第37話:病みそうな姉と、せつねえとは言わせない姉
アリアは、自然に溢れ出る笑顔を浮かべて隣をちらりと確認する。
昨日の朝とは違い、自分に好意を寄せてくれる人がいる。それだけで、心が弾み嬉しくなった。
朝の廊下は昨日よりも色彩が豊かに見え、窓のから覗く庭の景観もまた柔らかな顔色を浮かべた草花が踊っているように見えた。
アリアは今の弾んだ気持ちに乗り、思い切って隣で歩くフウに声を掛けてみた。
「フウ・・お姉ちゃんは、なんでわたくしをヒメちゃんと呼ぶのでしょうか?それならば、アリアちゃんでもいい気がするのですが、何か訳があるのですか?」
アリアから訊かれ、フウは少し思案するとアリアに顔を向けて、今の思いを正確に伝えようと口を開いていった。
「気分を悪くしてしまうかもしれませんが、私はアリアお嬢様が好きではありませんでした。こうして、ヒメちゃんと今一緒にいるなど昔の私では考え得ないことでした。私達を虐めていたアリアお嬢様のことは今も許せませんし、慕う事も出来ないと思います」
フウからの拒絶が強くアリアに襲い掛かる。
(聞くべきではなかった)
その思いがアリアの胸に沸き起こり、目の前の色彩が一瞬で色褪せたものとなっていった。更に、後悔と同時に悲しさがアリアの心に浮かんだ。
前のアリアの残した傷がフウを苛み、苦しめ、それが怨みとなって根深く残っていることが、フウの言葉から強く伝わった。
後悔は最初の一瞬だけで、後は悲しみだけがアリアの胸に残り続け、フウを見ることが出来ず、俯いていった。
フウはそんなアリアを横目で確認しながら続きを語っていった。
「でも、ヒメちゃんは違います。・・・アリアお嬢様と同じように、お嬢様を虐めた私達を庇って受け入れてくれました。そして、その時から私は今のお嬢様に身を捧げて尽くすと決めました。お嬢様は私達から見たら、お姫様の様に美しく輝いて見えます。だから、私はアリアお嬢様とは隔絶した今のお嬢様を姫と呼ぶことに決めました。この様な理由になりますが、お許しになって下さいますか、お嬢様」
アリアは落としかけた視線を上げフウに向けた。そして、その話を何度も咀嚼して腑に落ち切るまで味わうと、アリアはフウに顔を向けたまま大きく首を横に振った。
「いいえ、いいえ、フウの気持ちの否定などわたくしには出来ません。勿論、許しますよ、フウお姉ちゃん」
一時落ち込んだ気分が、フウの“今の”アリアを認めてくれた気持ちに弾み上がるように上がった。
初めて“前からの”ではなくて、明確に“今の”自分を受け入れてくれたフウに、アリアは抱き着き満面の笑みを向けた。
「フウお姉ちゃんが初めてです!わたくしをやっと認めて、アリアではなくわたくしを慕ってくれました!ありがとう、フウお姉ちゃん!」
フウを喜び溢れる笑顔で抱しめた。
「ヒメちゃん、おねえちゃんもありがとうだよ。ヒメちゃんはやっぱりアリアお嬢様とは、違うんだね。だから、おねえちゃんは、ヒメちゃんが大好きだし、心から許せるんだよ」
フウもアリアを遠慮なく抱き締めた。
「フウお姉ちゃん、大好きですよ!」
薄っすらと涙を瞳に浮かべて、心が満ち足りた思いでフウに笑顔を向けた。
そして、フウの胸に顔を埋め、その温もりと確かに聞こえるフウの優しい音色にアリアは目を細めた。
フウはそんなアリアを胸に抱きながらニコリと微笑むと、そっと伝えた。
「ヒメちゃんはお姉ちゃんにとって、掛け替えの無い大切な妹なんだからね」
「はい、フウお姉ちゃん」
アリアは、嬉しそうに微笑んで頷いた。
「だからね、ヒメちゃん」
フウは、アリアに笑顔で静かに告げた。
「誰にも渡さないからね。お姉ちゃんがずっと傍にいてあげるし、男なんて一切近づかないようにセツと一緒に守ってあげるから。そして、セツと一緒におねえちゃんの愛をたっぷりと、注いであげるからね、ヒメちゃん」
ニコニコと無邪気な笑みを浮かべて、またアリアをゆっくりと大切に全身を抱き締めるように、包み込んでいった。
(え!?)
笑顔を忘れたように真剣な表情でアリアは、フウを見つめ続けた。
背筋をぞくぞくと冷やしながら、アリアは廊下を進みとうとう食堂前のドアに着いた。
道中、どこかのひぐらしが鳴く村やナイスなボートの映像が脳裏に浮かんだが、すぐに消して、俺は違うはずと心で呟きながら廊下を進んでいった。そして、こういう時に限り、廊下で誰にも会わずに、フウと2人で静かな廊下を歩んできた。
食堂の前に立つと謎の安心感が全身を包み込んだ。
ふぅ~と長めの息を吐き、隣のフウを見てからゆっくりとドアを開けていった。
ドアの向こう側には、煌びやかな光景はなく、落ち着いた雰囲気の上品な趣のある食堂が昨日と同じく広がっていた。
正面にある大きな窓から雄大な山々の姿や昨日は気付かなかったが山のすそ野に広がる湖が遠くに見えた。
美しい一枚絵の景観に我を忘れて眺めていると、フウがアリアに控えめな声を掛けた。
「ヒメちゃん、どうしたの?早く行かないと、ご飯が冷めちゃうよ」
「フウお姉ちゃん、ごめんね。やっぱりここからの眺めが素晴らしいものだから、ついつい夢中で眺めてしまいました。それに今日はまた一段と特別に、美しく見えたものだから、夢中になってしまいました」
フウにニコリと微笑んでから、テーブルに向かった。
そして、向かう途中に自分の席の傍に執事長のジェームズとフウに顔貌がよく似た少女が控えているのが目に入った。
少女はフウとは違い、髪を肩の高さぐらいで切りそろえたセミロング姿で、快活そうな雰囲気のある少女であった。
若草色の髪を額で分けて表情を見えやすくしており、黄色い瞳からは明るさを感じられた。
アリアはその少女を見た瞬間、緊張感を突如覚えて少しだけ足が重くなったように感じられた。
表情に緊張感が漏れ出ないように無難な笑みを浮かべてテーブルまで向かい、そして、ジェームズに椅子を引いてもらい席に着いた。
ジェームズは、アリアが席に着いた事を確認すると、一礼して厨房へと消えていった。
アリアはフウの時を思い出し、また嫌がられるのではないかと恐怖心を抱いた。そして、臆病な自分が視線を正面へと向けさせる。すると、向かいの席に昨日まではなかった椅子が2脚置かれていた。
どういうことかとシオンに訊こうと思い後ろを振り返った。しかし、振り返ってから今日はシオンとではなく、フウと一緒に食堂に来たことを思い出した。
振り向いた先では、たぶんフウの妹のセツと心配そうにアリアとセツを見つめているフウの姿があった。
セツはアリアを観察するようにじっと静かに見ていた。
アリアの背中に、妙な汗が流れるのが分かった。
アリアはフウの時のように無様な姿は見せないと、強く自分の竦む心を見つめ返した。
(これからもきっとアリアは、多くの人に軽蔑され避けられるよな。前のアリアが行ってきたことを考えれば、それは必然だし、怒り、怯え、蔑み、嫌悪などの視線を向けられることも避けられないよな。その度に、心が痛くなるし、逃げ出してしまいたくもなるだろうが、俺は耐えなくちゃいけない。もうアリアになったんだから、悪役令嬢の宿命として、向かい合わなくちゃいけないんだから)
思わず出来るのか、と問いかける弱音が顔に出てしまいそうになり、アリアはその弱さに嫌気がした。
しかし、それも自分なんだと怖くも悲しくも精一杯の気力で受け入れようと心に決めた。
いつの間にか落ちていた視線をセツとフウに向けた。
アリアは、恐怖で竦み上がりそうになりながらも、懸命にセツに声を掛けていった。
「セツ、さん?」
「はい、お嬢様」
感情の伴わない素っ気ない返事がアリアに届いた。それでも、さっきみたいに負けないと、なけなしの勇気を絞って絞って絞り出して、セツに踏み込んだ。
「今までの事を許してください」
アリアは後でジェームズに謝ろうと心に決めて、椅子から立ち上がりセツの前に膝を突いて床に頭を下げた。
「きっと、調子が良すぎるとお思いになっていますよね。今までのわたくしが行ってきた横暴で身勝手で冷酷な仕打ちに対して、怒りと憎しみを抱いていると思います。セツ、もし怒りが収まらないであるならば、どうぞわたくしの身体で晴らしてください。わたくしはセツに何をされても文句は言いません。それ程の酷い仕打ちをしてきたのですから。そして、その暁に少しでも鬱憤が晴れたのならば、どうぞその時にでもわたくしをお許しください」
アリアは、セツに深く深く頭を下げた。それと同時に、どんな仕打ちを受けるのかと恐怖で全身が震えてしまった。
(耐えろ。これじゃ、同情を誘っているみたいじゃないか。同情で許してもらっても何にもならない。本当に心から許してもらわないといけないんだから。お願いだから、耐えてくれ)
アリアの訴えも空しく、恐怖に慄く身体は一切を無視した。
歯をカチカチと打ち鳴らしつつも必死に恐怖に耐えるアリアへと、セツが一歩踏み出した。その足音はアリアにも聞こえた。
その瞬間、びくっと身体が一度だけ震える。
アリアの身体が緊張で強張った。
セツはアリアの前に立つとゆっくりと膝を折り屈んだ。そして、探るような視線でアリアの全身を確かめていった。
フウは、突然アリアが床に膝を突いて頭を下げたことに驚愕し、ただ忙しなく視線を厨房とアリア達に行き来させることしか出来なかった。
セツはアリアの全身を鋭い視線で隈なく確認し終えると、途端に慌てふためき出した。
アリアの悪意ある企みではなく、本当にアリアが自分に謝っていると気付き、どうしたら良いかが分からなくなってしまったのだ。
(え!え!昨日の事は本当だったの!?あの我儘なお嬢様が、人が変わったように急にしおらしくなったあれは錯覚じゃなかったの。どど、どうすればいいの!!お嬢様に頭を下げさせているなんて、他に知られたら私が大変なことになるし、こんな幼気な少女の謝意を疑うなんて最低な人間だよ)
混乱の絶頂にあるセツは、助けを求めて姉を仰いだ。
「フウねえ、どど、どうすればいいの?」
フウは可愛い妹の“1人”に助けを求められた途端に、今までの狼狽が消え去った。
頭の中を瞬時に冷静な状態に落ち着かせたフウが、アリアとセツと同じように床に屈むとセツの困り果てて泣き出しそうな顔に視線を合わせた。
「セッちゃん落ち着いて。先ずは、お嬢様に謝ることから始めましょう。お嬢様、どうかお顔をお上げくださいませんか」
2人の会話を聞いていたアリアがフウの声に反応して、ゆっくりと顔を上げてセツとフウの顔を窺うように見た。
すると、今度はセツとフウがアリアと同じように床に膝と両手を突いて頭を下げた。
「お嬢様、どうか妹の非礼をお許しください」
「申し訳ございません。お嬢様を疑うような真似をしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
その謝罪に一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を和らげゆっくりと語りかけた。
「お二人とも顔を上げて下さい」
『はい、お嬢様』
「フウとセツ、お二人がわたくしに謝る必要など全くありませんよ。セツがわたくしを疑うことは尤もです。それ程の事をわたくしは、皆に行ってきました。わたくしの過ちのせいで、皆に傷を負わせてしまった事も昨日から理解しています。非礼を詫び、許しを得て、もう一度、心からの信頼関係を結ぶことは、今はまだ難しいですよね。疑いとはそう簡単には消えません」
一旦言葉を切ると、寂しげに微笑み目を伏せた。それから、すぐに顔を上げると2人を正面に見据えて続きを語っていった。
「ですが、どうか疑いが薄まり、もう一度わたくしを許し真に信じられることが出来ましたら心の一片でも構いません、わたくしをその一片で受け入れて頂けませんか。時間は掛かると思いますが、それでもお願い致します」
アリアは、後ろ向きではなく前に進もうとフウとセツに切に願った。
そして、その願いが届いたのか、セツが微かに綻んだ表情でアリアに声を掛けた。
「分かりました、お嬢様。顔を上げて下さい」
「はい」
顔を上げたアリアにもう一度、声に自分の思いを乗せて語った。
「私はまだお嬢様を心から信頼できませんが、宜しいでしょうか?」
「はい結構です!まだという事は、信頼して下さる可能性が残されていますものね!わたくしは、ずっとセツを信じて待ちます。都合が良いと憤りを抱くかも知れませんが、待つしか出来ません。誠心誠意、わたくしは変わったと皆に示していきます。そして、いつの日か、わたくしに笑みを見せてくれる日を待ち続けたいと思います」
アリアはセツの気持ちをしっかりと胸で受け止めて、それにはっきりと答えを返した。そして、セツを見据えた。
(悪役令嬢には愛嬌なんて無理だから、度胸で挑むしかない)
腹を括ったアリアは、セツの手を両手で包み込んでから見上げて声を掛けた。
「セツ、“まだ”と少しだけでもわたくしを信頼できる可能性を示して下さりありがとうございます。その期待に添えるように、負けずに頑張っていきますね」
やっぱり愛嬌も使うかと、アリアは今できる最高の笑顔でセツに微笑んで話を締めくくった。
セツは一瞬呆けた後、清々しい表情を浮かべた。
「お嬢様、お変わりになりましたね」
そう伝えた後、すぐに表情を改めて、セツは勢いよくアリアに頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢様。実は、フウねえがお嬢様と親しくしている時点で、殆ど疑いが消えていました。ですが、どうしても消えずに残った部分を消すために、嫌味のように言わせてもらいました。お嬢様、申し訳ございませんでした」
アリアは微笑むと、セツに優しく声を掛けた。
「良いですよ、セツ。お気になさらないで下さい」
柔和に表情を綻ばせたまま、上がったセツの顔を見つめて続きを語っていった。
「セツが、まだわたくしをお疑いになるのでしたら、躊躇わずにどんどん試してください。わたくしは、その全てに応えて見せますよ。ふふ」
アリアは悪戯っ子のようにセツに笑いかけた。
セツがそれに困った顔を浮かべて降参した。
「いや、お嬢様、その。もう許してください」
「はい、許しますよ。ですが、お嬢様とは呼ばずに、フウお姉ちゃんみたいに砕けた愛称でお呼びください。折角、フウお姉ちゃんとセツお姉ちゃんと姉妹になれたのですから、妹のわたくしだけ、堅苦しく呼ばれると寂しく感じてしまいます。セツお姉ちゃん、わたくしをどうか本当の妹にしてください」
アリアはそうお願いすると、切なげな瞳でセツを見上げた。
「え!!」
セツは驚きを上げた後、フウに振り返り不満も露わに口を開いた。
「フウねえ!!今までこんなに可愛いお嬢様と一緒にいたの!!ずるいよ!!」
そして、頬を膨らませた可愛い怒り顔をフウに向けた。
フウは、セツに不満を訴えられているのにも関わらず、怒った顔のセッちゃん可愛いと、内心で可愛さにやられて転げ回っていた。
セツはそんなフウへの抗議(フウにとってはご褒美)を終えると、アリアに気恥ずかしそうな顔を向けた。
「お嬢様、と、とと、ヒメ。フウねえだけじゃなくて私とも仲良くしてね。あと、セツねえだけはちょっと呼ばないでくれると嬉しいかな」
「ふふ、分かりました。セツねえ、あっと、間違えました。セツお姉ちゃん、アリアをこれからよろしくお願いしますね」
冗談を交えて、明るく和やかな雰囲気でアリアがセツに声を掛けた。
「ちょっと、ヒメ」
アリアの冗談に笑ってセツが返した。そして、可笑しそうに笑って声を掛けた。
「もう、ホント悪戯好きな妹ね、ヒメは!」
ふぅ~~~っと、盛大なため息を吐いてみせてから、アリアを抱き締めた。
思わぬセツからの抱擁に、アリアは目を白黒とさせてセツを見上げた。
セツはそんなアリアに気付かずに、ついつい心の内から言葉を零していた。
「ヒメはちゃんと温かいんだね」
見上げるセツは、心の底から安堵した表情でアリアを見つめていた。
アリアは、心を落ち着かせると微笑んで静かに呟いた。
「そうですよ。わたくしは、もう冷たくはないんですよ、セツお姉ちゃん」
アリアの答えに、セツが驚き、そして綻ぶと、アリアを抱き締めて頷いた。アリアは、そんなセツに身を委ねて、優しく微笑んだ。
そうして、暫く2人の世界に浸っていると、唐突に横合いから咳払いが聞こえた。
アリアとセツがそちらに顔を向けると、にこやかに微笑んだフウがいた。
「楽しそうだね、ヒメちゃんとセッちゃん」
毒がふんだんに混じった言葉がフウの三日月の口元から発せられた。
「ぴゃっ!?」
今までで聞いたこともない言葉がアリアの口から上がった。
「う!?」
呻くセツは、もう全てを諦めてフウを見上げた。
フウは2人を静かに数秒間見据えた後、突然アリアの背中側から2人に抱き着いた。
「お姉ちゃんを仲間外れにするなんていけない妹たちね!お姉ちゃん、グレちゃいますよ!」
1人放って置かれた寂しさ分、アリアとセツを思いっきり抱き締めた。
寂しがり屋なフウにアリアとセツは、「お姉ちゃん、ごめんね」と謝った。
そして、暫くすると3人の中から誰が初めかは分からないが、楽しい笑い声が零れだした。
3姉妹は、互いの顔を見合って楽しそうに笑い合っていった。




