第68章 俺のことを教えてくれ
第6部 ARC-VI:誰が選ぶ権利を持つのか(CONSENSUS WAR)
世界線:BR-044 | 観測忠実度(Identity Fidelity):0.8300 | 六重合意(分散通信メッシュ網稼働中)
三点同期メッシュが起動し、夜空を貫く星辰の光柱が静かに大気へと溶け込んでいくと、ノクタ遺構の最深核ドームには再び深い静寂が戻ってきた。
神の中央観測プロキシを遮断する幾何学的な防壁は、王都とラーナ、そしてこのノクタを結び、世界の空に目に見えない不可侵の境界線を張り巡らせていた。
黒辰石の床面に腰を下ろし、リナが淹れ直してくれた温かいカファ・アプルを啜る。
甘酸っぱいリンゴと微かなスパイスの湯気が鼻腔をくすぐり、かじかんだ身体の芯をじんわりと温めてくれる。
二つに割った固焼きパンを噛み締めながら、俺はドーム中央の黒辰石コンソールを見つめていた。
「ふむ……王都の静定保管庫、ラーナの防衛結界、そしてこの残差層コア。三つのノード間で交わされる量子もつれパケットは極めて安定しておるな」
背後で、無精髭を生やした気鋭の魔導学者オルドが、小型干渉計の針を覗き込みながら呟いた。四十七歳の学者は、徹夜の疲労を感じさせない鋭い眼差しで空中の数理波形を追っている。
「だが、油断は禁物だぞ、小僧。神の管理ノードを物理破壊されたのだ。中央のRoot Engineがこの異常を検知すれば、必ずや大規模な例外処理(Exception Handling)を走らせてくるはずだ」
「ああ、分かっている」
俺は頷き、素焼きのカップを置いた。
かつて漆黒の聖剣を構え、俺の独善と救済の傲慢さを指弾した男――Echo。
管理ノードを粉砕した後、光の粒子となってコンソールの中枢へと融解した彼の意識は、いまも青白い残響となって、鏡面の奥で微かに揺らめいていた。
「……レン様?」
隣に座っていたリナが、素焼きのカップを両手で包み込んだまま、心配そうに俺の横顔を覗き込んできた。
その胸元には、北境開拓村の両親から受け継いだ麦わらのお守りが、確かな存在感を放って収まっている。
リナには、両親が愛してくれた確かな過去がある。だからこそ、どんなに世界が書き換わろうと、自分が誰であるかを見失わずにいられた。
だが――俺はどうだ?
「……ちょっと、あいつと話してくる」
俺は立ち上がり、黒辰石のコンソールへと歩み寄った。
セラが静かに腕を組み、ミラが光の糸を手元で収束させながら、俺の背中を見守っている。
***
コンソールの前に立ち、黒辰石の鏡面を覗き込む。
そこに映るのは、疲弊し、目の下に薄い隈を作りながらも、確かな光を宿した俺自身の顔だった。
俺が息を吸い込むと、鏡の中の男が、一拍遅れて自嘲気味に口角を吊り上げた。
『……何の用だ、相馬蓮。特権を捨ててただの人間に戻り、仲間と仲良く手を繋いだお前が、今さら敗残者の残響に何を言いに来た?』
頭の中に直接響いてくる、自分自身と同じ声。
それは、切り捨てられた無数の世界線の相馬蓮たちの怨嗟と記憶を束ねた、Composite Echoの声だった。
「……頼みがあるんだ」
俺は胸ポケットから、表紙の擦り切れた黒革の手帳を取り出し、コンソールの上に置いた。
手帳を開く。
そこには、かつて王都の深夜にリナが署名し、先ほど『二人で一緒に現実を選びます』と誓約を追記してくれたページがある。
だが、その前後のページは――かつて俺が日本語で書き残したはずの日常の記録が、墨汁をぶちまけたような黒いノイズと、意味を成さない砂嵐となって広がっていた。
「俺のことを……教えてくれないか」
『……は?』
鏡の中のEchoが、呆れたように眉をひそめた。
「俺は……世界線を跳び越えるたびに、自分の過去を切り捨ててきた。東京の街並みも、通っていた大学も、就職してどんな仕事をしていたのかも……そして、母さんの声すらも、頭の中には冷たいホワイトノイズしか残っていない」
俺は拳を握りしめ、鏡の中のもう一人の自分を真っ直ぐに見据えた。
「お前は……俺が捨ててきたすべてを、残差層の中でずっと抱え込んでいたんだろ? 俺がどんな人間だったのか……俺が忘れてしまった俺自身を、俺に教えてほしい」
***
ドームの空気が、シンと静まり返った。
鏡の中のEchoは、しばらくの間、信じられないものを見るように俺を凝視していた。
やがて、喉の奥から絞り出すような、乾いた嘲笑が漏れた。
『……ハッ……笑わせるなよ、相馬蓮。全部自分で切り捨てておきながら、都合が悪くなったら敵に過去を請い乞うのか? そんなに自分のルーツが恋しいなら、最初から世界線を跳んだりしなければよかったんだ』
「その通りだ」
俺は逃げずに答えた。
「俺はお前たちを切り捨てて、一人で勝手に英雄気取りをしていた。自分の過去をゴミ箱に捨てるようにパージして……都合のいい救済に酔っていた。……だが、俺はもう一人で世界を背負わないと決めたんだ。リナさんたちと一緒に、この現実を選び取るために……俺は、俺が何者だったのかを知らなきゃいけない。お前が背負ってくれた過去を、俺に返してくれ」
俺の言葉に、Echoは唇を噛み、長い沈黙に沈んだ。
鏡面の奥で青白い光が激しく明滅し、過去の感情の残差が波のように揺れる。
『……まったく、どこまでも図々しい男だ』
Echoは吐き捨てるように呟き、そして――静かに語り始めた。
『……お前は、毎朝七時四十三分の中央線の満員電車に乗っていた。ドア際に押し込められて、他人の肩越しにスマホで技術仕様書をスクロールしながら、いつも溜息をついていたよ。雨の日はビニール傘の先から滴る水滴を気にして、いつも靴を濡らしていた』
Echoの声に、かつての刺々しい嘲笑は消えていた。
淡々と、しかし驚くほど鮮明に、かつて俺が生きていた世界のディテールが紡ぎ出されていく。
『駅前の古い喫茶店の前を通ると、焙煎したばかりのコーヒー豆の苦い匂いがした。踏切の警報機の高い金属音。コンビニのレジ横で売られている肉まんの蒸気の匂い……。大学の工学部の講義では、一番後ろの席で回路図の端にくだらない落書きをして、教授に見つかってチョークを投げられたこともある。就職して二年目の夏、本番サーバーのデータベースを落とした時は、冷や汗でシャツがびしょ濡れになって、深夜のオフィスで胃薬をかじりながらログを漁っていた……』
俺の胸の奥で、カチリと何かが噛み合うような感覚があった。
忘れていたはずの風景が、Echoの言葉を通じて、モノクロの輪郭を帯びて鮮やかに浮かび上がってくる。
「……母さんは?」
俺は震える声で尋ねた。
「俺の母さんは……どんな人だった?」
***
Echoは鏡の向こうで、ふっと寂しげに目を細めた。
その瞳に宿った色は、かつての激しい憎悪ではなく、同じ一人の女性を愛し、その愛に育まれた少年の懐旧そのものだった。
『……少しハスキーで、怒ると早口になる声だったよ』
その言葉が耳に届いた瞬間、俺の全身に激しい鳥肌が立った。
『お前が風邪を引いて寝込んだ時、すりおろしたリンゴに蜂蜜を入れて枕元に持ってきてくれた。「蓮、ちゃんと食べないと治らないよ」って、冷たい手を額に乗せてくれたんだ。高校受験の朝は、縁起を担いで焦げたカツ丼を作ってくれてな……。お前が大学の合格通知を持ってきた日は、仏壇の前で正座して、父親の写真に向かってずっと泣いていたよ。「この子は大丈夫だからね」って……』
Echoの声が、微かに震えていた。
『笑うと目尻に細かい皺が寄るんだ。お前が一人暮らしを始める前夜、持たせてくれたタッパーの肉じゃがは、少し醤油が濃すぎてしょっぱかった。……お前が世界線移動のコマンドを叩くたびに、その声も、手の温もりも、全部俺たちのところに流れてきたんだよ。俺たちは……お前が捨てた母さんの愛を抱きしめながら、暗闇の中で泣いていたんだ』
俺の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
手帳の上にボタボタと涙が落ち、砂嵐のページを濡らしていく。
直接の記憶が完全に蘇るわけではない。頭の中の走査線ノイズがゼロになったわけでもない。
だが――Echoの言葉によって、俺の魂の空洞に、確かな「相馬蓮という人間の人生」が注ぎ込まれていた。俺は決して、どこからともなく現れた空っぽの勇者なんかじゃない。東京の片隅で、母の温もりに守られて育った、ただの一人の人間だったのだ。
「……ありがとう、Echo」
俺は手帳を胸に強く押し当て、泣きながら言った。
「俺の過去を……母さんのことを、覚えていてくれて……本当に、ありがとう」
『……礼なんて言うな、馬鹿野郎』
鏡の中のEchoは顔を背け、乱暴に鼻を鳴らした。
『俺はお前を許したわけじゃない。だが……お前が特権を捨て、全員で世界を救うと誓ったなら、俺たちすべての相馬蓮の記憶を、お前に貸してやる。……連れていけよ、相馬蓮。俺たちの生きていた証を、その世界の最後まで』
そっと、リナが横から俺の腕に手を添えた。
リナの瞳にも、大粒の温かい涙が光っていた。
リナは万年筆を手に取ると、手帳の余白に、Echoが語った母の面影――『少しハスキーな声、すりおろしリンゴ、笑うと目尻に皺、しょっぱい肉じゃが』と、丁寧な文字で書き留めてくれた。
「素敵な方ですね、レン様のお母様。……レン様が忘れてしまっても、私が、レン様と一緒にずっと覚えておきます。何度でも、レン様に教えますから」
セラが静かに頷き、オルドが眼鏡を外して目頭を拭い、ミラが柔らかく微笑んでいた。
失われた過去は、敵であったEchoと、今を共に生きる仲間たちによって、再び俺の魂へと結び直されたのだ。
***
その時だった。
――ビビビビビビッ……!!
突如として、ノクタ遺構の全空間に、これまで聞いたこともない耳を劈く凶悪な警告音が鳴り響いた。 天蓋の星辰が赤黒く染まり、ドームの空中に、巨大な深紅の例外処理プロンプトが幾重にも展開される。
[CRITICAL_SYSTEM_EXCEPTION: NODE_07_LOST]
ANOMALY_DETECTED: DISTRIBUTED_CONSENSUS_ATTEMPT
DETECTION_LAYER: ROOT_ENGINE_SUPERVISOR
INITIATING_DIRECT_INTERVENTION: ARBITRATION_SUBROUTINE
TARGET: BR-044 (ALL_THREADS)
DEPLOYING: SYSTEM_ARBITRATOR_DAEMON_SERIES
「……来たぞ!」
オルドが手元の干渉計を叩きながら叫んだ。
「管理ノード喪失によるRoot Engineのフェイルセーフだ! 神のアーキテクチャが、世界規模の例外ハンドリング――直轄の調停デーモンを全土へ投下し始めたぞ!」
ドームの床石が激しく震動し、三点同期メッシュの幾何学防壁の外側で、無数の深紅の亀裂が奔流のように走る。
「全員、迎撃態勢をとれ!」
セラが即座にサーベルを抜いて号令を放った。
ミラが両手を広げ、三点同期メッシュの結界強度を最大出力まで引き上げる。
リナが麦わらのお守りを握りしめ、聖なる観測の祈りを捧げた。
俺は手帳をしっかりと懐に収め、腰の聖剣イグニスの柄を握りしめた。
もう、世界線を跳んで逃げる特権などない。
だが――俺には、取り戻した過去と、背中を預け合える仲間たちがいる。
「行くぞ……! 神の例外処理を叩き潰して、俺たちの現実を守り抜く!」
赤く染まる虚空を見据え、俺たちは神の直轄介入との全面戦争へと飛び込んだ。




