第43話:今日も特別授業ですよ、アリアお嬢様
捨て台詞を残して食堂を飛び出したアリアは、自分を追いかけてきたフウとセツと途中で合流し、部屋までの道程を3人で歩いていった。
その道中、ダニエルへの愚痴を2人に零し、それに2人が同感だと頷いてくれたおかげでアリアの気分は随分と爽やかになっていた。
そして、部屋のドアが見えてきた時、アリアは2人に軽く頭を下げ感謝した。
「フウお姉ちゃんとセツお姉ちゃん、わたくしの話を聞いて下さりありがとうございました。2人のおかげで、随分と気が晴れました」
「ヒメちゃん、お礼なんていらないよ。私はお姉ちゃんだからね、可愛い妹の愚痴なんて楽しいものだから、遠慮なくどんどん言ってくれてもいいからね」
「フウねえの言う通り、お礼なんていらないよ。ヒメは悪くないし、悪いのはあの親父だしさ。ね、ヒメ!」
2人のアリアへの思いやりに、自然に微笑んで答えた。
「はい、分かりました」
フウとセツは返事に満足すると、アリアを順番に抱き締めて一言かけていった。
「じゃあね、ヒメちゃん。お勉強頑張ってね」
「ヒメ、逃げちゃだめだぞ。今日のお風呂で、私が逃げなかったか試してやるからな」
「はい、フウお姉ちゃんとセツお姉ちゃん」
アリアは苦笑を浮かべて答えると、2人にお辞儀をしてからドアを開けて部屋へと入っていった。
フウとセツはアリアが部屋に入った姿を最後までも届けると、表情を引き締め直して自分達のやるべき事に向かって行った。大切な妹をいつでも守れるように。以前よりも積極性を持って先を見つめて2人は歩いていった。
部屋に入ったアリアは、一直線に窓に向かった。そして、無言で窓を開け放った。そのまま、他の窓も開けていき部屋にある窓を全て開け終えた。
窓から入る風がアリアの銀色の髪をさらい、部屋の中に吹き込んでいく。
溜まっていた淀んだ空気が、風に押され外へと押し出されていった。
アリアは窓辺で、じっと部屋全体を眺める。そのまましばらく眺めた後、硬い表情を微かに和らげた。
(アン先生が来るまでに、全部の空気を入れ替えてやる)
そう内心で呟き、視線をベッドに向けた。
綺麗に整えられたベッドがアリアの視線に映った。
「スイがやってくれたのか?」
そう疑問を呟き、アリアはゆっくりとベッドに向かい、その前に立った。
先程、潜ったり、転がったりしたせいで乱れていたベッドのシーツとその上の布団が、綺麗に整えられていた。
アリアは暫し整ったベッドを眺めていると、ドアがノックされ、それに返事を返すとスイが静かにドアを開けて部屋に入ってきた。
アリアは視線をスイに移すと、恭しく頭を下げるスイに声を掛けた。
「ベッドはスイがやってくれたの?」
スイは下げた頭を上げると、不安が滲む声音と表情のアリアに大きくゆっくりと頷き答えた。
「はい、勿論ですよ。お嬢様とのお約束事を破るなど私はしませんよ」
「本当に?誰かが、普段のルーティンで掃除に入ったとかではなく?」
「違いますよ。私がお嬢様のお食事中に部屋に戻り、ちゃちゃっと済ませておきました。ですから、ご安心ください」
「そうなのね!ならよかった~~」
ほっと胸を撫で下ろし、長く息を吐き不安を肺から全て吐き出した。
スイは、安堵し緩んだ表情で自分を見上げるアリアが愛おしくて堪らなくなった。
そっとアリアに近づき、胸に抱き締めた。
そして、見上げるアリアに微笑むと、アリアの頭を撫でていった。
母親に撫でられた子供の頃を思い出しながら、アリアはスイの胸に心から身を預けた。
快いスイの胸に深く顔を埋め、絶対的な安心感の下、アリアは小さく刺さる心の棘に気付いた。
暫し瞳を閉じて顔を預けた後、アリアはスイの胸から離れて、穏やかな表情を浮かべるスイに訊ねた。
「午後からの授業が始まるまで、まだ時間がありますよね」
一度気持ちを切り替えるためにあってほしいと期待を込めて訊ねた。
「そうですね」と呟き、スイがサイドテーブルの上にある時計に目を向ける。
そして、時間を確認して何かを計算しながら何度か頷くと、アリアに顔を向けて優しく微笑んで口を開いた。
「そうですね。まだアン先生がお見えになっていませんので、後30分は時間があると思いますよ」
本当はもう間もなく授業の時間となるのでそれを知らせに来たスイであったが、アリアの様子から何か気持ちの整理が必要なのかと推察し、そう嘘をついた。
「分かりました。では、少々お手洗いに行ってきますね」
「はい、いってらっしゃいませ、お嬢様」
アリアが部屋から駆け出して出ていく姿を見送ったスイは、足早に部屋から出てアンが控える部屋に向かっていった。
「アン先生に開始時間を30分繰り下げて頂けるようにお願いしませんとね」
小さく口にして、スイはアリアを案じながら、辿り着いた部屋のドアをノックした。
トイレを済ませたアリアは、手を綺麗に洗った後、目の前の鏡に一度顔を映した。
数秒見つめた後、顔を下げて顔を洗おうとした。が、髪が同じように下がるので、このまま洗うと髪も濡れてしまうと、朝にシオンがやってくれたように髪を上げようと考えた。
アリアは、何かないかと手洗い場の周りを探った。だが、何も髪を上げるのに使えそうなものがなかったので、1つ息を吐くと仕方がないと視線を水道に向けた。
「濡れないように洗えばいいんだよな」
自己弁護を済ませると、両手に水を溜め小さく顔を洗っていった。しかし、物足りなさを感じてしまった。
「乾かせばいいよね」
そう自分に言い訳をすると、両手に水を溜めて勢いよく顔を洗った。
そして、さっぱり洗い終わった後に豪快に顔を上げて、水の滴る顔を鏡に映した。
憂いが流れて爽やかな表情を見つめた後、アリアは両手で軽く頬を叩いて気合を入れた。
「よし!」
自分を鼓舞し終わったアリアは、豪快に袖で顔を拭い外していた伊達メガネを気力十分でかけると、お手洗いから廊下へと踏み出していった。
(前の男の時には出来なかった親孝行の分まで、俺は生きなくっちゃな!)
そう気持ちの切り替えを済ませて部屋に戻ってきたアリアは、早速と授業前にもう一度復習だ、とやる気を漲らせて机に向かった。
そして、数分後には、集中力を切らしたアリアがお外の景色を、あははっと楽しそうに眺めていた。
そのまま景色を眺めていると、ドアが小さくノックされた。
机から振り返り、「どうぞ」と返事をすると、「失礼します」とアンとスイが入ってきた。
座ったままでは失礼かと考えて、アリアが椅子から立ち上がり2人に向き直った。
部屋に入って恭しく頭を下げていた2人が、顔を上げてアリアを目にした瞬間固まった。
(あれ?)
2人の姿にアリアが首を傾げた。
暫くすると、アンが笑顔でアリアの下までやってきた。
そして、にっこりと笑うと、額に青筋を浮かべたままアリアに静かに告げた。
「今日も、チェイサー家のご令嬢としての心構えからお勉強を始めましょうね」
鋭い威圧感にアリアは、素直に「はい」としか答えられなかった。
恐怖に思わず漏らしそうになりながら、後ろで微笑んでいるスイに視線で助けを求めたが、微笑んだまま首を横に振るだけで助けてはくれなかった。
アリアは絶望感に慄きながら、顔をアンに向けた。
「アリアお嬢様、よそ見はいけませんよ。それでは本日最初のお勉強は、身嗜みです。たっぷりと、もう二度と!!忘れることがないように教え込ませてもらいますね」
目に一切の手加減を映さずに、アンは笑顔でアリアを見据えた。
「お手柔らかにお願いします」
アンの恐怖の笑顔に、身体を震わせながら何とか笑顔で答えた。
「良い返事です。では、まずはお勉強を始める前に、濡れているお召し物と御髪を綺麗にしましょう。スイ様、申し訳ございませんが、お嬢様のお召し物の交換と御髪のお手入れをお手伝い願えませんか」
「了解致しました、アン先生。私はお嬢様のお召し物の交換を担当させて頂きます」
姿勢を正して一礼すると、スイはクローゼットに向かった。
アンはそれを確認するとアリアの顔を正面から見据えた後、視線を下げてアリアの胸元に移した。
アリアもその視線を追い視線を下げると、水を含み色が変わったワンピースの襟元から胸元が見えた。
「・・・あはは!・・・。ごめんなさい」
ようやく、怒られた原因が判明し、思わず誤魔化すために笑ったが、アンに冷たい視線を返されたので、本気で謝った。
ふぅ、呆れてため息を吐いた後、アンはアリアに口を開いた。
「お嬢様、お転婆も宜しいですが、そろそろ淑女としての慎みも学び下さい」
そう諭した後、アンが徐にアリアの頭に手を伸ばした。
アリアは、ぎゅっと目を閉じた。
そして、アリアの頭に想定とは違う優しい感触がした。
恐る恐る目を開けると、穏やかに微笑むアンの顔が眼前にあった。
「ですが、自分の非を認め、素直に謝れるお嬢様は、うわべだけの貴族とは違いとても立派な本物の貴族のご令嬢ですよ。良く出来ましたね、アリアお嬢様」
また怒られると目を瞑ったアリアは、アンにそう褒められて驚きながらも嬉しさで微笑みを浮かべた。
そして、気持ち良く頭を撫でられていると、スイが着替えとタオルを持ってアリア達を微笑んで見守っていることに気付いた。
スイはアリアに気付くと、ニコッと笑った後アンに声を掛けた。
「アン先生、準備が整いました。こちらのタオルをお使いください」
「ありがとうございます。では、使わせて頂きます」
アンはタオルを受け取ると、アリアに顔を向けた。
「お嬢様、お顔を失礼致します」
詫びを入れると、アリアの顔からメガネを外した。そして、スイがそれを確認すると素早くアリアの濡れたワンピースを脱がして、新しい空色のワンピースを着せていった。
その後、アンがアリアの髪をタオルで丁寧に拭いていった。
全てを整え終わった後、アンがアリアにメガネをかけていった。アリアは何度か指で位置を整え納まりの良い所を探し終えると、アンに顔を向けた。
「着替えも済みましたし、お勉強を始めますよ、お嬢様」
「はい、お願いします」
アリアが礼儀正しくアンに、頭を下げた。
そして、勉強を始めるためにアリアが机に向かおうとした。
「お嬢様、お待ちください」
しかし、アリアの背に静かなアンの制止の声が掛かった。
「?・・・お勉強なら机ですよね?」
振り返り、戸惑いが滲む声でアリアが訊ねた。
それに、アンが楽しそうな笑顔で答えた。
「はい、お嬢様。“普通”のお勉強でしたら机ですが、今からは“特別”授業ですので、こちらの広いスペースで行います」
「特別?何かありましたか?」
「あらあら、ふふふ。もうお忘れになられたのですか。先程申した通りに、今からはアン特別集中講義のお時間になります。さぁ、お嬢様。楽しく身嗜み、礼儀作法などご令嬢としての慎みを身に着け、今日もまた一歩、立派な淑女に成長しましょうね」
アンが更に笑みを深めて、逃げないようにアリアの肩を掴んだ。
機先を制され、部屋からの逃走に失敗したアリアは、最後の抵抗に無駄な足掻きを口にした。
「いや、わたくしは普通のお勉強がしたいです!!スイ、助けて!!」
スイに必死に助けも求めてみた。しかし、非情な答えが返ってくるのみであった。
「申し訳ございません、お嬢様。私は他のお仕事がございますので、この辺りで失礼させて頂きます。お嬢様、授業後に見違えたお姿を拝見出来ることを心より楽しみにしております。それではアン先生、お嬢様をどうぞよろしくお願い致します」
スイは深く深く頭を下げて大事な娘の成長を願いながら、泣きそうな顔でこちらに救いを求めるアリアをアンに任せて、庇護欲を掻き立ててくる心を鬼にして耐え、仕事へと戻っていった。
無情なドアがバタンと閉まると、アリアの嬉しくて楽しい素晴らしい授業が開始されたのであった。
二時間弱、みっちり徹底的に礼儀作法などを仕込まれたアリアは、やり切った自分を心から称賛した。
(よく頑張ったぞ、俺!)
最後の気力でそう心の中で褒め、机から見える遠くの景色を呆然と眺めながら、うわ言の様に徹夜明けのテンションで口を開いた。
「あはは。アン先生、わたくし今なら何でも出来そうな気がします!」
「その意気ですよ、お嬢様。さぁ、お勉強の折り返し地点です。残りの時間は、お嬢様のなさりたい語学の授業ですよ。たっぷり、時間が許す限りお勉強しましょうね!」
「わーい!わたくし、語学がダイスキ!」
空虚な視線で、机いっぱいに並べられていく“本”にアリアは視線を落とした。
そして、アンが昨日よりも大きいカバンから本を取り出し終えた瞬間、ドアがノックされスイが静かに部屋の中に入ってきた。
部屋に入ったスイはアリア達に一礼すると、午後のティータイムの用意をトレイに乗せて、アリア達の下にやってきた。
「失礼致します。一旦お勉強も落ち着いた事ですし、小休止にティータイムなど如何でしょうか、アン先生」
まるでアリア達の様子を近くで窺っていたかの如く、計ったように部屋に入りアンにそう提案した。
そして、アリアを一瞥し、スイが再び口を開いた。
「アリア嬢様も楽しそうにお外をご覧になっておりますので、ここは一旦休憩なされた方がよろしいかと思いますが、如何なさいましょうか」
控えめにスイが、暗にこれ以上はアリアの限界だと示した。
それに、はっと気づかされたアンは、申し訳なさそうにスイに答えた。
「そうですね。お嬢様も随分とお疲れの様相ですので、ここで休憩とします。スイ様、よろしくお願い致します」
「畏まりました。では、直ちに用意を致します」
そう答えると、スイが勉強机の空いたスペースにソーサーと本日のスイーツのクレープを並べていった。そして、ティーカップに紅茶を注ぎ入れるとソーサーの上に丁寧に乗せた。
アリアはスイとアンの会話に敏感な反応を示すと、椅子の上で素早く姿勢を正し行儀の良い格好となった。そして、視線を目の前に置かれたクレープといつも通りのミルクたっぷりの紅茶に落とした。
クレープの甘い香りと紅茶の芳醇な香りにうっとりと頬を緩めて見つめるアリアに、スイとアンが微笑ましく笑い、やっぱり休憩を入れてよかったと心の底から思っていた。
もう先程の疲れもどこへやら、はつらつとした笑顔でアリアがスイを見上げる。
「今日のおやつは、クレープなんですね。・・・食べてもいいかしら」
アリアの生き生きとした笑顔にスイとアンがくすりと笑いを零すと、待ちきれないといった様子で見上げるアリアに優しく答えた。
「はい、どうぞお召し上がりください、お嬢様」
「ありがとう!では、頂きます!」
そう答えると、次の瞬間にはフォークとナイフを持ちクレープを切り分けていた。
一口サイズに切り分けたクレープをじっと眺めた後に、口に運んだ。途端に、顔が華やぐ。幸せ溢れる味わいに笑みを浮かべ、クレープを頬張る。
(やっぱり、疲れた脳には甘いものだろう!堪らん!!最っ高!!!)
心中でも幸せを爆発させ、止まることなくクレープを口に運ぶ。
「ああ、美味しいです。幸せです!」
幸せが心中だけに留まらず口からも零れていった。
アリアは三分の二程を食べ終えた所で、一旦甘みを抑えるために紅茶を一口含んだ。
すると、口に中の甘さが紅茶の渋みと相まって、落ち着いた風味を醸し出していった。
ほっと息を吐き、ようやく視線をクレープから上げ正面に向けた。
スイとアンが微笑ましく笑みを浮かべ、温かくアリアを見つめていた。
「やはり休憩にして正解でした。こんなにも幸せ溢れるお嬢様をお目に出来るなんて、いつ以来でしょうか。こちらまで幸せで胸が一杯になりそうです」
「そうですね、アン先生。メイド長はこんなにも愛くるしいお嬢様を昨日、お目にしていたのですね。お使いから帰ってきたら仕返しに、今日のお姿を沢山自慢して差し上げなくてはいけませんね。悔しがる姿が目に浮かびます。うふふ」
「・・・・・」
目の前のクレープに子供の様に夢中になっていた自分の失態に気付き、恥ずかしくなった。
しかし、先程の特別授業でご令嬢は常に余裕を持って振舞えと心構えを説かれたアリアは、自分では余裕ある優雅な雰囲気で紅茶に口をつけ軽く啜った。
(俺はもうさっきまでの俺ではない。余裕ある優美な淑女。今の俺にこそふさわしい言葉だな)
動揺と恥ずかしさでティーカップが微かにカチカチと鳴っていることに一切気づけずに、アリアは無駄に淑女ロールを演じ切っていた。
スイとアンはそれを見て更に微笑ましい気持ちになり、指摘せずに自信満々な姿のアリアを優しく見守った。
その後は、完璧な淑女を演じていると思い込むアリアと、その可愛らしい姿を愛でるスイとアンの3人は、何事も無く穏やかな一時を過ごしていった。




