⑨声を出す男
部屋に、ひそひそと人の声が響いている。
それは、ひとつ、ひとつは、小さな声だけど、重なって、狭い空間に反響している。
低い天井に、太さの違う配管がむき出しのまま走っていて、頭を少し上げると当たりそうな高さに、電灯が鎖でぶら下がっている。
点いていないそれが、風もないのに、ときどき、揺れる。
天井も壁も、表面にひびが走っていて、触れるとざらつく。
割れ目に沿って、水がにじんで、ゆっくりと落ちていく。
ポタ、ポタ。
床は冷えていて、湿っているから触れると、貼りつくような感触が残る。
そんな床に人々が、膝を抱えて座っている。
隙間を詰めるように、背を丸めて、肩を寄せるようにして、隣の人に寄り添うように固まっている。
目を開けているのか、閉じているのかもわからないような、闇の中。
ときどき起きる布が擦れる音と、ひそひそと話す声だけが、動きを伝える。
誰も大きくは動かない。
息も潜めるように、浅く、短く、繰り返している。
ひとりの男が、闇を見つめている。
部屋の中にいる人たちは、肩が触れ合う距離で座っているのに、その男の周りだけ、前も横も、ぽっかりと隙間が空いていて、そこだけ、床の冷たさがそのまま残っている。
男は膝を開いて、あぐらで座っている。手も、太ももの上を滑って、止まって、また少し動く。
その手の指先が、かすかに震えている。
すう、はあ。
すう、はあ。
息は浅くて、胸が小さく上下して、肩が遅れて揺れる。
吸うたびに、喉の奥で空気が引っかかるような音が混ざる。
すう……はあ。
……すう、はあ。
呼吸の間隔も崩れている。
吸いきる前に吐き出して、次の吸い込みが少し強くなる。
それから、たまに、わずかに速くなる。
ポタ、ポタ。
壁のひびから落ちる水の音が、間を切る。
水が落ちる音が、同じ場所に落ちているはずなのに、響き方はわずかにずれている。
早く響いたり、遅く響いたり。
男のまばたきが止まる。
次の瞬間、顔だけが動く。
サッ。
音のした方に動いて、体は遅れてついてくる。
闇の一点を、じっと見続けるみたいに、焦点は合っていないけど、顔がそちらに向いている。
耳が、わずかに動く。
もう一度、ポタ、と音が落ちても、男はそのまま、動かない。
ひそひそ、ひそひそ。
人々の小さな声。
壁に当たって、少し遅れて返ってきて、重なって、闇の中だから、どこから聞こえているのか分からなくなる。
ギィィィ。
何かが軋んだ、長く引きずるような音がしばらく続いて、止まる。
すう、はあ。
すう、はあ。
男の息はやはり少し早い。
すう、はあ。
……すう、はあ。
「……おい」
小さな声が、空気を押し退けるように外へ出たけど、返事はない。
ひそひそは続く。
ポタポタも続く。
ギィィィと、どこかでまた鳴る。
男がカッと目を開く。
視線が、音を追いかけて、キョロキョロと動いて、止まらない。
すう、はあ。
すう……はあ。
不規則な呼吸が、途切れた。
ひそひそ、ひそひそ。
人々の声が、少し大きくなる。
「おい!」
押し出すみたいに、大きな声が壁に当たって、天井に跳ね返って、また壁に当たって、遅れて戻ってくる。
おい……おい……おい……。
残響が少しずつ薄くなりながら、空間に少し残って消える。
ひそひそも止まって、誰も動かずにカサカサという布の擦れる音もしなくなった。
ひそひそを失った闇。
ポタ。
また床に落ちる水の音。
ギィィィ。
遅れて、どこかがまた軋む。
その中で、男の不規則な呼吸だけさっきよりも少しだけ大きく、さらに速く続いている。
ポタ……ポタ。
水が床に当たるまでのわずかな時間で、前の音が遠くまで届く。
遅れて、ギィィィと長く引きずるみたいな何かの音が、途中で止まる。
カサ。
布がわずかに擦れて、すぐに止まる。
もう一度、カサと鳴って、動きを途中で切るみたいに短く終わる。
すう、はあ。
すう、はあ。
人の息づかいはどれも浅い。
誰かの息が、途中で引っかかってすぐに整え直される。
コツ。
固いものが床に落ちた、短い音。
その音に、カサカサ、と布がすれる音が、少しだけ長く鳴る。
それが広がって、壁に当たって、少し遅れて戻ってくる。
男が、ザッと向きを変えて、また、音がなくなる。
横たわる闇。
ポタポタ、ポタポタ。
水の音だけが、間を埋める。
さっきよりも大きく聞こえても、誰も動かない。
何も見えない闇を見つめたまま、男の口角が、少しだけ上がる。
すう……はあ。
……すう、はあ。
息が揃わないまま、重なる。




