⑧建物に寄り添う犬
セミの抜け殻みたいな建物。
二階建ての一軒家で、外壁はところどころ剥がれて、下地の色がまだらに露出している。
窓ガラスはすべて割れているものと、ひびが入っているままのものが混ざっている。
ガラスが抜け落ちてしまっている窓枠が、風のたびにわずかに軋む。
敷地の入口には、横に引くタイプの門。錆びが浮いたそれは、片側が外れかけていて、斜めに傾いたまま止まっている。
レールには、砂と枯れ葉がびっしりと詰まっている。
門の内側、庭は手入れの形を失っている。
背の高さを越える草と、地面を這う草が絡まり合って、土の見える場所がほとんどない。
門から建物の玄関に続く飛び石も、草に覆われていて、どこにあるのかわからなくなっている。
端の方に、コンクリートの流し台。
蛇口が錆びていて、口の先に乾いた水の跡が白く固まっている。
その下のシンクには、へこんだブリキのバケツが転がっている。
底に穴が開いていて、水を溜めることはできない。
建物の脇には、車を止めるためのスペース。
コンクリートが苔に覆われていて、ポリカーボネート製の屋根のカーポートは骨組みだけが残っていて、その上にあったはずの半透明の屋根は、すべて落ちている。
割れた板が、地面に散らばっている。
その隅に、一匹の犬がいた。
首輪はつけているが、彼を繋ぐリードはないから、どこにでも行けるはずなのに、彼はそこから動かない。
風が流れてくると、クンクンと鼻を鳴らす。
顔を上げて匂いをかぎ、しばらくそのままでいる。
やがてゆっくりと頭を戻す。
口を開けて、小さく欠伸をする。
舌を出して、すぐに引っ込める。
一度、前足を崩してから、また揃え直す。
たまに伏せをして、自分の前足に顎をのせる。
足を組み直す。
座り直すたびに、門の方へ視線を向けて、すぐに外して、また同じ場所を見る。
風が吹く。
それが、窓や扉を失った建物を通り抜けて、ひゅーっと音を立てる。
犬はその音のたびに、耳をピクピクと動かして、片耳の向きを変えて、その音を聞く。
建物の前のアスファルトのひび割れから、顔を出している雑草も、その風に揺れている。
カツ……カツ……カツ。
アスファルトを踏む音が近づいてきて、犬がそちらを見る。
視線の先、男が歩いてくる。
その歩みはゆっくりで、足を止めかけて、また一歩だけ出す。
また足を止めて、一歩踏み出す。
中腰で、頭だけが先に動き、遅れて体が向きを変える。
キョロ、キョロ。
右を見て、左を見て、右を見て、もう一度、左を見る。
カチャ、カチャ。
肩から下げている物が、その動きに合わせてわずかに鳴る。
男は右手で握っているそれの上部を、左手でおさえる。
カツ……カツ、カツ。
歩幅が一定ではない。
一歩が長くなり、次が短くなる。
キョロ、キョロ、キョロ。
視線が落ち着かないまま、犬の方へ近づいてくる。
犬は動かない。
背筋を伸ばして、前足を揃えたまま、顔を向ける。
カチャ、カチャ、カチャ。
黒くてつやのあるそれが日の光を受けて、揺れに合わせて、角の一部が光る。
男の足が、止まる。
カツ。
半歩だけ、踏み出す。
カチャリ。
男が持ち上げたそれが、犬の方へ向く。先の縁が、光を拾って細く光る。
犬の口の端が、わずかに上がる。
歯が見える。
唇の内側が乾いた色をしている。
ウゥーと唸って、低い音が途切れずに続く。
男の腕がわずかに揺れて、すぐに固まる。
視線が一度逸れて、戻りきらずに、また外れる。
カチャ。
ほんの少しだけ、先端が下がる。
犬は目を逸らさない。
唸り声も途切れない。
間が空いて、男の喉仏が動く。
カツ。
足が、後ろに一歩下がる。
カチャ、カチャ。
肩から下げているそれが揺れて、音が出る。男はそれを押さえない。
カツ……カツ……カツ。
後ずさる。
少し離れて、向きを変えて、離れていく。
もう犬を振り返らずに、歩幅だけが少し速くなる。
タッ……タッ、タッ。
ブーツの音が遠ざかる。
犬はじっと動かずに、しばらくその方向を見ている。
同じ場所を見続けて、やがて、ゆっくりと視線を戻す。
太陽が、先ほどいた場所から少しだけ動いている。
空の高いところを、鳥が旋回している。
ぐるぐると。ぐるぐると。
光の当たり方が変わり、地面の影がずれる。
風の抜ける音だけが、建物の中を通っていく。
ひゅう、と細く鳴る。
犬の耳が、わずかに動く。
すぐに止まって、また同じ向きに戻る。
前足を揃えて、背筋を伸ばして、一度、まばたきをする。
もう一度する。
ゆっくりと、光の角度が変わっていき、建物の影が少しずつ伸びて、地面をなぞるように広がる。
アスファルトに伸びた影が、表面のひびに入り込む。
草の先だけに、光が残る。
空の色が、青から、薄く濁って、じわじわと端から順番に、オレンジに変わっていく。
犬は、ただ前を見ている。




