汚名の始まり
「ぶーちゃーん」
俺は再度声をかけた。しかしぶひぶひという鳴き声はいまだ止まっていないらしく、ドップラー効果で遠く響いている。
「置いてかないでよー」
取りあえず、声が聞こえているはずだから声をかける。
君は何がしたいんだ。
何度目かの疑問を抱きつつも、俺はカンテラ片手に裸足で進む。
そうやってしばらく歩いていた時だ。
のそっ……と。
俺の三倍はありそうな、馬鹿でかい熊が俺の目の前に立ちふさがった。
向こうもいきなりの遭遇に、かなり驚いているようだ。
ばちん、と確実に目が合ってしまった。
途端俺は頭の中が真っ白になりかける。
魔物相手の戦い方ならわかるんだが、穏便に熊から離れる方法が見つからないのだ。
えっと、死んだふりは実はしちゃいけない物、だったはず。
日本でもあまり手に入らなかった知識をあさっても、俺は現状を打開する手段を見つけられない。
熊って、本当に、怖いんだぞ。日本最大級の食肉目で、新聞とかでたまに山菜取りに入って殺された人の話を見た。
自然の領域に、何の備えもなしに入るからいけない、とおばあさまが呟いていたのを今思い出す。
冷や汗が流れる。身動きが何一つ取れない俺は、間違いなく気圧されていた。
魔物相手にも、奴ら相手にもひるまなかった俺が、熊にひるんでいるのはおそらく。
対抗手段がないからだ。
魔物なら冬を呼べばある程度は助かる。
奴ら相手でも似たような物だ。
俺は決定的な手段を持っていた。でも熊相手にはそんな物を、持っていない。
分厚い脂肪と毛皮に包まれたこういう生き物に、折り畳みナイフ一本で戦いを挑むのは阿呆だ。
ぐるっと頭が回転する。
熊はじっと俺を眺めて、鼻を鳴らして近付いてきた。近付かないでくれよ、お前の手の一撃で俺は死ぬ肉体なんだ!
あまりにも瞬きできないせいで、涙が浮かんでくる。
呼吸さえ苦しい。どうしたら、どうしたら、どうすれば、と頭の中が生き残る手段を探って熱を持つようだ。
熊は俺の至近距離まで来ると、また鼻を動かした。すん、すん、と匂いを嗅ぐ。
……食い物認定されたら、俺は死ぬな。
血の気が引いた状態で、俺はそんな事を考えてしまう。ぶーちゃん、ごめん、俺はここで終わるかもしれない。何故ならば身動きが取れないからだ……
逃げ出すのは危険だ。相手は追いかける習性を持った生き物で、背中を見せて逃げたらそれで終わる。
だがしかし。
運は俺に味方でもしたらしい。
熊は鼻を鳴らして俺の匂いを散々嗅いだ。
それで。
いきなり、俺の体をべろべろと舐め始めた。
俺の、泥だらけの体を。
そこで俺は相手の熊が、腹に傷を負っている事に気が付いた。
こいつも、あの魔素保有量が限界突破した泥温泉を目指していたんじゃ、と気付く。
いきなり現れたその、泥まみれの俺は都合がいい、のか?
食われそうなほど嘗め回された結果、俺の泥は完全に取れた。
熊は、傷が治ったらしい。そのまま俺に興味をなくしてくれ、と祈っていた矢先。
「……っ!?」
俺は目を見開いた。噎せるほどの甘ったるい気配をもった瘴気が、あたりを吹き抜けたのだ。
熊はそれの匂いを嗅ぐや否や、俺などいなかったかのようにどこかに歩き去って行った。
「たすかった……」
へたりこみつつ、俺は自分の命が助かった事を心底感謝した。何かに。
熊に文字通り襲われていたせいで、ぶーちゃんの声はもうわからない程遠い。
俺は早々に探すのをあきらめた。
うっかり、ぶーちゃんが嗅ぎ付けられないくらいに遠くに行ってしまっては、合流も減ったくれもないのだ。
カンテラを片手に、火を絶やさないように休息をとる。
幸いというのか、ほかの肉食獣も熊の唾液の匂いの結果、俺を捕食対象だと見なさないようだ。
熊は自分の物だと決めたものには、異様にしつこいとか聞くからな。
自分の物に手を出されたら、熊の怒りが発揮される。
獅子も熊相手には勝てないそうだ。肉体差を考えると納得だ。体重だって明らかに成体の熊の方があるのだし、力も同じ。勝てるのは顎の力だったと思ったな。
そんなだから、豹なんてもっと熊と喧嘩はしたくないらしい。
ようわからんが。
ちらりとほの明るいカンテラを見やり、俺は木々の間の月と星を見つめる。
星読み何てできないからな。これからの運命を探る、占い師のような真似は出来ない。
ただ、むやみに襲ってくる眠気を振り払うべく、俺は星を見つめていた。
「しかし、臭いほど臭う」
瘴気が臭う。これだけ臭いのは滅多にない。
いつぞやに、あいつらと俺たちが一大決戦を行って、どっちも死屍累々状態になった時があった。
あの時のように香るのだ。
これだけ瘴気が濃いと、たぶん奴らも手が出せないだろう。
奴らだって瘴気に関して、万能ってわけじゃなかった。実際、上位のカルミナ・スペクルのディ・ケーニさんはテンカ姫の瘴気を抑えるので手一杯な程だった。
それゆえにわかるものがある。
これは、簡単な階級の奴らでは、いじるのも不可能だろうと。
神々も、あいつらも、全知全能、絶対万能ってわけじゃないのだ。
魔物がでないわけだよな。
魔物は、これを吸ったら体をやられて、一番よくて自分の体が瘴気に絶えられなくて組み変わり、悪くて生きながらひき肉だ。
最強の個体が生まれるか、死ぬかのどっちかだろう。
瘴気だけを感じ取ろうとすると、そういう物が分かってしまうのだ。
分かる時点で俺もこの世界じゃ、異常かもしれないけれどな。
「……これだけの物を従えられるとすれば」
脳内で数名の奴らをリストアップしていくと、どうしてもあの、蒼い髪を思い出す。
瘴気王と呼ばれた、あいつらの王の中の王。
「……瘴気王ヨーゼン」
あれくらいじゃないと、これはもう制御できないだろう。
「……知らないんだ、私。戦いの結末も、その後ユーリウスとヨーゼンが何を交わしたのかも」
探る記憶の中で、最終決戦の事は曖昧過ぎるほどだ。
まるで俺が参加していなかったというように。
神々の記憶も、やはり人間には過ぎる物だから思い出せないのだろうか。
大事な物のような気がするというのに。
「……」
一人膝を抱えて明かす夜は、眠れればいいけれども、眠れないと気分が落ち込む。
「ぶーちゃん、追いつけないの気付いてくれないかな……」
あの体に寄りかかって、眠りたいと強烈に思ってしまったぜ。
「この、ヨーゼンの敗北だ」
俺は相手を見下ろしていた。倒れ伏す王の王。
俺が袈裟懸けに切り裂いた体は、それでもなお美しい。
広がる青色の髪の毛と、そこから覗いている病的に白い肌いろ。
瘴気により染まり切った濃紺の爪もまた、彼が魔性の存在だと示している。
それでも、あんたはきれいだな。
瘴気を多分に含んだ液体にまみれて、でもこの王はすさまじく麗々しい。
「さあ、止めでも何でも刺せばよかろう」
瞬いた眼の後に、息の後に、ヨーゼンが言う。
「あんたの腕はまだ動くはずだ。立って戦え」
俺は見下ろしながら、そんな事を言っている。俺の体はヨーゼンの流した体液でべとべとだ。
「いいや、敗北だ、戦えない」
「なんでだ」
俺の声が苛立たし気な色に染まる。
戦えるのにどうして、戦わない。戦おうとする心にならない。
冬の武神にとっての当たり前の心を、目の前の王の王が持っていないのだ。
苛立ち、怒るだろう。
「動く手足がある。働く頭がある。武器がある」
なのになぜ戦わないのだ!
最後の声は叫ぶような物だった。俺の声が泣くように歪む気がした。
戦え、戦え、瘴気王ヨーゼン!
俺と戦え! まだこの殺し合いは終わっていないのだ!
勝負を捨てるな!
そんな感情が荒れ狂うように体の中で、吹きすさぶ。
「戦わない理由は何だ」
しかし声は驚く事に物静かで、激情はこぼれなかった。
ああ、俺は戦いの中でしか激情がこぼれないようになったのか。
初めてここで、自分の感情が外に出ないほど死滅している事を知る。
昔はまだ、顔の筋肉が動いて、笑ったり怒ったりしたはずなんだが。
「それは逆に問おう、武神ブロッケン」
ゆっくりとしすぎる、限界の息でヨーゼンが言う。
「戦う理由は何だ」
俺は答えを持っていなかった。立ち尽くして、動きを止めた俺を見上げながら、蒼い髪をした美しい王の王は、笑う。
「冬、白の冬、黒の冬。終局の冬。始まりの冬。戦う理由はどこにある」
冬は戦いというわけでもないのに、と呟くヨーゼンの声。
俺は目を閉ざし……目を開けばどこにも、瘴気王の姿はなかった。
俺は、敵に愛を抱いて情けをかけ、逃がしたという汚名を着せられた。




