①倒れた男の黒い靴
灰色の空へと白い息が、せりあがるようにのぼっていく。
駅前のロータリーは、人で埋まっていて、誰もが同じ方向に流れている。
行き先は、地面に口を開けた地下鉄の入り口。
しゃべることを忘れたみたいなそれに、人々が次々に飲まれていったけど、咀嚼音は聞こえない。
その口を囲むように、小さなロータリーがあって、わずかな植え込みと、色の剥げかけたガードレール。
塗装が剥げたところの茶色いサビが、白を侵食する。
バスもタクシーも停まっていないロータリーの外側には、いくつかの店が並んでいる。
だけど、ハンバーガー屋も、パン屋も、クリーニング屋も、今はシャッターが降りていて、そのシャッターに休業を知らせる張り紙が貼られている。
風が吹くたびにその紙がバサバサと震えて、シャッターを叩く。
ロータリーの角に立っている背の高いマンション。
規則正しく並んだ窓には、いくつかにだけ生活の色が灯っているけど、取り残されたみたいなそれを、見上げる者はいない。
道にごった返した人々は、一定のリズムで歩道を、それから、ロータリーへと渡る擦り切れた横断歩道の上を歩く。
歩行者信号が青に変わるたびに、カツカツと靴音が鳴り、ざわざわと人が波のように動いた。
その流れの中で、ひとりの男がバサっと倒れた。
頭がアスファルトに叩きつけられたけど、もさもさの髪に守られたのか、額がざっくりと切れることはなかった。
ぐったりと動かなくなった男の、毛先がもつれた髪だけが、風に揺れる。
男が倒れたときに出た音に、近くを歩いていた何人かが、チラッとそちらを見たけど、視線はすぐに戻っていく。
カツ、カツ、カツ。
自分の向かう先へ。
そんな人の流れの中で、スーツの男が少しだけ歩くスピードを落とした。
倒れた男のボロボロのコートとは対照的な、仕立てのよいブランドのコートを、スーツの上に羽織った男。
顔がそちらに向いて、合わせるみたいに足先もそちらへ。
だけど、その視線の前を塞ぐみたいに人が横切って、つまずきかけたスーツの男がその場でちょっとタタラを踏む。
続けて、後ろから来た人と肩がぶつかってよろける。
男が体勢を直すために、少しできた隙間を埋めるように、人が割り込む。
スーツの男は視線を戻して、足の向きも元に戻した。
カツ、カツ、カツ。
足音だけが、同じ速さで流れていく。
倒れた男は動かない。
手袋をしていない、細く筋張っている手をアスファルトにつけているから、黒い地面の上に白く張り付いている霜が、男の手の周りの部分だけ、溶けた。
誰かの革靴が、その手前で角度を変える。
手を踏まないように、数センチだけ軌道をずらしたけど、倒れた男のコートの袖口を、踏む。
男を避けた人の体が、他の人に小さくぶつかって、流れに乱れが生じたけど、すぐに元に戻る。
マフラーに顔を埋めたまま、通り過ぎる人。
ポケットに手を入れたまま歩く人。
男の子が、耳にしているヘッドホンの位置を少しだけ動かす。
その人たちから吐き出される白い息が、いくつも重なって、まとまって、すぐに端からほどけながら、誰のものかも分からないままで空気に溶けていく。
置き捨てられている男は、瞳を閉じて、動かない。
若者のひとりが、ポケットからスマートフォンを取り出して、親指で画面をなぞって、背面に付いているレンズを倒れている男に向ける。
その若者も立ち止まらない。
人々の流れに合わせて、歩幅は変えないまま、体だけが少し後ろに傾く。
レンズが日の光をきらっと反射して、カシャ、カシャ、カシャとシャッターが切られる。
画面を見ながら、そのまま前へ押し流されるように、人の波に飲まれていく。
倒れている男の靴の底のゴムは、踵部分がひどく擦り減っていて、ささくれている。
避けて歩く人たちのひとりの足先が、靴に触れた。
カッと小さな音に合わせて、倒れた男の靴が、脱げる。
コロ、コロ、コロ。
地面の上を靴が転がれば、それも避けて人の波が割れる。
割れた先で、また避け切れなかった人の足がその靴に触れて、靴はまた転がる。
波を割る靴は、避け切れなかった誰かの足が弾くたびに、少しずつ、流れの外へと外れていく。
靴が男から遠ざかるたびに、だんだんと人の流れが薄くなって、さっきまで埋まっていたロータリーに、隙間が生まれた。
それでも、口を開けたままの地下への入り口に、パラパラと人が吸い込まれていく。
カツ、カツ……カツ。
階段を降りていく音が、小さく遠のいていくと、男のコートの裾に何かが鼻を近づけた。
クンクンと匂いを嗅ぐ。
細いリードに繋がれている首輪。
グイグイと、それを自分の首に少し食い込ませながら、前のめりになる犬。
「ダメよ」
老婆が、リードを引く。
だけど、犬は匂いを嗅ぐのをやめない。
グッと足で地面を蹴り、自分の倍はありそうな老婆のことを引っ張って、もう一歩、近づく。
地面に触れている倒れた男の冷えた指先に、犬の少し湿った鼻が押し当てられた。
それから、ぺろっと舌が触れる。
「やめなさい」
声に合わせて、老婆が強くリードを引く。
それでも犬は、もう一度だけ、男の手に鼻を寄せた。
カサカサな男の細い手と、黒くてツヤッとした犬の鼻。
ひゅーっと、風が吹く。
それを見るみたいに犬が顔を上げて、老婆のリードに導かれて、歩き出す。
カチカチ、カチ。
青信号が点滅する。
カツカツ、カツ。
人々がアスファルトを踏みつける。
犬だけが、ちょっと男を振り返った。
コロコロ。
蹴られた靴が、また転がる。




