第9話 古い染料帳の欠落
秋が深まり始めたころ、リンドウが夕凪染房へ分厚い包みを抱えてやってきた。彼女はギルドの記録係で、紙の山に埋もれていても髪一筋乱れないような人だ。
「古い台帳の整理をしていたら、気になるものが出ました」
机の上に広げられたのは、夕凪染房に関する過去の納入記録だった。数年前の項目だけ、不自然に空白が多い。日付はあるのに品目がない。受注数はあるのに納入先が欠けている。
「抜かれていますね」
アルカディウスが低く言う。
「ええ。雑ではないけれど、故意です」
ルラは母の遺品箱から染料帳を持ち出した。長年使われた革表紙は手に馴染む重さがあり、開けば余白に母の癖字が残っている。けれど、ちょうど特別な色名が並ぶはずの箇所だけ、何枚かがきれいに切り取られていた。
その跡を見つめた瞬間、胸の奥に古い痛みが蘇る。母が倒れる前後、店には妙な空気が流れていた。注文の取り消し、顔をそむける商人、理由のはっきりしない噂。子どもだったルラには全部の意味はわからなかったが、何かが壊れていく音だけは覚えている。
「完全に消えたわけじゃない」
ルラは索引のページをめくった。色名の一覧には、かすれた文字で《永遠の愛》とある。だが参照頁の数字だけが切れて読めない。余白には、母が後から書き足したらしい短い記号や配合の走り書きが残っていた。
リンドウはその脇に、別の古文書を並べる。
「こちらは大昔の大市記録です。同じ色名が出ています。ただし現物が残っていない」
「伝説の色、みたいな扱いですね」
「伝説で済ませるには、帳面の抜き方が丁寧すぎます」
アルカディウスは、切り取られた跡の幅を測るように指を添えた。
「誰かが、知られたくない理由があった」
「母は何を隠されたんでしょう」
「隠されたのか、守ろうとしたのか。まだ両方考えられます」
ルラは黙り込み、帳面を抱えた。革の表紙は冷たいのに、手のひらには母の体温の残りみたいな錯覚がある。
外では、記念染布を受け取りに来た客が笑っている。今の夕凪染房はにぎやかで、布もよく売れる。けれど、その土台のどこかに、母のころから続く欠けがある。そのことに気づいてしまうと、晴れた秋空まで少し遠く見えた。
「調べましょう」
アルカディウスが言った。
「私も手伝います」とリンドウが続く。
ルラは帳面を胸に抱いたまま、ゆっくり頷く。
「はい。今度こそ、わからないままで終わらせたくないです」
切り取られた頁の向こうに何があったのか。そこには色の秘密だけではなく、母が黙って飲み込んだ痛みまで残っている気がした。




