第22話 この日々を愛と呼ぼう
徹夜の作業が続いた夜、ようやく一息ついた店内で、ルラは母の染料帳を開いた。
《永遠の愛》の配合頁は戻らない。けれど裏表紙の綴じ目に、薄い紙片が一枚だけ隠されていた。何度も触られて端の擦り切れた、小さな手紙だった。
火のそばへ寄せ、ゆっくり読む。
立派な恋ではなくても、
誰かのために布を温める日々を、
私は愛と呼びたい。
短い文だった。けれど、その言葉は今の夕凪染房の空気そのものみたいだった。贈り物のために色を選ぶ手。濡れた荷を乾かすために火を守る手。眠いのに帳場を締める手。怒りすぎず、諦めすぎず、誰かの今日を少しだけよくしようとする手。
恋だけが愛ではない。
けれど、恋がその中に含まれてもいい。
ルラは手紙を胸に当てた。母はたぶん、誰か一人に向けてこの言葉を書いたわけではない。暮らしそのものへ向けて書いたのだ。だからこそ、今の自分にも届く。
店の隅では、アルカディウスが眠気と戦いながら帳面を整えていた。灯りの下の横顔は疲れているのに、紙を扱う手つきだけは相変わらず丁寧だ。
「どうしました」
顔を上げた彼が訊く。
「母の手紙が出てきました」
「……なんと」
「立派な恋ではなくても、誰かのために布を温める日々を、愛と呼びたいって」
アルカディウスは静かに目を細めた。
「すばらしい言葉です」
「はい」
しばらく沈黙が続いたあと、ルラは笑った。
「なんだか、楽になりますね。ちゃんと恋じゃなきゃとか、うまく言えなきゃとか、そういうことばかり考えていました」
「言葉にできる形だけが本物ではない、ということでしょうか」
「きっと」
戸の外では、夜明け前の風が布を鳴らしている。慌ただしくて、騒がしくて、休む暇もない。それでも、この毎日を愛と呼べるなら、自分はまだ歩ける。ルラはそう思った。
この日々を愛と呼ぼう。
その言葉が、店の中に静かに染みていった。




