第41章 結果から選ぶ
祝勝会の翌朝、王都魔導院の最深部にあるオルドの研究室は、いつもと変わらぬインクと硝酸、そして古書の埃っぽい匂いに包まれていた。
部屋の壁一面を埋め尽くす書架には、星界観測記録や魔導構造論の革装本が所狭しと並び、真鍮製の複雑な歯車仕掛けの天球儀がカチカチと鈍い音を刻んでいる。
だが――部屋の中央に漂う空気は、真冬の吹雪よりも冷たく張り詰めていた。
「……信じられん」
大型の量子干渉測定台の前で、オルド・ケインが銀縁の眼鏡を指先で押し上げながら低く呻いた。
測定台の指針は、冷酷に 0.8300 という数値を指し示している。
ガリガリと音を立てて吐き出される羊皮紙の記録紙には、かつて整然と並んでいた記憶のコヒーレンス波形が無残に断線し、広大な領域が灰色に塗り潰されたグラフが出力されていた。
「Fidelity が 0.8300 まで落ちている……。それだけではない。小僧、お前……『MEM-REN-003』――元の世界の日常記憶ブロックが、丸ごと NULLになっているではないか」
オルドが勢いよく振り返り、血走った鋭い眼光で俺を凝視した。
「お前、昨夜リナ神官から元の世界の仕事を聞かれて、一言も答えられなかったそうだな。……本当なのか? 自分がどんな会社に通い、何を糧に生きて、どんな日常を送っていたのか……何一つ思い出せないのか?」
「……ええ」
俺は測定台の硬い木製椅子に座ったまま、静かに頷いた。
隣に立つリナが、俺を気遣うようにそっと肩に手を置いてくれている。その指先が、微かに震えていた。
「スーツを着ていた感触や、通勤していたという事実はおぼろげに分かります。でも……オフィスという場所で誰と会っていたのか、どんな画面を見てどんなコードを書いていたのか、朝起きてから夜寝るまでの二十数年間の暮らしが、完全に頭から抜け落ちています。……まるで、最初からそんな人生など存在しなかったかのように」
「……馬鹿者が」
オルドは苦虫を噛み潰したように吐き捨て、白髪交じりの頭を両手で抱え込んだ。
「三日間の防衛戦で、戦死者ゼロの奇跡を買い取るために、お前は自分の二十数年間の人生の痕跡をすべて虚空へ投げ捨てたのだ。……これ以上世界線を渡れば、次はリナ神官やセラ隊長、この世界で出会った者たちの記憶すら消し飛び、最後には自分が誰かも分からぬただの戦闘機械になるぞ」
「オルド先生……っ」
リナが前に進み出て、オルドをまっすぐに見つめた。
その琥珀色の瞳には、昨夜の涙を越えた強い決意が宿っていた。
「レン様は、もう二度とご自分の記憶を切り捨てないと、私と約束してくださいました。……だから、もう世界線を跳躍して逃げるような方法は使えません。使わせません」
「うむ……」
オルドは深く息を吐き出し、顎髭をしごきながら複雑な表情でリナと俺を見比べた。
「リナ神官の言う通りだ。世界線移動は、もはや完全に限界だ。だが……北方軍の攻勢は一時的に退けたに過ぎん。北方連合の本隊は依然として健在であり、教会の世界線剪定の危機も何一つ解決していない。……正面から戦えばいつか必ず誰かが死に、世界線を渡れば小僧の心が死ぬ。完全に手詰まりだ」
***
「……本当に、手詰まりなんですか?」
俺はオルドを見つめ、静かに問いかけた。
オルドの視線が、部屋の中央に置かれた巨大な黒板へと向けられた。
黒板には、昨夜からオルドが徹夜で書き殴ったと思われる、膨大なテンソル計算と世界線分岐の回路図がびっしりと埋め尽くされていた。
「……小僧。お前、量子情報理論における『事後選択(Postselection)』という概念を聞いたことがあるか?」
「ポストセレクション……?」
頭の奥底で、微かに何かが反応した。
工学としての詳細な記憶は消えていたが、システムを司る根本的な数理の直感だけは、まだ俺の魂の奥底に残っていた。
「通常、因果律というものは『原因』から始まり、途中の『確率的遷移』を経て、最後に『結果』へと至る。……そうだろう?」
オルドがチョークを手に取り、黒板に一本の矢印を引いた。
|ψ₀⟩ ──U(t)──→ Σᵢ cᵢ|φᵢ⟩ ──Measurement──→ |R⟩
「どれほど勝率の低い戦いであっても、無数の世界線の中には、奇跡的に『全員が生還した結果』が微小な確率振幅として存在する。だが、通常の因果律では、その結果を引く確率は 0.0001% や 0.00001% だ。引けなければ誰かが死に、お前は世界線移動で自分を削る羽目になる」
オルドはチョークの先を、黒板の右端――『Result』の文字へと強く叩きつけた。
「だが、もしも――最初から『結果』を先に指定して、世界をその結果だけに強制射影できるとしたらどうだ?」
「結果を……先に指定する……?」
俺は息を呑んだ。
「そうだな。未来における測定結果を
|Rₜₐᵣgₑₜ⟩
(全員生存)とあらかじめ決定し、その条件を満たさない経路の振幅を、過去に遡ってすべて数学的にゼロで割り引く。未来の境界条件を現在にフィードバックさせ、経路積分(Path Integral)をその単一の結果だけに収束させる。……原因から結果へ進むのではない。『結果から逆算して、現実を一つに絞り込む』のだ」
***
「そんなことが……可能なのですか?」
リナが困惑したように小首を傾げた。
「未来を先に決めるなんて……まるで、予言や奇跡のようですが……」
「奇跡などではない。これは純粋な確率論の暴力、神の演算体系へのハッキングだよ」
オルドは黒板に、新たな数式を書き足した。
Initial State
|ψ₀⟩
│
U(t)
│
▼
⟨R_target|U(t)|ψ₀⟩
│
▼
Postselected Reality
「小僧の持つ管理者権限(WORLD_BRANCH_OPERATOR)と、聖剣イグニスの位相干渉能力を使えば、局所的な空間に対して『未来の観測結果』を先払い設定できるはずだ。……これを使えば、世界線を移動して記憶を削る必要はない。この世界線にいながらにして、常に『誰も死なない最短の結果』だけを現実に引きずり下ろすことができる」
記憶を削らずに、全員を救える。
世界線を捨てずに、この場所で仲間を守り抜ける。
その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一条の光のように思えた。
「それなら……その方法を使えば……!」
俺が身を乗り出した、その瞬間だった。
――パキッ、と。
オルドが指の力でチョークを二つにへし折った。
***
「浮かれるな、小僧ッ!!」
オルドの怒声が、研究室の壁を震わせた。
その眼には、狂気にも似た恐怖と警告が宿っていた。
「タダ飯はこの宇宙には存在せん! 結果を先に指定するということは、因果の順番を力づくでひっくり返すということだ。本来なら起きるはずだった無数の物理過程を無視して未来を固定すれば、その歪みは一体どこへ行くと思う?」
「歪み……?」
「世界は、お前が指定した『あり得ない結果』の辻褄を合わせるために、過去の事実や周辺の因果を、勝手に書き換えて帳尻を合わせ始めるのだ」
オルドは折れたチョークを机の上に叩きつけた。
「これを私は『Consistency Debt(整合性負債)』と名付けた。未来の結果を前借りすればするほど、世界の整合性に借金が積み上がる。例えば、絶対に当たるはずの銃弾が外れた結果を固定すれば、『最初から銃身が曲がっていた』とか『射手が直前にくしゃみをした』という過去の改変が勝手に発生する。……最初は小さな事実のすり替わりで済むかもしれん。だが、負債が限界を超えれば、世界そのものの因果が破綻し、現実が崩壊するぞ」
整合性負債――Consistency Debt。
網膜UIの最下段に、これまで 0.00 と表示されていたステータスが、不吉に点滅したような気がした。
「小僧。これは世界線移動以上に恐ろしい、神の因果律そのものを改竄する禁忌の技術だ。……それでも、お前はこの理論を試すと言うのかね?」
オルドの鋭い問いかけが、研究室に重く響いた。
俺は胸ポケットの手帳を指先で押さえ、隣で祈るように俺を見つめるリナの顔を見た。
もう記憶は削らない。
自分を切り捨てて仲間を救う傲慢は捨てた。
だが――全員を守り抜くという誓いだけは、絶対に曲げられない。
「……やります、オルドさん」
俺はまっすぐにオルドを見据え、言い切った。
「どんな負債を背負うことになろうと……俺たちが生き残るための道を、結果から手繰り寄せてみせます」
「……ふん。相変わらず、無茶を言う小僧だ」
オルドは吐き捨てるように言いながらも、その口元にわずかな笑みを浮かべた。
机の引き出しから、古びた真鍮製の精密干渉計と、無垢の水晶でできた小さなコインを取り出して机の上に置く。
「ならば、まずは小規模な実験からだ。いきなり戦場や人間の生死で試せば、世界の歪みで何が消えるか分からんからな。……明日、このコインと干渉計を使って、局所的な事後選択の基礎実験を行う」
「コインの……実験ですか?」
「そうだ。『表が出るか裏が出るか』という単純な確率現象を、結果から逆算して固定してみる。……その時、部屋の中の何が書き換わり、どれほどの負債が発生するかをこの目で確かめるのだ」
オルドの言葉に、リナが真剣な表情で頷いた。
「私も……お祈りと聖木の香炉を用意して、お傍でお手伝いします。レン様のお心が、絶対に歪みに呑まれないように」
「ありがとう、リナさん」
俺は机の上の真鍮のコインを見つめた。
因果を逆算し、未来から現実を選ぶ力。
それは、神が定めた世界のルールに正面から喧嘩を売る、人類未踏の領域。
白亜の魔導院の奥底で、運命を逆算する禁忌の新章――『POSTSELECTION』の扉が開かれた。




