④正しい配給所
外壁の白いコンクリートに、小さな穴がいくつも空いている。
丸く抉れた跡。縁が黒ずみ、内側が暗く沈んでいる。
穴のまわりに、細かいひびが走る。
糸みたいに細い線が、途中で枝分かれして、別のひびに絡む。
ひびの隙間に黒い汚れが溜まっていて、一部は崩れ、欠けた断面がむき出しになっている。
風が吹くたびに、欠けた縁が細い音を出し、白い粉がこぼれて、壁面に筋を作りながら落ちる。
入り口のシャッターは、波打つ金属が降ろされたまま、片側だけ持ち上げられてひしゃげて曲がり、フレームに食い込んだ端は、塗装がめくれ上がり、めくれた先が風に揺れてカタカタと音を出す。
人がひとり、背中を丸めてシャッターの縁を避けて、手に持ったものを落とさないように、中から出てくる。
肩が金属にかすかに触れて、カタンと音が鳴る。
隙間の手前で待っていた人が、出てきた人と入れ違いで、同じように体をかがめて、中に入る。
隙間の手前で、次の人が止まる。
止まる位置が、決まっているみたいに入って行った人がいたところと同じ場所で、足を揃える。
後ろに並んでいる列の人たちが、ひとり分だけ一歩前へ出る。
中から、もうひとり出てくる。同じ動き、同じ角度で身をかがめて、また、ひとり入る。
擦れる布の音。靴底が地面を叩く音。
ときどき、シャッターがカタンと鳴る。
それだけが、続く。
建物の中にも列ができている。
壁際に沿って置かれた金属ラックの棚板は抜け落ち、細い支柱の骨組みだけが残っている。
並んでいる人々が、それに触れるたびに、金属が小さく軋む。
足元に重なるように転がっている板は、端が欠けて、角がボロボロになっている。
踏まれた板が、わずかに浮いて、戻るときに他の板に当たり、カン、と乾いた音を出す。
床のタイルは、ところどころ剥げて、剥がれた部分のボンドが、黒く露出している。
粘り気を失ったそれがひび割れて、細かく裂けて、靴底が擦るたびに黒い粉を出す。
カツ、カツ。
タイルを踏んで、列が少し進む。
割れたタイルの細かい欠片が、踏み潰されて、白い粉になる。
白い粉と黒い粒が混ざって、剥がれていないタイルに、足の形を薄く残して、すぐに、次の足に踏まれて形を崩す。
ガサガサ、ガサガサ。
人は空いた分だけ、間を埋めて前に詰める。
動いて、止まる。
動いて、止まる。
止まった瞬間だけ音が消えて、すぐに次の一歩で音が戻って、後ろの人のコートの裾が前の人のふくらはぎに触れる。
壁の一角の窓だった場所に、板が打ち付けられている。何枚も重ねられた板の縁が少しずつずれて、釘の頭がところどころ浮いている。
そんな板と板の隙間や、割れかけた木目から、光が白い筋となって差し込んでいる。
壁に大きくできた裂け目から、垂れるように飛び出した茶色い断熱材の繊維がほどけて、空気の動きに合わせて、光を反射しながら舞っている。
部屋の中央。
本来ラックが背中合わせに並んでいた場所に、大きなテーブルが置かれている。
使い込まれた天板。細かい傷が重なり、ところどころ色が剥げて、丸く削れているところが、触れられてきた回数を残している。
その上に、ペットボトルと缶詰。
整列はしていない。缶に貼られているラベルの向きも不揃いで、間が空いたり、詰まったりして並ぶ。
どの缶にも、表面に細かい傷がいくつもあって、光が当たる場所にある物はそこが鈍く光っている。
掴まれたペットボトルの中の水が揺れて、持ち上げられて、テーブルに隙間ができる。
また、すぐに手が伸びる。
腕の影がテーブルの上に落ちて、その人の近くから、またひとつずつ消えていく。
それを取った人が、列の先頭の人に渡して、相手が掴む。
そのまま、すぐには離さずに、指先が止まる。
受け取る人が持っているカードを確認して、渡す人の側に座っている人が書類と照合する。
座っている人がうなずくと、渡す人が手を離す。
受け取る手。
離れる手。
それらは重ならないし、ほんの数センチの間を残したまま、物だけが渡って、人が変わっても、同じ長さの間が何度も繰り返される。
手が出て、止まって、離れる。
止まる時間は、どれもほとんど同じで、ずれないで流れるから、次の手も同じところで止まる。
そして、離れる。
目は合わせない。
視線は、手元か、テーブルの上。
口元は、何かを言いかけてやめたような形で止まっていて、白い息だけがそこから出る。
受け取った人は、すぐに出口へ向かう列に並ぶ。
動く方向が変わるだけで、流れは変わらない。
列の先頭が、身をかがめて外へ出ると、シャッターが小さな音を出して、別の人が入ってくる。
入る、進む、物を受け取る。
向きを変えて、進む、出る。
列の動きは変わらないけど、渡す側の手が少し止まる。
そのまま、動かない。
列の人たちも動かない。
受け取る側の手も、出ない。
それから、また動き出す。
テーブルの上の隙間だけさっきよりも少し広い。
入る、進む……物を受け取る。
向きを変えて、進む……出る。
それだけが繰り返されて、受け取った人が、短く息を吐く白い息が前の人の背中に触れる手前で薄く広がる。
その動きを、まだ受け取っていない人の列の視線が追って、流れの行き先を確かめるみたいにすぐに戻る。
また、前の背中へ。
前の背中が近い、白い息だけが、同じ高さで何度も途切れて、また吐き出される。
一瞬だけ、テーブルの上に何もない場所ができて、渡す人の手がほんのわずかに泳ぐ。
空いた場所をなぞるみたいに動いて、触れずに止まって、それから、少し遅れて、ペットボトルに触れると、また同じ動きに戻る。
列の人たちは、ただ、前の人の背中を見ながら進む。
手が止まったことを誰も見ていないから、少し止まったりしても、それは変わらない。
女の人が、身をかがめて入ってくる。縁すれすれを通って、肩が触れて、シャッターが小さく鳴る。
その腕に抱えている物が、もぞもぞと動く。
次の瞬間、そこから声が出て、細い泣き声が室内に広がる。
高く響いて、たまに途切れて、また響いて、室内の壁や天井に当たって、戻ってくる。
並んでいる数人の肩がかすかに跳ねて、腕や足が金属ラックの骨組みに触れる。
カタカタと金属ラックが震えても、赤ん坊の声は消えない。
響いて、途切れて、また響く。
カツ、カツ、カツ。
少し空気が乱されても、足先の向きも、間隔も変わらない。
進んで、止まる、進んで。
……止まる。
つっかえて、前の人の足を少し蹴りかける。
女の人が、抱えている赤ん坊の体を胸のほうへ引き寄せて、小さく身をかがめて、赤ん坊の体が胸の中で丸まる。
顔が、赤ん坊に近づいて、頬と頬が触れる距離で止まった。
「ごめんね」
女の人の唇が動く。
赤ん坊の泣き声が、その声に重なって、少し強くなって途切れる。
空気に乗らなかった女の人の声は、白い息だけがその形をなぞって、口元の近くで消える。
カツ、カツ……カツ。
誰かが少しだけ遅れて、列がまた進む。
その動きに合わせて、女の人も赤ん坊を抱えたまま、同じ幅で、同じ速さで、前へ出る。
泣き声だけが、足音に削られながら、響いていた。




