第38章 捨てた声
三日目の夜明け前、王都ルミナリア北門作戦司令部は、凍りつくような緊張感に支配されていた。
大きな作戦卓の上には、王都北郭の詳細な立体防衛図が広げられ、青と赤の駒が無数に配置されていた。
卓を囲むのは、近衛騎士団の各隊長、魔導院の主席術士たち、そして白銀の甲冑を纏ったセラだった。
壁に掛けられた松明の炎がパチパチと爆ぜ、張り詰めた男たちの影を不気味に揺らしている。
「――北方軍の動きが、これまでと根本的に異なっている」
セラが長剣の鞘に手を置いたまま、低く鋭い声で口を開いた。
その切れ長の翠眼が、防衛図の北東平原を指し示す。
「昨夜のうちに、敵主力本隊――推定七万が前面に展開を完了した。初日と二日目に投入されたのは、あくまで威力偵察と外壁の消耗を狙った前哨部隊に過ぎない。……今日、夜明けと同時に仕掛けてくるのは、間違いなく彼らの全戦力を注ぎ込んだ最終総攻撃だ」
司令部内に、重苦しい息呑みの気配が広がった。
七万の軍勢。
雪原を埋め尽くす無数の黒鉄の攻城塔、超大型の装甲魔獣、そして空間を歪ませる多重位相砲台の群れ。
対する王都北門の防衛兵力は、二日間の戦闘で疲弊した近衛部隊と正規軍を合わせても、実数で一万五千に満たない。
五倍以上の戦力差。
「大結界発生器の出力はどうなっている?」
セラの問いに、魔導院の術士が青ざめた顔で答えた。
「魔力結晶の過熱が限界に達しています。……第一・第二隔壁の維持は可能ですが、敵の特異魔導部隊による広域干渉を受ければ、正午まで持ち堪えられるかどうか……」
「持ち堪えさせるのではない。正午までに敵の攻城梯団の主力を叩き潰し、指揮官首魁を討ち取るのだ」
セラは迷いなく言い放ち、それから卓の端に立っていた俺へと視線を向けた。
「相馬蓮。お前の魔導と剣技が、この戦いの最大の要となる。……だが、昨日の戦いで無理が祟っているように見える。体調は万全か?」
「……ええ。問題ありません、セラさん」
俺は頷き、聖剣イグニスの柄を軽く握り直した。
だが――その言葉を発した瞬間、頭の奥底で、キーーーンと鋭い高周波の電子音が鳴り響いた。
***
――キィィィィィン……。
鼓膜の奥を針で突かれるような耳鳴り。
視界の端がわずかに滲み、周囲の音が急速に遠のいていく感覚に襲われた。
セラの指示する声も、隊長たちの応呼も、まるで分厚い水底から響いてくるように籠もって聞こえる。
AUDIO_STREAM_WARNING:
- RESIDUAL_PHASE_LEAKAGE: DETECTED
- SAMPLING_RATE_DESYNC: 48kHz -> 44.1kHz (DROPPING)
- ACOUSTIC_INTERFERENCE: EXTERNAL_OVERLAY
視界の隅に走る、冷たいシステムログ。
昨夜、洗面所の鏡で見た視覚の遅延に続いて、今度は聴覚のインターフェースまでが破綻を起こし始めているのか?
「相馬蓮? 顔色が悪いぞ」
セラの訝しげな声が、遠くから聞こえた。
「いえ……集中を高めているだけです。作戦の配置、了解しました。俺は第三防壁の中央、最前線の遊撃ラインに入ります」
「……うむ。リナ神官の救護班は、城壁直下の第二地下壕に配置してある。後方の憂いは断ち切って戦え」
「はい」
ブリーフィングが終了し、隊長たちが一斉にそれぞれの持ち場へと散っていく。
俺もまた司令部を後にし、城壁へと続く冷たい石造りの回廊へと足を踏み入れた。
***
静まり返った回廊には、外の冷気が吹き込んでいた。
薄暗い通路には誰もおらず、俺の革靴の足音だけが、コツ、コツ、と反響している。
胸ポケットから手帳を取り出し、指先で表紙をなぞる。
リナの自筆のメッセージ――『私がレン様の証拠の人になります』。
その温もりを反芻しながら、俺は歩を進めていた。
だが――脳裏をよぎるのは、昨夜の鏡の中の男の冷笑だった。
あの唇の動き。 『お前が捨てたんだろ』という無音の告発。
――ガサッ。
突然、耳元で乾いた砂が擦れ合うような音がした。
「…………?」
俺は足を止め、周囲を見回した。
誰もいない。
石造りの壁と、等間隔に並んだアーチ状の窓があるだけだ。
外の雪原は、夜明け前の薄紫色の闇に沈んでいる。
気のせいか――そう思って再び歩き出そうとした、その瞬間だった。
――ゾクッ。
右耳のすぐ後ろ。
皮膚に冷たい吐息がかかるほどの至近距離から、声が響いた。
――『また、捨てたな』
「…………ッ!?」
心臓が止まるかと思った。
俺は咄嗟に身を翻し、腰の聖剣を半ば引き抜きながら背後を睨みつけた。
だが――やはり、誰もいない。
空っぽの回廊。冷たい夜風が吹き抜けるだけ。
しかし、今の声は幻覚などではない。
頭の内側の思考の声ではなく、右耳の鼓膜を物理的に震わせて飛び込んできた、紛れもない『音』だった。
そして――何よりも恐ろしかったのは。
その声の周波数、イントネーション、息遣いが。
俺自身の声と、完全に一致していたことだった。
***
「誰だ……っ! どこにいる!?」
俺は息を荒らげ、聖剣を構えたまま虚空に向かって叫んだ。
応える者はいない。
だが――今度は、左耳のすぐそばで、自分自身の声が嘲笑うように囁いた。
――『どこにいる、だって? お前が一番よく知ってるだろ』
背筋を冷たい氷柱で撫で回されたような戦慄が走る。
――『東京の街も、母さんの声も、大好きな歌の続きも、高校の教室も……お前が全部ゴミ箱に捨ててきたんじゃないか』
「違う……! 俺は……みんなを守るために……!」
――『みんなを守るため? くくっ……笑わせるなよ。お前はただ、リナが死んだ世界線から逃げ出しただけだろ。セラが死んだ世界線を切り捨てただけだろ』
声は、冷徹に、残酷に、俺の心の最も柔らかい傷口を抉り出してきた。
――『お前が選ばなかった世界線で……俺たちは今も、半壊した礼拝堂の冷たい床の上で、血に染まったリナの亡骸を抱きしめたまま凍りついているんだぞ』
「やめろ……っ!」
――『お前が救ったのは「この世界線のリナ」であって、俺たちの愛したリナじゃない。お前はただ、自分に都合のいい並行世界を渡り歩いて、過去の自分を虚空へ捨て殺してきただけだ』
――『俺たちを置き去りにして……一人だけ全部忘れて、綺麗な顔して hero 気取りか?』
「やめろ……っ! 出て行け……っ!!」
俺は両耳を手で強く塞いだ。
だが、声は耳を塞いでも遮断できなかった。
鼓膜の奥から、頭蓋骨の振動を通して直接響いてくる。
CRITICAL_RESIDUAL_WARNING:
- RESIDUAL_LAYER_COALESCENCE: ACTIVE
- ECHO_SOURCE_NODES: BR-000, BR-014 (CONVERGING)
- ACOUSTIC_INJECTION: IDENTITY_ORIGIN_REN
――Residual Layer(残差層)での統合。
俺が世界線を跳躍するたびに、虚空へと切り捨てられていった『過去の俺たち』。
リナを失って絶望の中で死んでいったBR-000の俺。
セラを失って壊れていったBR-014の俺。
それらの魂の残骸が、虚空の底で一つの怨念となって集い、俺の脳へ直接声を送り込んでいるのだ。
「う……あぁぁ……っ……!」
激しい頭痛に膝をつき、石畳の床に手をついた。
視界が明滅し、胃の中から酸っぱいものが逆流してくる。
***
「レン様ッ……!!」
その時、回廊の先から、澄んだ足音とともにリナが駆け寄ってきた。
床に崩れ落ちて耳を塞いでいた俺の姿を見て、彼女は息を呑み、膝をついて俺の肩を抱きしめた。
「レン様! しっかりしてください、レン様……!」
リナの温かい手が、俺の冷え切った頬を包み込む。
その体温が触れた瞬間――。
――ザザッ、と。
ラジオのチューニングが外れるようなノイズとともに、耳元で囁いていた『俺自身の声』が、ふっと掻き消えた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
「レン様、息を吸って……深く、息を吐いてください……」
リナは俺の胸に手を当て、柔らかな治癒の光を注ぎ込んでくれた。
温かい魔力が全身を巡り、乱れ狂っていた心拍が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……リナ、さん……」
「はい、ここにいます。私、ここにいますよ」
リナは自分の首元から、銀の鎖で編まれた小さな布袋――聖樹の葉と白銀の糸で丁寧に結ばれた『護符』を外し、俺の手のひらに握らせてくれた。
「これ……出陣前に、教会のお祈りを込めて作ったんです。……レン様の心を守るための、お守りです」
手のひらに残る、リナのぬくもり。
手作りの護符の柔らかな感触。
「……ありがとう、リナさん。……すまない、少し目眩がしただけだ」
俺は必死に表情を取り繕い、護符を強く握りしめながら立ち上がった。
耳元の声のことは、決して言えない。
言えば、リナはまた自分を責めて泣いてしまう。
――ブオォォォォォォォォォォンッ……!!
その時、城壁の外から、大地を割るような北方軍七万の総攻撃の角笛が鳴り響いた。
地平線が赤く染まり、夜明けの光とともに、無数の軍旗が雪原を埋め尽くして進軍を開始する。
「……時間ですね」
リナが立ち上がり、凛とした眼差しで城壁の方角を見つめた。
「ああ。行こう、リナさん」
俺は護符を胸ポケットの手帳の隣に仕舞い込み、聖剣イグニスを抜いた。
耳元で囁いたあの声――切り捨てられた過去の俺たちの亡霊。
どんな悪霊が俺を呪おうとも、俺はこの世界線を守り抜く。
犠牲者を一人も出さずに、この戦いを終わらせてみせる。
白亜の王都に、運命の最終決戦の幕が切って落とされた。




