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神様、それはスキル付与ではなく権限昇格です  作者: J-AI


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第53章 願いではない

 地下の静定保管庫から地上階へ戻ると、公爵邸の東側のテラスから、薄紫色の朝焼けが静かに差し込んでいた。

 夜の張り詰めた冷気が、かすかな朝の光によって解きほぐされていく。

 庭園の梢では、朝露に濡れた小鳥たちが静かに囀り始めていた。


「皆様、温かいカファ・アプルを淹れてきましたよ」


 湯気を立てる銀のポットを手に、リナが小走りでテラスの円卓へやってきた。

 木製のトレイには、四人分の陶器のカップと、香ばしく焼き直された素朴な丸パンが載っている。


「ありがとう、リナさん」


 俺はパンを四つに均等に取り分け、それぞれの手元へと配った。

 北境ラーナ要塞の寒風吹きすさぶ兵舎で始まったこの習慣は、過酷な防衛戦を越え、幾度もの世界線の跳躍を越え、そして偽りの平和の崩壊を越えて、今も俺たちの間に当たり前の日常として息づいている。


「ふう……美味いな。徹夜の頭にはこれが一番効く」


 オルドが眼鏡を外し、疲れた目を擦りながら、黒い液体をすすった。


「リナ嬢、先ほどはよくぞ正気を取り戻してくれた。貴様が麦わらのお守りと本来の記憶を取り戻していなければ、あの世界線崩壊の混乱からこれほど迅速に脱出することは叶わなかっただろう」


「いいえ……! 私の方こそ、レン様が私の手を離さずにいてくださったから……本当に大切な自分を思い出せました」


 リナは胸元の麦わらのお守りを優しく指先で撫でた。

 その瞳には、かつて大聖堂の地下で教籍原簿を前に泣き叫んでいた時の怯えは微塵もなく、澄み切った確信が宿っていた。

 たとえ日本の記憶が消えようと、リナやセラを大切に想う心――情動の残響だけは、どんな因果改変にも決して削られないのだ。


***


「相馬蓮、顔色が優れないな。……まだ何か引っかかっているのか?」


 カップを置きながら、セラが鋭い視線を向けてきた。


「……ああ。さっきの静定保管庫でユリウス王太子の署名を見た時から、ずっと考えていたんだ」


 俺は冷えかけたカップの両端を両手で包み込みながら、静かに口を開いた。


「俺たちがあの偽りの世界線(BR-031)で使っていた【事後選択(POSTSELECTION)】という能力の……本当の正体についてだ」


「事後選択の正体……?」


 リナが小首を傾げた。


「俺はずっと、事後選択を『誰も死なない理想の未来を叶えるための奇跡』だと思い込もうとしていた。……だが、それは完全な間違いだったんだ」


 俺はスーツの内ポケットから黒革の手帳を開き、BR-031で発生した数々の改変ログを指先でなぞった。


「事後選択は、人を幸せにするための魔法でも、祈りを叶える奇跡でもない。……単に『指定された未来の結果』に合わせて、過去の因果関係を力技で逆算圧縮し、その過程で生じる巨大な矛盾を、周辺の無関係な存在へ押し付ける【整合履歴生成エンジン】に過ぎなかったんだ」


 テラスを吹き抜ける朝風が、手帳の頁をパラリと揺らした。


「北方との全面戦争を回避するという結果を先に固定したせいで、世界は因果の計算コストを下げるため、好戦的だったユリウス王太子の存在そのものを『最初から生まれなかったこと』にして消し去った。……リナの貧しくも温かい生家を奪い、俺自身の日本での履歴すら抹消しようとした」


 俺は唇を強く噛み締めた。


「都合のいい結果だけを願って、原因のプロセスを無視することは……世界のどこかにいる誰かに、その代償の全てを背負わせる傲慢な暴力だったんだ。……『願い』や『奇跡』なんて言葉で誤魔化しちゃいけなかったんだよ」


***


「……よくぞ看破した、小僧」


 オルドが手元の羊皮紙を取り出し、ペン先で因果の逆算グラフを素早く描きながら深く頷いた。


「熱力学の第二法則と同じだ。エントロピーの局所的減少は、必ず系全体の外部へより大きなエントロピー(歪み)を撒き散らす。未来の結果を先に指定すれば、過去のあらゆる因果が最短経路(最小作用の原理)で圧縮され、余分な命や思い出がガベージとして切り捨てられるのだ。……因果を無視した奇跡を願うことは、世界に対する略奪そのものなのだよ」


「相馬蓮」


 セラが静かに腕を組み、真剣な眼差しを俺に向けた。


「私自身も、お前が確率をねじ曲げて死者ゼロの奇跡を起こすたびに、どこかで安堵していた。だが……それは騎士としての責任と戦いの痛みを、すべてお前一人の代償に押し付ける甘えだったのだ。……お前が一人で記憶を失い、化け物のようにすり減っていたことを知りながら、止められなかった」


「セラさん……」


「だからこそ問う、相馬蓮」


 セラは真っ直ぐに俺の目を見据えた。


「これから私たちが神のアーキテクチャに挑む戦いにおいて、お前は何を拠り所とする? 奇跡を願わないのなら、私たちはどうやって百二十日後の剪定から、この世界線を守り抜くのだ?」


「決まっている」


 俺は迷いなく、三人の仲間たちを見つめ返した。


「もう二度と、都合のいい奇跡なんかに頼らない。……世界を救うのは『願い』や『祈り』じゃない。【設計(Architecture)と実装(Implementation)】だ」


「設計と……実装?」


 リナがその言葉を噛みしめるように繰り返した。


「そうだ。エンジニアの仕事は、奇跡を起こすことじゃない。過酷な現実の制約条件の中で、バグを取り除き、壊れない堅牢なシステムを作り上げることだ。神が作ったこの世界(OS)の論理構造を正確に解析し、どこに脆弱性があるのかを突き止める。そして、誰も存在を消されず、どの世界線も剪定されないための『新しいプロトコル』を、自分たちの手で一行ずつ論理的に組み上げてデプロイするんだ」


 俺は右腰の聖剣イグニスを軽く叩いた。


「俺はプログラマであり、インフラエンジニアだ。神が不完全な仕様書で世界を剪定しようとするなら……俺たちが完全な仕様書を書いて、システムをアップデートしてやるまでだ」


「……小僧、貴様のあの管理者権限(WORLD_BRANCH_OPERATOR)も、そのためにあったのかもしれんな」


 オルドが深く顎を撫でながら、目を細めた。


「これまで貴様は、死者が出た世界線を捨てて別の世界線へ跳躍(ブランチマイグレーション)し、そのたびに記憶というメモリをフォーマットしてきた。……だが、あの権限の本質は『破棄と逃避』ではない。複数の世界線の差分を統合し、安全に結合するための【バージョン管理システム(VCS)】のコマンドだったのだ!」


「……差分の統合(Merge)……!」


 俺の脳裏で、これまでの全ての試練が一本の太い光となって繋がった。


「そうだ……! これまでの俺は、エラーが出たらブランチごと切り捨てて新しい世界へ逃げていた。だが、三点同期メッシュで全世界線を静定できれば……切り捨てられてきた全ての並行世界線の命と記憶を、欠落なく一つにマージ(統合)できる!」


「……ふっ。全能の神を相手に、世界のバージョンアップとマージを要求するとはな」


 セラが呆れたように、しかし誇らしげに口元を綻ばせた。


「奇跡に縋る勇者など見たくもなかった。だが……自らの知性と剣で現実を再構築するエンジニアならば、喜んで最後まで付き合おう」


「私もだ、小僧!」


 オルドが嬉しそうに立ち上がり、テラスの手すりから王都の街並みを見下ろした。


「魔導学者として、世界のソースコードを書き換える現場に立ち会えるなど、研究者冥利に尽きるというものだ!」


「私も……! レン様が設計される優しい世界の柱になれるよう、一生懸命祈り、癒やします!」


 リナが満面の笑みで頷いた。


***


 方針が定まった俺たちは、直ちに公爵邸を出て、王都中庭の近衛騎士団閲兵場へと向かった。

 朝の澄んだ空気の中、数百名の近衛精鋭兵たちが整然と整列している。

 その先頭で部隊を鼓舞していたのは――副団長ガウェインだった。


「副団長!」


 セラの呼びかけに、ガウェインが振り返った。

 その胸元のポケットには、あの偽りの平和(BR-031)で無理やり押し付けられていた「架空の娘の形見の懐中時計」など存在しない。

 無骨で、仲間思いで、戦場で兵士たちの先頭に立つ――俺たちが命がけで守り抜いた、本物のガウェインがそこにいた。


「おお、セラ隊長! それにソウマ殿、リナ嬢も! ……北方への緊急遠征の噂は耳に入っているぞ。ラーナ要塞の防備再編と、北方特命使節団の護衛だな?」


「ああ。ガウェイン、過酷な任務になるぞ」


 セラの言葉に、ガウェインは豪快に胸当てを叩いて笑い飛ばした。


「何を今更! 北門で十万の大軍相手に死者ゼロを成し遂げた俺たちだぞ! ソウマ殿が描く作戦なら、地の果てだろうと付き合ってやるさ!」


「ガウェインさん……ありがとうございます!」


 俺はガウェインの差し出された分厚い手を、固く握り返した。


***


 陽光が高く昇る頃、俺たち四人とガウェイン率いる近衛選抜部隊は、王都北門の巨大な城門をくぐり抜けた。


 見上げる城壁には、先日の十万総力戦の激闘を物語る焦げ跡や補修の痕跡が、生々しく刻まれている。  だが、ここには死者ゼロで守り抜いた人々の歓声と、真実の命の営みがあった。

 偽りの平和のように誰かを消去して得た静寂ではなく、血と汗と知性で勝ち取った、泥臭くも愛おしい現実だ。


「レン様」


 馬に揺られながら、隣を進むリナが微笑みかけてきた。

 神官服の裾を北風になびかせ、その胸には母の編んでくれた麦わらのお守りが誇らしげに揺れている。


「ラーナ要塞に着いたら……またあの宿舎で、三人で温かいカファ・アプルを淹れて、パンを取り分けて食べましょうね」


「ああ」


 俺はスーツの胸ポケットに収めた『黒革の手帳』を上着越しにそっと押さえた。


「約束だ、リナさん。誰も死なせないし、誰も忘れない。……俺たちの手で、この世界の新しい明日を必ず実装してみせる」


「ふむ……小僧、見ろ」


 馬を進めるオルドが、手元の小型干渉計を掲げて声をかけてきた。


「王都の城壁を離れるにつれ、大気中の魔力コヒーレンス(余地)が再び上昇し始めておる。民衆の観測密度が希薄になる野外では、神のアーキテクチャによる強制静定の拘束力も弱まるのだ。……これなら、ラーナ要塞でのノード構築実験も十全に行えそうだな」


「ええ。王都を出た瞬間から、俺たちの開発フェーズは本番です」


 俺は手綱を握り直し、前方の白銀に染まる北方の山脈を見据えた。


 第一のノード、王都ルミナリア。  第二のノード、北境要塞都市ラーナ。

 そして第三のノード、北方連合の最深部――特異魔導士ミラが待つ虚空の祭壇。


 神が定めた百二十日後の世界線(Branch)剪定(Pruning)というタイムリミットに向け、奇跡への依存を捨てた俺たちの、世界再設計の長き行軍が今、始まった。

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