第8話 好き。でも言わない。言えない。
その夜、雨は港町をまるごと包み込むように降った。
船便は止まり、通りの石畳は黒く濡れ、夕凪染房の戸を叩く雨音だけが絶え間なく続く。帳場を片づけていたアルカディウスは、外を見て言った。
「今から帰るのは難しいですね」
「店の奥、使ってください。母のころから、泊まり込みの染め直し用に小部屋があります」
灯りを一つ落とすと、店は昼よりずっと狭く感じた。雨で外の音が遠のくぶん、火鉢のぱち、と鳴る音や、湯の沸く気配がやけにはっきり聞こえる。
ルラは余り野菜で簡単な煮込みを作り、アルカディウスは器を並べた。向かい合って食べるだけなのに、昼間の忙しさとは違う緊張がじわじわ広がっていく。
「こうして静かだと、不思議ですね」
「何がですか」
「あなたと二人でも、会話が途切れて困らない」
「困りますか、ふつう」
「相手によります」
アルカディウスは匙を止めた。返事を選びかけて、結局「そうですか」とだけ言った。その一言が妙にやさしくて、ルラは器の中の湯気に目を落とす。
どうせ終わる関係だ。
恋人のふりは、冬の大市まで。店を守るための取り決め。わかっているのに、静かな夜に向かい合っていると、その線が少しずつ曖昧になる。アルカディウスが湯を注ぐ手つき、熱い器を渡す前にそっと布を巻く癖、話を聞くときのまっすぐな視線。その一つ一つに、ルラの心は勝手に色を足してしまう。
食後、店先の布を取り込もうとして、ふたり同時に手を伸ばした。指先が触れる。ルラは慌てて手を引いた。
「すみません」
「こちらこそ」
なのに、どちらもすぐには離れられず、ほんの一瞬だけ近い距離にいる。雨音が、余計に沈黙を深くする。
「ルラさん」
「はい」
「私は……」
告げそうになった言葉は、外で落ちた雷の音にかき消された。アルカディウスは一度目を伏せ、微笑む。
「明日の仕入れ、朝一番で手配します」
「……はい」
違う。今のは、そういう話ではなかった。ルラにはわかったし、彼にもわかっている顔だった。それでも、どちらもそこから先へは進まない。
寝支度のあと、小部屋へ入る前に、ルラは振り返った。
「アルカディウスさん」
「はい」
「今日は、いてくれて助かりました」
「こちらこそ」
「それだけです」
「……ええ。それだけ、ですね」
戸を閉めたあと、ルラは暗い部屋で胸に手を当てた。好き。でも言わない。言えない。言ってしまえば、この静かな夜まで壊れてしまいそうだった。
店の外では雨が降り続いていた。まるで誰かの代わりに、言えなかった言葉を流していくみたいに。




