砂海を泳ぐ者たち
ウィル・オ・ウィスプが見た、幻影のような光景。流れる砂の海。そこで見た光景は、果たして幻影であったのか?
答えは否である。
あのとき、肉体に宿った状態ではなく、幽体であった。
だから、そういう機能を肉体が持っていないにも関わらず、砂に満ちた、光届かぬ、砂の海なんて場所で、視認なんてものができたのだ。
砂の中を潜行、否、遊泳している巨大なる存在がそこには一つ。
扁平な体つきをしている。上から眺めると、菱形の形をした。巨大なカレイである。海のない筈のこのせかいにて、ある意味、海を模したかのような砂の海と、そこに潜む巨大な魚。
人間一人なんて目じゃない。家一つ飲み込むなんて何ら問題にならない。それらが集まっていても、容易く一度に飲み込めてしまうだろうくらい。本来口の、顔に占める割合がそう大きくない生物にあるにも関わらず。故にそれは、正しく巨大であるといえた。
これまで、この世界の誰もが認識できなかっただけなのか、それとも、今回の事態に際して出現したのか。これは、今回の事態の根本原因か、ただの原因の一つなのか。
未だ、この世界の誰にも分からない。
「おやめください、ダリウス様」
部下といった様相ではない。少なくとも、指揮下という風では無いのである。巌のような巨体を持つ男の足に、数十人の者たちがしがみついて、止めようとしているのである。その歩みを。
その男の肌は、泥色をしていた。まるで泥を塗りたくったかのように、人間の肌の表面の質感をしていない。しかし、それは実のところ、塗りたくった泥ではなく、男の表皮そのものであった。
男は、少し前まで床に耽っていた。男の身体は、その頃より前からこんな外観であった。記念すべき、初めての魔法の行使。その日より、男の体は泥と置き換えられたのである。
絶えず自壊する泥の人形。痛みもある、但し、自身の身体が本能的に発露し身につけた回復魔法により、回帰しうる。崩れる前へと。
要するに、生きて、息をすることすら、苦痛と苦悩に包まれている。死ねない。生き地獄である。
男はそれでも諦めなかった。絶えず自壊しながらも歩くくらいはできるようになって、それでも、学園へは通えなかった。
事情を知る家族以外から見れば、化け物にしか見えない。魔物とどう違う? 不幸なことに、この世界には、人間種以外の知的生命体は公には存在していなかった。
だから、外へ出ていた者であれば、この男を見ても、人間であると問題なく視認できたであろう。この男のあり方は、魔物のそれではなく、人間のそれであると。経験と観察から容易く結論を出したであろう。
だが。そのような者は、砂漠の砂の一粒程にしか存在しない。貴族層以上で見ても、漸く一握りといったところか?
そして、男の家とその係累には、該当者は存在しなかった。敢えて言うのならば、該当者といえるのはこの男くらいである。伝手があり、試験さえ受けさせて貰えたならば、【始まりの園】へ至れるであろう。向こうからスカウトに来られる程には、残念ながら今の今まで習熟していなかったのではあるが。
今は?
汝、資格あり、である。
とある存在が、世界法則を一つ塗り替えたこと。
それとはまた別の、とある存在が、絶対に近しかった根幹に関わる世界法則の一つを塗り替えたことによって、男は、合一したのである。
騎士としての体捌きと駆動を、達人級に極めることで、男は、泥の身体のままでの、負担を限りなく殺した駆動を可能にした。
それでも、負担は無にできない。騎士の技術ゆえに、魔法で、部位を補強したり、駆動時には、本能的な筈の回復魔法は完全に途切れる。
騎士と魔法は相入れない。例外は、魔法ではない能力、若しくは、騎士として真に認められた者のみが手にする、騎士の魔法の武具。
二つの世界法則の塗り替えによって、男は、補強と回復を纏いながら、騎士の駆動で行動できるようになったのである。
身体の崩壊とは別の、多大なる問題の一つであった、声。ゴーレムのそれに限りなく近似し、人のそれとは到底思えないようなものであった。震える泥土から吐き出される、低く響く呻きのようなそれに、崩壊音と回復による再生と消耗の汚染魔力が混ざり、声を発している時の様相は、明らかに、高位の厄い魔物そのものであった。
それが無くなったのだ。
禍々しさの元が消え、ただの、くぐもった声程度に落ち着いた。その上、阻害する物がなくなったからこそ、よく聞こえる上、聞き取りやすく、威圧もしない。
男自身が変化に気づいたのは必然であった。起床時、起き上がる時、恐ろしくスムーズであったからだ。普通の人間が起き上がる程度の所作と時間しか掛からなかった。
身体が崩れなかったのだ。本能的な回復魔法が発動するのは、騎士の技能としての駆動がなされず、身体が崩れたり罅割れた状態。つまり、そうならなかった、ということ。本能的な、防護と補強。魔力によるそれが働いた、ということである。
それから数十日後ーー件の勅命が下った。外出禁止令である。
奇しくも、男の立場は、半ば、家とは切れていた。男は、変化を知ったその日のうちに、家族と話をつけ、出奔の準備を整えており、家族もそれに前向きに協力していたからだ。爵位を分けての分家としてではない。当然、騎士としてでもない。魔法使いとしてでもなく。平民が婚姻でもなく人身売買でもなく、家をただ出て独り立ちをするかの如く、準備、である。
男には才能があった。努力家であった男は、自我流であったが、研究と研鑽の結果、土の質という新たな考え方と、それによる加工物についての成果を家に遺した。他にもまだ出していない成果はある。
緩くであるが繋がりを残しつつ、やって行くつもりだった。士官してもいいし、学園の門を叩いて見るのでもいい。旅をしてもいいし、店や工房を構えたっていい。
金品、つまり、資産をも、持たせて貰えている。それだけの貢献はしたし、今後とも、ということだ。自分も、家族も互いにそう思っているということだ。
腐らなくて、やけにならなくて、よかったと、男は思った。まあ、こんな事態だが、いや、だからこそ好機か、と不謹慎ながら胸を高まらせていた男であったが、その計画は頓挫した。
「ジェロム家の秘蔵っ子とは君のことかい?」
有名人であった。自分がもし、表に出れていれば、この女のような辛い世間の風を浴びることになっていたかもしれないという、そんな女であった。
「……。出奔する取り決めになっているのだがな……」
「それは困る。当代随一の土の専門家たる君には、こいつをただの砂に戻す方法を見つける役目があるのさ」
こちらの意見を聞くつもりはなさそうだった。女の心音が僅かに高鳴っている。嘘が含まれるのか、それとも、何としても受けてもらわないといけないからの緊張なのか。
「まず、見せてくれ」
そう言うと、女は、掌からぽんっ、と石棺?を出した。灰色の石の柱のようにも見えたが、蓋若しくは扉らしいものが付いているし、だが、十字架や家紋や文様な装飾は無い。
「観察量が常人のそれじゃあないね。それに、勘もいいようだ」
男はハッとした、自身の身体が、知らぬ間に三歩も引いていた。
女の手からそれはひとりでに跳ねて、地面に降り、本来の大きさを取り戻した。
女が、魔力による操作、否、封か! それを切り、灰の如く砂がせり上がる。石棺ごと呑んで、それすら自身の材料に変えて、灰色の砂の巨人が拳を、彼女に向かってぶち…ー
「……。事前情報無しで考察させたかったとはいえ、これは通達無しにやってはいいことでは無いだろう!」
地面が揺れる如く、強く響き渡る怒りを含んだ声。
灰色の砂の巨人は、灰色の石の塊と化していた。それは、女が自ら望んで施した変化ではない。男によって齎された、回復、より上位の事象、回帰、である。
「だから身を張っただろう? 君なら、不意をつかれなければ、どうとでも料理できた。逃げることも。見捨てることも。これは厄介事だ。領主たちをすっ飛ばしてここまで来た。無かったことにしたければ、構わないよ。無理を言っているっていう自覚はあるさ」
女はそう、頭を下げる。
非常にやりにくかった。これは、交渉である。女の側が本来、圧倒的に不利な交渉。だが、男には交渉事の経験なんてない。男が過去やった交渉なんて、つい先日、家族に向けてやった、押しつけがましい、逆シャークトレードだけしかなかったから。




