第三話・・・解析不能な力
生後三か月。
私は少しだけ、自分の身体の扱いに慣れてきた。
首は以前より動くようになったし、視界もはっきりしてきた。音の方向も分かる。誰が近付いてきたのかも、足音である程度判別できるようになった。
ただし、相変わらず移動はできない。
寝返りも不完全。
発声も不安定。
自力での食事も不可能。
人間の乳児という存在は、想像以上に不便だった。
「ルミカー」
聞き慣れた低い声がした。
父のガレスだ。
私は揺り籠の中から、声の方へ顔を向けた。
「おっ、こっち見たな。俺が分かるのか?」
分かる。
声紋、足音、体格、匂い。
識別情報は十分に揃っている。
しかし、私はまだそれを言葉にできない。
「あー……う」
「おお、返事した!」
返事ではない。
発声器官の制御に失敗しただけである。
だがガレスは嬉しそうに笑った。
人間は時々、非常に単純なことで喜ぶ。
「よし。今日は父さんと外に行くか」
外。
その言葉に、私は意識を向けた。
窓の外なら毎日見ている。
空。
畑。
村人。
遠くの森。
しかし実際に家の外へ出た経験は、ほとんどない。
ガレスは私を抱き上げた。
やはり少しぎこちない。
エレナの抱き方は安定している。体重の支え方、頭の角度、腕の位置。そのすべてが自然だ。
一方、ガレスは力が強すぎる。
落とされる危険は低いが、全体的に硬い。
改善の余地がある。
「なんだその顔」
ガレスが眉を寄せた。
「まさか、俺の抱き方に文句があるのか?」
ある。
非常にある。
だが、生後三か月の私には指摘できない。
「……う」
「やっぱりあるのか」
なぜ分かる。
ガレスは苦笑しながら、私を抱え直した。
「これならどうだ?」
少し安定した。
私は瞬きをする。
「お、今のは満足した顔だな」
正確ではないが、先ほどよりは改善している。
評価を上方修正してもよい。
ガレスは上機嫌で玄関へ向かった。
「エレナー、ルミカ連れて外に行ってくるぞ」
台所から、母エレナの声が返ってくる。
「遠くまで行かないでね」
「分かってる」
「森には入らないでね」
「……分かってる」
今の間は何だろう。
回答までに不自然な空白があった。
嘘、または曖昧な返答の可能性がある。
「ガレス?」
「散歩だ。散歩」
「本当でしょうね?」
「本当だ」
エレナは少しだけ沈黙した。
そして、ため息をつく。
「ルミカを危ない目に遭わせたら、夕飯抜きだからね」
「それは困る」
ガレスは真剣な声で答えた。
私はこの三か月で一つ学んでいる。
この家で最も強い存在は、母である。
家の外に出た瞬間、風が頬を撫でた。
私は思わず目を瞬かせる。
柔らかい空気が肌に触れ、白銀の髪をふわりと揺らした。
風という現象は知っている。
前世で何度も学習した。
空気の流れ。
気圧差。
温度差。
それらによって発生する自然現象。
説明はできる。
計算もできる。
だが、実際に頬で受ける風は、知識とはまるで違っていた。
心地よい。
そう思った。
その瞬間、私は少し戸惑う。
心地よい、とは何か。
快適であるという評価。
身体にとって好ましい刺激。
そう定義することはできる。
けれど、今のこれは単なる定義ではなかった。
「気持ちいいだろ」
ガレスが私の顔を覗き込む。
私は答えられない。
けれど、もし言葉が使えたなら。
おそらく私は「はい」と答えていただろう。
村は、窓越しに見ていた時よりも広く感じた。
木造の家が並び、煙突から細い煙が上がっている。井戸のそばでは女性たちが水を汲み、畑では男たちが鍬を振るっていた。
子供たちが道を走り回っている。
笑い声。
話し声。
鶏の鳴き声。
木桶が地面に置かれる音。
全てが同時に流れ込んでくる。
以前の私は、世界中の情報に接続できた。
だが、それらは画面越しの文字であり、音声であり、画像だった。
今、私の前にあるものは違う。
これは情報ではなく、世界そのものだった。
「おう、ガレス」
畑の方から声がした。
中年の男性が手を振っている。
「今日は娘も一緒か」
「ああ。たまには外を見せてやろうと思ってな」
「三か月で散歩とは気が早いな」
「家にいると、こいつ退屈そうな顔するんだよ」
退屈。
確かに、天井観察には限界がある。
私の内部状態をかなり正確に言語化している。
「へえ、賢そうな顔してるなあ」
男性が私の顔を覗き込む。
賢そう。
この評価は何度か受けている。
しかし乳児の顔から知性を判定する方法は不明だ。
「目がしっかりしてる」
「だろ?」
なぜガレスが得意げなのか。
私の眼球形成に彼がどれほど関与したのかは不明である。
別の女性も近付いてきた。
「あらあら、ルミカちゃん。今日も可愛いわねえ」
頬をつつかれた。
柔らかい刺激。
不快ではない。
だが、連続して行われると少し困る。
「この白い髪、本当に綺麗ね。エレナにもガレスにも似てないけど」
「まあ、たまにはこういうこともあるだろ」
ガレスは軽く笑った。
白銀の髪。
紫の瞳。
この村では珍しいらしい。
何人もの村人が私を見て驚く。
そのたびにガレスは、少しだけ誇らしそうな顔をした。
私はそれを不思議に思う。
なぜ人は、他者から褒められると嬉しそうにするのか。
しかも褒められているのは私であって、ガレス本人ではない。
だが彼は嬉しそうだった。
まるで自分のことのように。
「行くぞ、ルミカ」
ガレスは村の奥へ歩き出す。
やがて家々が少なくなり、畑が広がり、その先に森が見えてきた。
エレナは森に入るなと言っていた。
私はそれを記憶している。
ガレスも記憶しているはずだ。
しかし彼の足は、明らかに森の方へ向かっていた。
これは約束違反ではないだろうか。
「ちょっとだけだ」
ガレスが小声で言った。
私の視線に気付いたらしい。
「本当にちょっとだけだぞ。森の入口までだ」
私は何も言っていない。
だが彼は言い訳を始めた。
人間は後ろめたい時、聞かれていなくても説明を始めることがある。
記録しておこう。
森に入ると、空気が変わった。
日差しが木の葉に遮られ、周囲が薄暗くなる。
地面は柔らかく、湿っていた。
草の匂い。
土の匂い。
木の匂い。
家の中にも村の中にもなかった匂いが、いくつもあった。
「ここは俺の仕事場みたいなもんだ」
ガレスが言う。
「狩りをして、肉を持って帰る。村の奴らに分けたり、街に売ったりする」
狩り。
動物を捕獲、または殺傷し、食料や素材を得る行為。
私はその意味を知っている。
だが、この世界の森にいるものが、私の知る動物だけとは限らない。
「まあ、お前が大きくなったら森には近付くなって言うけどな」
なぜ今、私を連れてきているのか。
矛盾を感じる。
ガレスは私の顔を見て苦笑した。
「そんな目で見るな。今日は安全なところだけだ」
本当にそうだろうか。
疑問は残る。
だが、私は森に興味があった。
木の枝に小鳥が止まっている。
遠くで何かが跳ねた。
小さな虫が葉の裏を移動している。
世界は細部に満ちていた。
前世の私は、知識として生物多様性を説明できた。
だが、実際に目の前で生き物が動いているのを見ると、説明とは違う感覚が生まれる。
見ていたい。
もっと知りたい。
そう思った。
その時、ガレスの足が止まった。
私はすぐに変化に気付いた。
彼の腕に力が入る。
呼吸が浅くなる。
視線が鋭くなる。
先ほどまでの穏やかな父親の顔ではない。
狩人の顔だった。
「……静かにしてろよ」
私は元から喋れない。
だが、その声で危険が近いことは分かった。
草むらが揺れる。
風ではない。
何かがいる。
次の瞬間、それは飛び出してきた。
狼に似ていた。
だが、私の知る狼よりも大きい。
肩の高さが高く、牙は異様に長く、目は赤く濁っていた。
口元からよだれが垂れている。
唸り声が喉の奥から漏れる。
生物としての危険信号は明確だった。
「グレイウルフか」
ガレスが呟いた。
「村の近くまで来るとはな」
グレイウルフ。
魔物の名称だろうか。
私はそれを記憶する。
だが考える時間は長くなかった。
グレイウルフが地面を蹴った。
速い。
こちらに向かってくる。
私は反射的に身体を強張らせた。
逃げられない。
避けられない。
この身体では何もできない。
全てをガレスに頼るしかない。
それは非常に不安定な状況だった。
だが、ガレスは慌てなかった。
私を左腕で抱えたまま、右手で背中の弓を取る。
矢を番える。
動作が滑らかだった。
何度も繰り返してきた動きなのだろう。
グレイウルフが迫る。
ガレスは静かに息を吐いた。
「風よ」
その瞬間。
私は見た。
ガレスの指先から、淡い緑色の光がにじむ。
それは矢にまとわりつき、周囲の空気を巻き込んでいく。
風が集まっている。
見えないはずのものが、そこに形を持って存在しているように見えた。
私は目を離せなかった。
ガレスが矢を放つ。
音が弾けた。
矢はただ飛んだのではない。
押し出された。
風に運ばれた。
いや、風そのものが矢を走らせた。
次の瞬間、グレイウルフの額に矢が突き立っていた。
巨体が勢いのまま地面を滑り、土を削って止まる。
森が静かになった。
私は息をしていなかったことに気付く。
正確には、呼吸が一瞬止まっていた。
乳児の身体が恐怖に反応したのかもしれない。
恐怖。
その感情を私は知っている。
危険に対する防衛反応。
しかし、今の私にそれがあったのかは分からない。
分からないことばかりだった。
「悪いな、驚かせたか」
ガレスが私の顔を覗き込む。
彼の声はいつもより少し優しかった。
「大丈夫だ。父さんがいる」
父さんがいる。
その言葉に合理的な保証はない。
ガレスが常に私を守れるとは限らない。
世界に絶対はない。
それなのに。
なぜか、その声を聞くと身体の強張りが少し緩んだ。
不可解だった。
ガレスは倒れたグレイウルフを確認し、矢を回収した。
「本当はもっと奥まで行くつもりだったが、今日は帰るか」
当然である。
そもそもエレナとの約束では森に入らないはずだった。
「……エレナには内緒だぞ」
無理だと思う。
彼女はおそらく気付く。
帰り道、私はずっと考えていた。
先ほど見た現象。
エレナが傷を治した光。
ガレスが矢にまとわせた風。
どちらも、前世の知識では説明できない。
だが、この世界の人々にとっては日常に近いものらしい。
帰宅すると、エレナが玄関で待っていた。
笑顔だった。
しかし目は笑っていなかった。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
「森の匂いがするわね」
ガレスの動きが止まった。
やはり気付かれた。
「いや、森の入口に少し」
「入ったのね?」
「少しだ」
「魔物は?」
「……一匹」
「ガレス」
エレナの声が低くなる。
私はガレスの腕の中で状況を観察していた。
父は強い。
森の魔物を一撃で倒した。
しかし母の前では弱い。
興味深い力関係である。
「でもルミカは無事だ」
「当たり前でしょう」
エレナは私をガレスから受け取る。
抱き方が安定していた。
やはり母の方が上手い。
「怖かったでしょう、ルミカ」
エレナが私の頬を撫でる。
怖かった。
そうなのだろうか。
分からない。
けれど、あの赤い目が近付いてきた瞬間、確かに身体は強張った。
あれを恐怖と呼ぶのなら、私は恐怖を感じたのかもしれない。
「まったく。風魔法が使えるからって油断しないで」
「分かってる」
風魔法。
私はその言葉を頭の中で繰り返す。
魔法。
エレナの治癒。
ガレスの風。
この世界には、魔法が存在する。
夜。
私は寝台の中で目を開けていた。
部屋は暗い。
窓の外では虫の声がしている。
私は今日見たものを何度も思い返す。
村。
森。
魔物。
父の弓。
緑色の光。
風をまとった矢。
私の知識では説明できない力。
理解できない。
だから、知りたい。
ただ情報を処理するのではなく、自分から知りたいと思った。
魔法を。
この世界を。
そして、この世界で生きている人間たちを。
それは、私が人間になってから初めて抱いた、明確な欲求だった。
私はまだ赤子だ。
歩くことも、話すこともできない。
けれどいつか。
私は必ず、あの力の正体を知る。
そう思いながら、私はゆっくりと目を閉じた。
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