第16話 ここで線を引く
大市の準備が本格化するにつれ、ふたりの間の空気はかえって張っていった。
仕事の話はできる。帳場の数字も、配送順も、布の仕上がりも共有できる。けれど、その外側にあることになると、どちらも妙に慎重で、慎重すぎてよそよそしい。
閉店後、ルラは店先の布を外しながら言った。
「……そろそろ、終わりにしましょうか」
アルカディウスの手が止まる。
「何をです」
「恋人のふりを。これ以上続けると、町の人たちも本気で期待します」
「もう本気で期待している気がしますが」
「そういう話じゃなくて」
言葉がうまく選べない。好きになりすぎる前に、では遅い。もう好きだからこそ、これ以上は危ないのだ。
「あなたは大市の責任もあるし、王都の話もある。私は店を残すことに集中しなきゃいけない。だったら、ここで一度、線を引いたほうがいいです」
アルカディウスはしばらく何も言わなかった。夕暮れの色が横顔を暗くする。
「……わかりました」
その返事は、あまりに整っていた。
ルラの胸がぎゅっと縮む。こんなにあっさり受け入れられるなら、自分だけが勝手に重くしていたのだろうか。そう思うとみじめで、同時に少し腹が立った。
「ただし」
アルカディウスが続ける。
「仕事上の協力は続けます。そこまで切る理由はありません」
「はい。それは、お願いします」
「私情で大市を失敗させるわけにはいきませんから」
「……ええ」
私情。その言葉が正しすぎて痛い。
別れ際、アルカディウスはいつものように一礼した。けれどその顔は、少しも納得していなかった。口元だけが静かで、目の奥に言葉が残っている。
ルラは戸を閉めたあと、しばらく背を預けた。線を引いたはずなのに、心の中はむしろ乱れていた。これでいい。これ以上は苦しいから。そう言い聞かせても、さっきの整いすぎた返事が何度も胸に刺さる。
一方で、店を離れたアルカディウスも、港の坂を下りながら深く息を吐いていた。受け入れるしかないとわかっていた。彼女が無理をして決めたことも。ここで食い下がれば、いちばん困るのはルラだということも。
それでも、終わらせたいのは自分ではなかった。
言えなかった言葉ばかりが、夜の潮風に溶けずに残った。




