表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

①倒れた男の黒い靴

灰色の空へと白い息が、せりあがるようにのぼっていく。


駅前のロータリーは、人で埋まっていて、誰もが同じ方向に流れている。

行き先は、地面に口を開けた地下鉄の入り口。

しゃべることを忘れたみたいなそれに、人々が次々に飲まれていったけど、咀嚼音は聞こえない。


その口を囲むように、小さなロータリーがあって、わずかな植え込みと、色の剥げかけたガードレール。

塗装が剥げたところの茶色いサビが、白を侵食する。


バスもタクシーも停まっていないロータリーの外側には、いくつかの店が並んでいる。

だけど、ハンバーガー屋も、パン屋も、クリーニング屋も、今はシャッターが降りていて、そのシャッターに休業を知らせる張り紙が貼られている。

風が吹くたびにその紙がバサバサと震えて、シャッターを叩く。


ロータリーの角に立っている背の高いマンション。

規則正しく並んだ窓には、いくつかにだけ生活の色が灯っているけど、取り残されたみたいなそれを、見上げる者はいない。


道にごった返した人々は、一定のリズムで歩道を、それから、ロータリーへと渡る擦り切れた横断歩道の上を歩く。

歩行者信号が青に変わるたびに、カツカツと靴音が鳴り、ざわざわと人が波のように動いた。


その流れの中で、ひとりの男がバサっと倒れた。


頭がアスファルトに叩きつけられたけど、もさもさの髪に守られたのか、額がざっくりと切れることはなかった。

ぐったりと動かなくなった男の、毛先がもつれた髪だけが、風に揺れる。


男が倒れたときに出た音に、近くを歩いていた何人かが、チラッとそちらを見たけど、視線はすぐに戻っていく。


カツ、カツ、カツ。


自分の向かう先へ。


そんな人の流れの中で、スーツの男が少しだけ歩くスピードを落とした。

倒れた男のボロボロのコートとは対照的な、仕立てのよいブランドのコートを、スーツの上に羽織った男。

顔がそちらに向いて、合わせるみたいに足先もそちらへ。


だけど、その視線の前を塞ぐみたいに人が横切って、つまずきかけたスーツの男がその場でちょっとタタラを踏む。

続けて、後ろから来た人と肩がぶつかってよろける。

男が体勢を直すために、少しできた隙間を埋めるように、人が割り込む。


スーツの男は視線を戻して、足の向きも元に戻した。


カツ、カツ、カツ。


足音だけが、同じ速さで流れていく。


倒れた男は動かない。


手袋をしていない、細く筋張っている手をアスファルトにつけているから、黒い地面の上に白く張り付いている霜が、男の手の周りの部分だけ、溶けた。


誰かの革靴が、その手前で角度を変える。

手を踏まないように、数センチだけ軌道をずらしたけど、倒れた男のコートの袖口を、踏む。

男を避けた人の体が、他の人に小さくぶつかって、流れに乱れが生じたけど、すぐに元に戻る。


マフラーに顔を埋めたまま、通り過ぎる人。

ポケットに手を入れたまま歩く人。

男の子が、耳にしているヘッドホンの位置を少しだけ動かす。


その人たちから吐き出される白い息が、いくつも重なって、まとまって、すぐに端からほどけながら、誰のものかも分からないままで空気に溶けていく。


置き捨てられている男は、瞳を閉じて、動かない。


若者のひとりが、ポケットからスマートフォンを取り出して、親指で画面をなぞって、背面に付いているレンズを倒れている男に向ける。


その若者も立ち止まらない。


人々の流れに合わせて、歩幅は変えないまま、体だけが少し後ろに傾く。

レンズが日の光をきらっと反射して、カシャ、カシャ、カシャとシャッターが切られる。

画面を見ながら、そのまま前へ押し流されるように、人の波に飲まれていく。


倒れている男の靴の底のゴムは、踵部分がひどく擦り減っていて、ささくれている。

避けて歩く人たちのひとりの足先が、靴に触れた。

カッと小さな音に合わせて、倒れた男の靴が、脱げる。


コロ、コロ、コロ。


地面の上を靴が転がれば、それも避けて人の波が割れる。

割れた先で、また避け切れなかった人の足がその靴に触れて、靴はまた転がる。


波を割る靴は、避け切れなかった誰かの足が弾くたびに、少しずつ、流れの外へと外れていく。

靴が男から遠ざかるたびに、だんだんと人の流れが薄くなって、さっきまで埋まっていたロータリーに、隙間が生まれた。

それでも、口を開けたままの地下への入り口に、パラパラと人が吸い込まれていく。


カツ、カツ……カツ。


階段を降りていく音が、小さく遠のいていくと、男のコートの裾に何かが鼻を近づけた。


クンクンと匂いを嗅ぐ。


細いリードに繋がれている首輪。

グイグイと、それを自分の首に少し食い込ませながら、前のめりになる犬。


「ダメよ」


老婆が、リードを引く。


だけど、犬は匂いを嗅ぐのをやめない。

グッと足で地面を蹴り、自分の倍はありそうな老婆のことを引っ張って、もう一歩、近づく。

地面に触れている倒れた男の冷えた指先に、犬の少し湿った鼻が押し当てられた。

それから、ぺろっと舌が触れる。


「やめなさい」


声に合わせて、老婆が強くリードを引く。

それでも犬は、もう一度だけ、男の手に鼻を寄せた。

カサカサな男の細い手と、黒くてツヤッとした犬の鼻。


ひゅーっと、風が吹く。


それを見るみたいに犬が顔を上げて、老婆のリードに導かれて、歩き出す。


カチカチ、カチ。


青信号が点滅する。


カツカツ、カツ。


人々がアスファルトを踏みつける。


犬だけが、ちょっと男を振り返った。


コロコロ。


蹴られた靴が、また転がる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ