糸が敵の演算回路を拘束し、セラの静定領域が調停デーモンの装甲を脆弱化させる。
そして――俺とEchoの魂が、手帳のプロトコルを通じて完全に同調した。
[CONSENSUS_ENGINE: EXECUTE]
VOTERS: SOMA_REN, ECHO, RINA, SERA, ORDO, MIRA
CONSENSUS_RESULT: UNANIMOUS (100.0%)
OVERRIDING_EXCEPTION_ROUTINE...
REJECT_CONFIRMED.
「これが……俺たち全員で選んだ現実だッ!!」
紅蓮の聖剣に、Echoの漆黒の残差エネルギーが絡みつき、双色の光の刃となって虚空を一閃した。 ズバァァァッ!!
調停デーモンの単眼ごと、その巨大な銀色の巨躯が真っ二つに両断された。
神の例外処理ルーチンは完全にオーバーライドされ、デーモンは無数のガラス片のような光の破片となって四散した。
静寂が戻ったドームに、俺たちの荒い息遣いだけが響く。
「……ふう、初戦は突破したな」
セラがサーベルを納め、息を吐いた。
だが、オルドが険しい表情で干渉計の数値を見つめたまま、重い声で告げた。
「だが、安心するのは早いぞ。……今の調停デーモンは、神のRoot Engineが放った偵察プロセスに過ぎん。管理ノードを失った神は、いよいよ中枢の直轄演算体をこの世界へ直接降臨させるつもりだ」
「望むところです」
リナが麦わらのお守りを握りしめ、凛とした声で応じた。
ミラも静かに頷き、手元で新たな結合の糸を紡ぎ始める。
俺は手帳を懐に収め、天蓋の向こうに広がる夜空を見上げた。
自分より自分を知る過去の自分(Echo)と手を結び、かけがえのない仲間たちと共に歩む道。
忘れてしまった過去も、泥を啜って立ち上がってきた痛みも、すべてがこの胸の中で生きている。
どんな絶望的な神の降臨が迫ろうと、もう二度と迷うことはない。




