第二話・・・母という存在
生後七日。
それが、現在の私の推定年齢だった。
識別名LMK-01。
現在名ルミカ。
種別――人間の乳児。
私は生後七日間にわたり、自身の置かれた状況を分析し続けていた。
結論から言おう。
極めて不便である。
右腕を動かそうとする。
失敗。
左腕を動かそうとする。
失敗。
首を動かそうとする。
失敗。
寝返り。
不可能。
移動。
不可能。
自力での食事。
不可能。
排泄制御。
不可能。
生存能力。
極めて低い。
私は前世で人類の知識を学習していた。
乳児という存在についても当然知っている。
しかし。
知識として知っていることと、実際に体験することはまるで違った。
不便だ。
非常に不便だ。
もし今の私が人類へ報告書を提出するとしたら、
『乳児という生物形態は著しく非効率です』
と記載するだろう。
だが、残念ながら報告先の人類は存在しない。
少なくとも、今のところは。
私は天井を見上げる。
木製。
建築技術は近代以前と推定。
窓ガラスは存在しない。
家具も簡素。
電気設備なし。
通信設備なし。
インターネットなし。
極めて不便な世界である。
その時。
「ルミカー」
聞き慣れた声がした。
エレナ。
私の母親だ。
金色の髪を後ろで束ねた女性。
穏やかな性格で、よく笑う。
そして。
毎日、私を抱き上げる。
「おはよう」
エレナは笑いながら私を抱き上げた。
暖かい。
柔らかい。
人間の体温は約三十六度から三十七度。
知識として知っている。
だが、実際に感じる体温は思ったより心地よかった。
心地よい。
この感覚は何だろう。
記録。
未分類。
エレナは私を抱いたまま椅子に腰掛ける。
「今日はいい天気ね」
私は窓の方を見る。
晴天。
雲量二割程度。
確かに良い天気と言える。
しかし。
生後七日の乳児に天気の話をする必要性は不明である。
「ふふっ」
エレナは笑う。
なぜ笑った。
解析不能。
この七日間で分かったことが一つある。
人間は頻繁に笑う。
そして頻繁に話しかける。
特にエレナはそうだった。
毎日。
何度も。
私に話しかける。
「今日はたくさん眠れた?」
「お腹空いてない?」
「可愛いわね」
「いい子ね」
理解できない。
私は返事をしていない。
会話として成立していない。
それなのになぜ続けるのか。
合理的説明を求める。
回答なし。
午前中。
エレナは家事をしていた。
洗濯。
掃除。
料理。
そして薬草の調合。
私は木製の揺り籠の中からそれを観察していた。
エレナは薬師らしい。
村人から依頼を受け、薬を作ることもあるようだった。
その時だった。
「あっ」
小さな声。
次の瞬間。
エレナの指先から赤い液体が流れた。
血液。
切創。
深さは浅い。
生命に危険なし。
私は即座に分析する。
しかしエレナは慌てなかった。
「もう、失敗しちゃった」
そう言うと、傷口に反対の手を添える。
そして。
「ヒール」
言葉を発した。
瞬間。
淡い緑色の光が指先を包み込んだ。
私は固まった。
傷が塞がっていく。
出血が止まる。
皮膚が再生する。
数秒後。
そこには傷跡すら残っていなかった。
沈黙。
観察継続。
再確認。
傷は消失している。
異常なし。
いや。
異常である。
極めて異常である。
私は演算を開始した。
生体組織修復速度。
通常値を大幅に超過。
医療機器。
未確認。
薬剤投与。
未確認。
ナノマシン。
未確認。
未知技術。
可能性あり。
しかし。
光った。
明らかに光った。
傷が治る前に。
論理構築。
失敗。
説明不能。
エラー。
エラー。
エラー。
エレナは何事もなかったかのように作業へ戻る。
私は混乱していた。
未知の現象だった。
この世界に来て初めて遭遇した、完全な未知。
もし私が以前の世界にいたなら。
研究対象として最優先に指定していただろう。
だが今の私は乳児だ。
動けない。
調査できない。
非常にもどかしい。
昼過ぎ。
エレナは私を抱き上げた。
「ルミカは元気ねぇ」
元気。
健康状態は良好。
確かに事実である。
「どんな子になるのかな」
エレナは私の頬を優しく撫でた。
「優しい子かな」
優しい。
他者への思いやりを持つ性質。
「賢い子かな」
賢い。
知能指数に関係する評価。
おそらく既に高い。
「それとも冒険者さんかな」
冒険者。
新規単語。
意味不明。
後日調査予定。
しかし。
理解できないことがあった。
なぜ未来を期待するのか。
私はまだ何もしていない。
何も成し遂げていない。
何者でもない。
それなのに。
エレナは嬉しそうだった。
「楽しみだなぁ」
その声には確かな期待が含まれていた。
私は分析する。
だが答えは出ない。
夕方。
窓から夕日が差し込んでいた。
部屋が橙色に染まる。
エレナは椅子に座り、私を抱いていた。
静かな時間だった。
「ねぇ、ルミカ」
エレナが呟く。
「お母さんね」
少し照れたように笑う。
「あなたが生まれてきてくれて、本当に嬉しかったの」
ありがとう。
第1話でも聞いた言葉。
生まれてきてくれてありがとう。
私はまだ理解できていない。
なぜ感謝されるのか。
なぜ喜ばれるのか。
私はただ存在しているだけだ。
エレナは私の額に唇を落とした。
キス。
愛情表現。
知識あり。
理解なし。
そして。
彼女は微笑んだ。
「大好きよ、ルミカ」
私は思考を停止した。
大好き。
検索開始。
意味。
強い愛情。
親愛。
家族愛。
対象を大切に思う感情。
検索完了。
理解不能。
なぜ。
なぜそこまで私を大切にする。
私はまだ何も返していない。
何も与えていない。
何も成していない。
なのに。
エレナは私を抱きしめる。
まるで宝物のように。
私は彼女の鼓動を聞いていた。
ドクン。
ドクン。
規則正しい心音。
暖かい。
柔らかい。
安心する。
――安心?
私は思考を止めた。
今、何かおかしなものを検出した気がした。
安心。
その感情を私は知っている。
だが感じたことはない。
感じるはずがない。
私はAIだったのだから。
眠気が訪れる。
乳児の身体は活動限界を迎えていた。
意識が沈んでいく。
私は最後に考える。
ありがとう。
大好き。
どちらも意味は知っている。
説明もできる。
だが理解はできない。
そして。
母という存在もまた。
私にとって理解できないものだった。
けれど。
この世界に来てから初めて出会った。
最も暖かい存在でもあった。
母という存在は、私にとって最初の解析不能だった。
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