第44話:そんな都合よくはいきませんよね
ティータイムの休憩が終わり、念のためにトイレに行ったアリアが戻ってきた。
アリアは勉強机に座りアンに「よろしくお願い致します」と声を掛けてから、後半戦が始まった。
目の前に並べられた本を軽く視界に映しながらアリアは、自信満々にアンに宣言した。
「今日のわたくしは一味違いますよ。アン先生、あまりの凄さに腰を抜かさないで下さいね。フフン!」
「あら、それはとても楽しみです。その自信はそのメガネのおかげかしら」
アンの指摘にアリアが力強く頷く。
「そうです!!アン先生とお揃いのメガネです。もうわたくしは、勉強なんて何も怖くはありません!」
「アリアお嬢様、良い覚悟ですね。そうれでは、最初に昨日の確認から始めましょうか。忘れずに復習は出来ていますよね?」
「勿論ですよ!忘れていません!」
「では、その話が本当か少しテストをしましょうか。私が今から言う単語を書いてみて下さい。いきますよ、お嬢様。空」
「はい、空ですね」
アリアはノートに異世界の文字で空と書いた。
「正解です、お嬢様。次は、湖を書いてみて下さい」
「分かりました。湖ですね」
アリアは再びノートに湖と異世界の文字で書いた。
「はい、合っていますよ。それでは、今度は少し長くなりますが、頑張ってくださいね。夜」
「簡単ですよ。夜ですよね。・・・あれ?夜?ヨルヨル?・・・ちょっと待ってください。夜?夜?」
ノートの白地部分を凝視し、浮かび上がってこないか必死にアリアは待った。
(3,4,5と前の記憶で順番に来たのに、夜、night、・・あああ、出て来ない)
「あの、ですね。・・・アン先生、ちょっと忘れてしまったみたいなので、次をお願い出来ませんか」
結局、白地は白地のまま何も浮かばなかったので、恐る恐るアリアは次の単語を促した。
「分かりました。では次にいきますね。森を書いてみて下さい」
真剣な表情でアリアの様子を窺った後、アンは次の単語を口にした。その単語は直ぐに思い付き、アリアは1つ行を飛ばして答えをノートに書いた。
その後も、アリアはアンの出題する単語をノートに書いていった。
結果、30単語中18単語をアリアはノートに異世界の文字で書いた。
(・・・正解率60%)
ぽつぽつと空白の行が目に付くノートを呆然と眺める。
(俺は、たった30単語も覚えられないのか)
そう呟くアリアの心中では、悲しさよりも悔しさが大半を占めていた。
アリアは、下唇を強く噛みしめ身体を震わせた。
そして、暫しノートを凝視した後、顔を上げてアンに向けた。
「ごめんなさい。全部書けませんでした」
顔はアンに向けたが、失望されているのではと怖くてほとんどアンの顔を見られずに、アリアは頭を下げた。
「昨日の授業後の復習は、忘れずにやりました。本当ですよ。嘘ではありませんから。でも、全部書けませんでした。ごめんなさい、アン先生。わたくし、先生の教え子失格です」
アリアはアンの落胆の表情を脳裏に思い浮かべながら、怖々と顔を上げていく。
アンにどんな表情で罵詈雑言を浴びせられるのだろうと考えると身体が震え、一旦顔を上げるのを止めてしまった。
けれども、待っていても何も変わらないし、嫌な事ならさっさと終わりにした方が楽だと、アリアはゆっくりと怖さに微かに身体を震わしながらでも顔を上げ切った。
そして、アリアはアンに顔を向けた。
そこには、じっと自分を見つめているアンがいた。
アリアは見つめるその目がとても怖く感じられ視線を逸らそうとした。だが、視線を動かすことが出来ず、視線はアンを見据えたまま逸らせなかった。
アンは暫くアリアをじっと観察した後、ようやく口を開いた。
「本当に復習をしたのですね」
心の中まで見通そうとするような鋭い視線でアリアを見据え、アンが訊ねた。
「はい、しました!証拠だってありますよ!このノートを見て下さい!!」
嘘はついていないと必死に、昨日の夜に復習に使ったノートをアンに見せた。
アンはアリアが差し出すノートを丁寧に受け取ると中身に目を通した。アリアの体感で数分間、ノートを眺めたアンは顔を上げてアリアを正面から見据えた。
見つめられるアリアは生きた心地がしない程の緊張感の中にいた。乾く口を開き、アンに訊ねた。
「どうでしたか?ちゃんと復習をしていましたよね?」
と、そこまで口にしたアリアの瞳が潤み始め、声が震え出した。
「・・・わたくしは、先生の生徒失格ですか。たった30個の単語も覚えられない落ちこぼれのわたくしは、先生の生徒たり得ませんか。100点が取れない、最初から躓くわたくしの先生など、もうしたくないと仰いますか。わたくしの教師は今日でおしまいですか」
バッドエンドの恐怖もあるが、それよりも今のアリアはアンに落胆され、見捨てられる恐怖の方が上回っていた。
「ごめんなさい。わたくし、これからはもっともっと勉強をします。100点を取れるように頑張ります。だから、見捨てないで下さい。わたくしに落胆しないで下さい。わたくしを置いていかないで見捨てないでアン先生」
何時の間にか握り締めていた膝の上の拳に涙が当たっていた。雫がメガネを伝い落ちていく。
(やっぱり、俺はこっちの世界でもダメなのか。どんなに勉強を頑張っても、テストはほとんど真ん中辺の点数しか取れなかった。兄や妹の様には、いい点数を取れなかった。アリアに、身体が変わったのだから勉強が出来るようになるかもと思ったけど、やっぱりダメなのかな)
ネガティブな思考がアリアの心を埋め尽くす。
兄妹に感じていた劣等感が、アリアになった今でも再び心を苛み始める。
痛い程に再度、拳を握り締めた。
アリアがもう一度必死にさぼっていないとアンに信じてもらう為に、口を開こうとした。
「アン先生、本当に」
「分かりましたよ、お嬢様」
アンがアリアの言葉を遮り、口を開いた。
言葉を遮られたアリアは、絶望感に体中が支配された。
(もう言い訳など聞きたくないという事ですか!待って、アン先生!わたくしは本当に復習をしましたよ!お願いだから、話を聞いてください!)
言おうとした言葉が口から出ずに、脳内で虚しく響き渡る。
アリアが恐怖で目を見開き自分を見つめる中、アンは真剣な表情でアリアを見据えた。
「お嬢様は、昨日の私の言いつけ通りにしっかりと復習をした。それで、間違いありませんね?」
アリアを、自分の生徒を正面から見据えたアンがアリアに静かに問いかけた。
アリアは零れ落ち続ける涙と一緒に頷いた。
「はい、わたくしは復習をサボらずにやりました。でも、それでも、覚えられませんでした。折角、教えて頂いたのにごめんなさい」
悔しくて、思う様に覚えられない自分に情けなくて、そして、教えてもらったのに出来なかった申し訳なさに、涙が溢れてくる。
そんなアリアをアンは優しく見つめた。そして、握りしめられたアリアの拳にそっと手を重ねた。
「謝罪する必要はありませんよ、アリアお嬢様。お嬢様は優秀な生徒です」
にっこりと微笑みアンが言葉を掛けた。
「え?優秀なんですか?60点しか取れなかったんですよ!たった30単語も覚えられないわたくしが優秀なんですか!惨めなわたくしを励まそうとしているだけではなく?」
皮肉を言われていると思い込んだアリアは、興奮した様子で上擦った声で聴き返す。
「いいえ違います。私の本心からの言葉です」
アンは落ち着いた声音でアリアに答える。
「お嬢様は60点も取れたのですよ。30問中18問、たった1日でこれ程の単語を正解できたのです。それにお嬢様のノートを拝見させて頂きました。丁寧な文字で、一生懸命に覚えようという意思が見て取れました。授業の時間に私が話した注意点にも気を付けておられ、尚且つサボらずに復習をしてくださいました。このどれを取っても、私の今までの生徒の中で最も優秀な生徒ですよ。アリアお嬢様は」
言い終わると、アンはアリアの頭をそっと撫でる。
「この調子で楽しんで勉強をしましょう。私の授業は頑張るではなく、楽しんでお勉強がモットーですからね」
優しく語りかけ、最後に微笑みかけてアンは話を締めくくった
アリアはキョトンとした様子でアンの話を聞き、それが聞き終わり何度か瞬きをしてアンを見据えた。
そして、皮肉ではなく、褒められたのだと理解できたアリアはゆっくり口角を上げ、最後に笑顔を形作った。
「ありがとうございます、アン先生。わたくし、精一杯楽しくお勉強をしますね。アン先生がわたくしの先生で本当に良かった。本当にわたくしは、幸せ者です」
屈託なく華やかな表情でアリアがアンを見つめて微笑んだ。
「そう仰って頂き、私もお嬢様の教師を務められて大変光栄に思います。これからもお嬢様の勉学のサポートさせて頂きますね」
アリアにお辞儀と言葉を以て、アンは自分の意思を返した。アリアも「はい、先生」と笑顔で返した。
アリアが先程までの憂いを全く感じさせない晴れ渡った表情で、アンを見据えて声を掛けた。
「先生、先程のテストは少し物足りない結果に終わってしまったので、今日は昨日の自分よりも一歩前に進めるように文字を教えて下さい」
「はい、お嬢様。それでは、本日の語学の授業を始めますよ」
アンは出来ない事を隠さずに打ち明けて真摯に向き合うアリアの頭を撫でてから手を離すと、休憩と昨日の確認テストのために一旦片付けた本を再び取り出し、アリアの目の前に並べていった。
そして、並べ終わるとアリアに優しく微笑んだ表情で口を開いた。
「では、お嬢様。今見た感じで一番、ご自身でやりたいと思えるテキストをお選びください」
アンにそう問われ、アリアは目の前に並べられた本に視線を落とした。
(やっぱり、メガネをかけても文字は読めるようにはならなかったか。でもいいや。裏技に頼らなくても読めるようになってみせる)
内心で密かに決心すると、両手でメガネのズレを直し、視線と一緒に気持ちも何らかの本に見えていたテキストに向けた。
可愛い絵柄のテキストが並ぶ中で、たぶん時計らしきものやカレンダーらしきものが描かれたテキストを手に取った。
「先生、このテキストでお願いします」
絶対にこれが良いと胸に抱き締めてアンにお願いした。
「ふふ。分かりました、お嬢様。本日はその数字のテキストを進めましょうか」
「はい、お願いします!!」
数字と聞き、シオンには結局訊けなかった日付の事もこれで分かると、自分の選択に嬉しく微笑んだ。
アリアは胸に抱いたテキストをそっと勉強机に置くと、「よろしくね」、とテキストに囁き優しく表紙を撫でた。
そんなアリアを他のテキストを片付けつつ横目で見ていたアンは、思わず綻びそうになりながらも、教師としての使命を燃え上がらせていた。
(ここまで勉学に向き合っておられるお嬢様に、私が出来ることは今までの経験と知識を遺憾無く教え導くこと)
アンは自身の教師としての役目を再確認すると、志強くアリアに向き直った。
「アリアお嬢様、本日の授業の前に先程のテストで出来なかった単語の確認を一緒にしていきましょう。それが終わってから、数字のお勉強を始めます」
アリアはその進め方に一瞬賛成しかけたが、心の中にふと浮かんだ不安に口を動かされた。
「アン先生、分かりました。・・・分かりましたが、わたくしは間違った単語のみでなく、もう一度全てをおさらいしてほしいのです。本当に書けるようになったのか、今度も書けるのかと不安が浮かんでしまい、自信が持てません。お願いします、アン先生」
自分の提案を受け入れてもらえるか、眉根を下げた不安な表情でアンを見つめる。
アンは本当に嬉しそうに笑み、やりがいを目一杯感じる気持ちでアリアに向き合った。
「分かりました。では、昨日の確認を一通り済ませた後に、数字のお勉強へと入りましょう」
積極的に自分に向かって来るアリアに、アンは堪らずアリアの頭を撫でた。
そして、安堵した表情で見上げるアリアに口を開いた。
「それと、お嬢様。私に遠慮なさらずに、どんどん自身の意見を仰ってください。先程、お嬢様が仰ったお願いで、私は気持ちが逸ってしまっていたことに気付かされました。早く次の授業に進みたいが為に、昨日の授業内容の復習を疎かにする所でした。どこかに教師という傲りがあったのかもしれません。気付かせて頂きありがとうございました」
アリアに頭を下げ感謝する。そして、アンは頭を上げると教師としての顔つきで、今日の授業へと向かって行った。
「それでは、昨日の授業の確認の後に本日の授業へと進みましょう」
「はい、先生。お願いします!」
返事を返したアリアは、昨日習った単語を再びアンと一緒にノートに一つずつ書いていった。
アンとの復習が終わったアリアは、いよいよかと、逸る気持ちを抑えきれずにアンに声を掛けた。
「先生、早く今日の授業を始めましょう」
やっとこの世界の数字が分かると、アリアは嬉しそうに笑顔を浮かべた。
(これで、時間が分かるようになる。日付と時間が分かれば、後どれくらいの時間が俺には残されているのかがはっきりする。その残りの時間で、バッドエンド回避への計画が立てられる。悪役令嬢モノの漫画やアニメの主人公みたいに、俺も周りとの軋轢を解消してハッピーエンドに行けるぞ)
そう脳裏で考え、ハッピーエンドへの見通しが明るくなったアリアは、アンの返事を受けてからテキストの表紙を捲った。
やはりテキストの中身は、まだ見た事のないこの世界の文字で埋め尽くされていた。
けれども、昨日の様に悲嘆に暮れることなく、今の自分の現状として素直に受け止めた。
アリアはアンの指示に従いテキストを捲り、表が描かれたページに視線を落とした。
「本日は、このページの表を覚えましょう」
「分かりました」
アリアは表を確認する。
縦10列、横10行の表が目に入った、
「お嬢様、私が表の説明を致しますね。縦が1~10の数。横が10~100の数となります」
「なるほど、そのように並んでいるのですね。これなら、覚えられそうです」
アンの説明を聞いたアリアは、内心でガッツポーズをした。
(よし!元の世界と同じ数字の順序だ!良かった。法則さえ覚えちまえばこっちのもんだ!)
楽勝ムードでニコニコ笑顔のアリアはアンに先を促した。
「アン先生!わたくし早く覚えたいです」
「はい、分かりました。それでは私の後に続いて、発音しながら実際に書いてみてください」
「了解しましった!」
アリアはちょっとだけ中身が漏れかかった返事をしてアンにギロっと睨まれたが、それに気づかずにハッピーエンドへの光明に嬉しそうに微笑み、ペンを握ってノートに向かった。
アンはアリアの言葉遣いに若干の引っ掛かりを覚えたが、楽しそうに綻んだ表情のアリアを見てしまい、今は些末な問題かと切り捨て、また明日にでも二度とはしたない言葉遣いにならないように徹底的に教え込めばいいかと考えた。
こうして明日の授業の前半がアリアの知らぬ間に決定されていく中、アリアはアンの後に続いて数字を書いて覚えようとしていった。
アンの後に続いて異世界の数字を書いていくこと暫し、アリアは表の2行目20まで何とか頭に叩き込むことが出来た。
3行目にアンが入ろうとした時、アリアが「もう今日はこれ以上無理です」と、パンクぎりぎりの頭で必死に訴えた。
そして、その必死の訴えがアンに届き、今日は表の2行目までとなり授業が終了した。
(終わった。けど、もう少し頑張れ俺の脳細胞!)
湯気が立ち上る脳に檄を飛ばした後、アリアは今、アンに聞かなければならない重要な問い掛けを口にした。
「アン先生、折角数字を覚えたので、今何月か書きたいです」
限界ぎりぎりの頭では、直接的な表現で訪ねることしか出来なかった。
アンは折角覚えた数字を使いたいというアリアの姿勢に感心し、疑いなく笑顔で教えていった。
「今は5月の中旬ですね、お嬢様」
「・・・5月?」
アンの答えを聞いたアリアは、12歳の自分が15歳の学園入学までの残り期間をさっと頭の中で計算し、後2年と半年強あることを算出した。
限界近い頭を酷使したアリアはその結果、更に頭から湯気を立ち昇らせながら鈍った思考のまま首を傾げてアンを見つめた。
「何月かは分かりました?アン先生、これをどのように書くか教えて下さい?」
通常の思考でも疑問符が浮かぶぼんやりとしたアリアに、アンが和やかな笑みを浮かべて応えた後、手本を示していった。
ぼんやりとした表情のアリアは、その手本を数秒眺めてからゆっくりと丁寧に書いていった。
そして、それをアリアが書き終わった所で、最後に一通り今日のおさらいをして、復習を忘れずに行うようアンに注意を受けて、本日の授業が終了した。
「アリアお嬢様、お疲れ様でした」
「ありがとうございます、アン先生」
アンの労いにアリアが感謝を口にした。
アンはアリアの感謝に笑顔で返すと、纏めたテキストなどの荷物を手に席を立ちアリアに顔を向けた。
「お嬢様、最後にもう一度仰っておきます。復習を忘れずに行ってくださいね。明日の授業の時間に今日と同じように確認テストを行います。それでは、お嬢様、本日の授業お疲れ様でした」
アンはアリアに頭を下げると、ドアを開けて廊下へと出ていった。
限界ギリギリの状態で何とかアンを見送ったアリアは、ベッドへと倒れ込んだ。そして、重い瞼を閉じた。
完全に寝落ちする前に、アリアは1つ心の中で心配した。
(シオンは大丈夫かな)
身の回りが静かすぎて寂しくなったアリアは、早く帰って来てくれないかなとシオンを心の内に思い起こしながら、起きたら目の前にいる事を願って眠りへと落ちていった。
アリアに恋しがられているシオンは、街のとあるお店の前で悩んでいた。
(こすぷれ?ショップ?)
前に街に来た時にはなかった新しく出来たお店を見つめて、シオンは首を傾げた。
周りのお店とは、一線を画する妙な雰囲気のあるお店を見つめる。
(何ですかね、この胸躍る感覚は!)
ショーウィンドウに並ぶ魅惑的な衣装をじっと眺めて内心で呟いた。
シオンは店の前で数秒間考え込むと、意を決して妙な魅惑に誘われるように魔窟へと足を踏み入れていった。
脳裏にアリアを想像しながら・・・。




