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神様、それはスキル付与ではなく権限昇格です  作者: J-AI


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第40章 日本で何をしていた

【第4部 ARC-IV:事後選択と整合性負債(POSTSELECTION)】

 王都ルミナリアの王宮大広間は、かつてない熱狂と歓喜の光に包まれていた。


 北方連合軍七万の総攻撃を奇跡の『戦死者ゼロ』で撃退した夜。

 無数に吊るされたシャンデリアが黄金の光を放ち、銀の燭台には炎が揺らめき、豪華な料理と極上のワインがテーブルを埋め尽くしていた。

 近衛騎士団の猛者たちも、魔導院の高位術士たちも、貴族たちも、身分の垣根を越えて杯を交わし、歓喜の美酒に酔いしれている。


「奇跡の勇者、相馬蓮殿に乾杯をッ!」


「神話を超える守護者だ! ルミナリアの光万歳ッ!!」


 幾度となく向けられる称賛と乾杯の嵐。

 王宮の主賓席で、俺は愛想笑いを浮かべながら、軽くワイングラスを掲げて応じていた。

 だが――俺の心は、宴会場の熱狂から完全に切り離されていた。


 周囲の喧騒が、ガラス越しに遠くの嵐を眺めているかのように、どこか他人事のようにしか響かない。  身につけているのは、泥と硝煙を洗い落とした黒いスーツの上着。

 召喚された初日からずっと着続けてきた、東京の仕立て服。

 だが――その生地に触れても、かつて感じていた懐かしさや安心感が、まるで湧いてこなかった。


「……少し、風に当たってくるよ」


 隣の席で騎士たちと談笑していたセラに耳打ちし、俺は静かに大広間を抜け出した。


***


 貴賓館の最上階にあるバルコニーに出ると、凛とした夜風が頬を撫でた。

 眼下には、防衛を成し遂げて安堵の眠りにつく白亜の王都の街並みと、遠くの城壁で揺れる篝火(かがりび)が見渡せる。

 冷たい空気が、ワインで火照った体を冷やしていく。


「……ふぅ」


 俺は手すりに体重を預け、夜空を見上げた。

 空には、二つの月が冷ややかに輝いている。

 東京の空には決して存在しなかった、異世界の青白い月。


 カサ、と背後で微かな衣擦れの音がした。


「レン様。……やっぱり、ここにいらっしゃったんですね」


 振り返ると、そこには白と金色の神官服を纏ったリナが立っていた。

 両手には、湯気を立てる二つの陶器のカップ。

 シナモンと甘酸っぱい果実の香りが、夜風に乗ってふわりと漂ってきた。


「リナさん。……祝勝会、抜け出してきちゃったのか?」


「はい。レン様がお席を立たれたのが見えたので……きっと、静かな場所に行かれたんだろうなって。……はい、温かいカファ・アプルです。お砂糖を少し多めにしておきました」


「ありがとう。……助かるよ」


 カップを受け取ると、陶器の肌からじんわりと温もりが掌に伝わってきた。

 一口啜る。

 甘く、少しだけほろ苦い温かい液体が、冷え切っていた胃の腑を優しく温めてくれた。


「……誰も死なずに済んで、本当によかった」


 リナが並んで手すりに寄りかかり、夜空の二つの月を見上げながら、心からの吐息を漏らした。

 その横顔には、二日間の激闘を乗り越えた深い安堵の色が浮かんでいた。


「はい。全部……レン様が、命がけで私たちを守ってくださったおかげです」


「俺一人の力じゃないよ。セラさんや近衛の皆さん、そしてリナさんの祈りと護符があったからだ」


 俺は胸ポケットの上から、リナがくれた手作りの護符をそっと押さえた。


***


 しばらくの間、二人は無言でカファ・アプルを飲みながら、静かな夜の王都を見つめていた。

 穏やかで、満ち足りた時間。

 だが――リナが、ふと思い出したように俺の黒いスーツの袖口へと視線を落とした。


「……レン様のお召し物、不思議な生地ですよね。王都の上等な絹とも、北方の羊毛とも違って……とても細い糸で、丁寧に織られていて」


 リナの柔らかな指先が、俺のジャケットの襟元に触れた。


「召喚された日からずっと、レン様はこのお洋服を大切にしていらっしゃいましたよね。……そういえば、私、まだちゃんとお聞きしていませんでした」


 リナは琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、無邪気で温かい微笑みを俺に向けた。


「レン様は、元の世界――日本という国で、どんなお仕事をされていたのですか?」


「え……?」


 その問いかけが、夜の静寂の中に落ちた。


「こんなに立派なお洋服を着て、毎日どこへ行かれていたんですか? どんな人たちとお話をして、どんな暮らしをされていたんですか? ……レン様が元の世界でどんな方だったのか、もっと知りたいなって思って」


 悪意など微塵もない、純粋な好意と関心から紡がれた言葉。


 だが――。


 その瞬間、昼間に城壁の上で感じた、あの冷たい違和感が蘇った。


 ――セラから術式の数式を問われ、理論が思い出せなかったあの感覚。


 あれは単なる極限集中の疲れなどではなかったのか?


***


「あ……俺の、仕事……?」


 俺は口を開き、リナに答えようとした。


(俺の仕事は……)


 スーツを着ていた。

 朝、家を出ていた。

 電車に乗って……どこへ?


(どこへ通っていた……? 誰と……何をしていた……?)


 頭の中に必死に手を伸ばす。

 だが、そこにあるはずの記憶の引き出しが、底の抜けた暗黒の穴になっていた。


 昼間、理論の数式が思い出せなかっただけではない。

 オフィス。デスク。パソコン。

 それらの単語の輪郭すら、指の間から灰色の砂となってサラサラと崩れ去っていく。


 俺は何を売っていた?

 何を設計し、誰と働いていた?

 会社の上司の名前は? 同僚の顔は?

 朝起きてから夜眠るまで、俺は日本という社会で、一体何者として生きていたんだ――?


CRITICAL_MEMORY_FAULT:

- TARGET: MEM-REN-003 (OCCUPATION_AND_DAILY_LIFE_JP)

- STATUS: INTEGRITY 0.0000 (LOST)

- ERROR: RECOVERY_VECTOR_NOT_FOUND (NULL)


 網膜の隅に、青白い冷酷なエラーログが刻まれる。


「あ……あ、れ……?」


 俺の手から力が抜け、カップの中のカファ・アプルが波打った。

 必死に胸ポケットから『Memory(記憶) Ledger(台帳)』を取り出し、震える指でページをめくる。


 そこには、かつて俺が必死に書き殴ったはずの文字があった。

 だが――そのインクの文字は、すべて黒いモザイクと解読不能のノイズへと変質していた。

 俺がどこで働き、何を食べて、どんな部屋に住み、誰と言葉を交わしていたのか。

 二十数年間にわたる俺の人生のすべての日常記録が、完全な空白(NULL)へと呑み込まれていた。


「嘘だろ……? おい……嘘だろ……!?」


「レン様……? どうされたんですか……?」


 リナの心配そうな声が、遠くから聞こえる。


「リナさん……俺……思い出せないんだ……」


 震える声が、俺の唇から零れ落ちた。


「え……?」


「昼間に数式が思い出せなかったのは……疲れなんかじゃなかった……。俺が……日本で、何をしていたのか……。どんな仕事をしていたのか……。スーツを着て、どこへ行っていたのか……何一つ……思い出せないんだッ!!」


 俺は両手で頭を抱え、バルコニーの床に崩れ落ちそうになった。


 親友の名前を失った。

 母親の声を失った。

 好きだった歌を失った。

 高校の青春を失った。

 そして今――自分が社会の中で何者であったかという、二十数年間の『日常のすべて』すら失ってしまった。


 俺は、元の世界に帰る場所どころか、元の世界に『自分が存在していた証拠』そのものを、完全に切り捨ててしまったのだ。

 全員を救うための代償として。

 世界線を移動し、奇跡を買い取るためのコストとして。


「俺は……誰なんだ……? 日本にいた相馬蓮って奴は……一体、誰だったんだよ……ッ!!」


 涙が溢れ出し、手帳の白いページの上にポタポタと落ちた。

 冷たい風が吹き抜け、空っぽになった俺の胸の空洞を吹き抜けていく。


***


 ぎゅっ、と。  温かい腕が、震える俺の体を正面から強く包み込んだ。


「…………っ!」


 顔を上げると、そこには大粒の涙を瞳に溢れさせ、怒りと悲痛に顔を歪めたリナの姿があった。

 彼女の細い腕が、俺の背中にきつく回され、爪が食い込むほど強く抱きしめられる。


「どうして……! どうしてレン様は、またそんな大切なものを削ってしまったんですか……ッ!!」


 リナは俺の胸に顔を押し当て、激しい慟哭とともに叫んだ。


「昼間の戦いでも……戦死者をゼロにするために、またご自分を切り売りしたんですね!? 私が……一人で背負って自分を傷つけるのは傲慢だって、あんなに言ったのに……どうしてまた、そんな大切な記憶を差し出してしまったんですかッ!!」


「リナ、さん……」


「ばかです……レン様は、本当に大馬鹿者です……ッ! どうしてそんなに、ご自分を粗末にするんですか……ッ!」


 リナの悔しさに震える涙が、俺のスーツの胸元を熱く濡らしていく。

 彼女は俺の自己犠牲を決して許さない。決して美化しない。

 だが――すべてを失って空っぽになり、子どものように怯えて震える俺を見捨てられるはずもなかった。


「……でも、もう……消えてしまったものを責めたって、戻らない……っ」


 リナは顔を上げ、涙で濡れそぼった瞳で、まっすぐに俺を見据えた。

 その瞳には、深い悲しみと、それを超える揺るぎない覚悟の炎が宿っていた。


「約束してください。もう二度と……自分を切り捨てないと……ッ!」


「……ああ……約束する……」


「レン様が元の世界の過去を全部忘れてしまっても……今のレン様は、ここにいます! 私の前で、ちゃんと温かい息をして生きています!」


 リナは俺の冷え切った両頬を、温かい両手で包み込んだ。


「レン様が過去を全部失ってしまっても、これからのレン様は、私が全部覚えています。レン様が何者か分からなくなったら、何度でも私が教えます。……私が、レン様の命の証拠になりますッ!!」


 リナの魂の叫びが、空っぽになった俺の胸の空洞を、熱い光で満たしていった。


 そうだ。

 俺は東京の過去を失った。

 自分が何者だったのかも、二十数年間の日常のすべてを消去された。


 だが――今、俺の目の前には、俺の命を全身全霊で繋ぎ止めようとしてくれるリナがいる。

 この世界線(BR-021)で、俺と共に生きてくれる仲間たちがいる。


「……ありがとう、リナさん。……ありがとう……」


 俺はリナの背中に手を回し、その震える体を力強く抱きしめ返した。

 二つの月が照らす夜のバルコニーで、俺たちは互いの体温と鼓動を確かめ合うように、静かに寄り添い続けた。


ARC-III: MULTIPLE LOSS ―― COMPLETE

IDENTITY_FIDELITY: 0.8300

STATUS: READY_FOR_NEXT_ARC (ARC-IV: POSTSELECTION)


 過去をすべて削ぎ落とされた男は、失われた記憶の残骸と少女のぬくもりを胸に、次なる禁忌の領域へと歩みを進める。

世界線:BR-021 | 観測忠実度(Identity Fidelity):0.8300 | 整合性負債(Debt)発生実験

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