泥だまりにも福?がある
ぶーちゃん、きみは一体どこまで走るつもりなんだい。
俺はなんとも言えない心で、俺を助けてくれた可愛い豚ちゃんに心の中で問いかけた。
君は一晩中ずっと走っているつもりなのかい。
と言いたくなるほど、ぶーちゃんは爆走中なのである。
猪にしろ豚にしろ、こんなに長距離を走るものなのか。
俺はそこまで詳しくないので、なんとも言い難い。
でも、ぶーちゃんは止まるつもりが全然ないらしいのだ。
俺はそろそろ、眠気で君から落ちそうだと思いながらも、俺はしっかりとしがみついている。
裸馬だったらまだ、乗っている体裁が整ったかもしれないが、ぶーちゃんの骨格云々を考え、さらに波打つような筋肉の事も考えると、しっかり体を押し当ててしがみつく以外、方法がない。
どこぞの素晴らしきアニメーションのように、上体を起こしているなんてとても無理だ。
そして。
「ここは一体どのあたりなんだろう」
小さく呟いてしまう。
ぶーちゃんが走り続ける辺りはもう、暗闇だしどう考えても森の中だし、時折狼なのか魔獣なのか、魔物なのかの遠吠えが聞こえてくる。
しかし、この巨体になったぶーちゃんを襲える大型の肉食獣は早々いないだろう。
豚の皮は分厚くてかたくて、柔軟なのだ。
ちょっとやそっとの牙や爪では、傷なんてめったにつかないと思ったな。
この世界の豚がどんだけタフネスなのかは知らないが。
そんな現実逃避をしつつ、耳を澄ませていれば森を吹き抜ける風の音がする。
森の深い部分に入ったな、とわからないなりに、考えた。
そんな風に俺が現在地を探ろうとするのなんてお構いなし、と言わんばかりに、ぶーちゃんは森を走っていく。
走っていくうちに、俺はなんだか周囲がよどむような感覚に襲われた。
この感じは、瘴気のそれだ。
ぶーちゃんは魔素を保有しないから、瘴気にあてられる事もない動物だ。
それはその他の、動物にも言える事である。
その証拠のように、ぶーちゃんの上からあたりの気配を探ろうとがんばると、魔物や魔獣の気配がひどく薄いのを感じ取った。
このあたりは瘴気が恐ろしく強いのだろう。
俺でなければ、きっと昏倒しているくらいの濃密さに違いない。
日本産の人間で、体の造りもややこちらとは違う俺だから、この程度で済まされるのだろうが。
やがてぶーちゃんは、徐々に速度を落としてから、止まった。
「もういい?」
俺はこわばっている手のひらを動かすべく、ゆっくりとぐーぱーしつつ問いかけた。
<うん。もうここなら、にんげんおいつかないでしょ>
俺も人間なんだけどなー、と思いながらも俺はぶーちゃんの背中から下りた。
<この先にね、痛いの飛んでくあったかい水がわいてるの>
鼻を動かしながら、俺の可愛い豚ちゃんはそう言った。
「温泉があるの?」
思わず問いかけると、ぶーちゃんが頷く。
<おんせん、ていうのね。痛いのなおっちゃうお水が出てくる場所があるの。ぶーちゃんの仲間は皆そこ行くの>
「私の足が傷だらけだから?」
気遣われていたのかと思って聞くと、つぶらな瞳がこっちを見返す。
<親分怪我してるの、ぶーちゃんいやだもの>
純粋な心配と気遣いに、俺はうっかり泣きそうになった。
お前はなんていい子なんだ、ぶーちゃん。
「どっちに行けばいいの?」
<すぐそこ>
言いつつぶーちゃんが、俺を鼻先で押しやり始める。
「待ってぶーちゃん、体がこわばってて動きにくいんだよ」
<しょうがないのね、親分>
ぶう、と鼻を鳴らしたと思ったら、俺は腰のベルトをぶーちゃんにくわえられて、宙ぶらりんの状態に持ち上げられた。
<ぶーちゃんがはこぶの>
くわえながら喋るから、唾液の垂れた声で豚ちゃんがそう、なんかすごい嬉しそうに言った。
そのまま俺は運ばれて、その、傷が治る温泉の所まで行った。
「……泥だまりかー、豚や猪の場所だもんねー」
確かに、温泉はあった。こんこんと湧き出ているのも間違いない。
しかしそこは、泥も一緒に噴き出す、いわば泥温泉だったのだ。
俺は入るのを躊躇しそうだったのだが、遠慮もなければここをためらう理由もわからないぶーちゃんが、遠慮するわけがなかった。
ぶんっと、俺は泥だまりに放り込まれていた。
とっさに受け身をとって、足で着地する。
したとたん。
「っ……!!」
足にものすごいしびれのような物が襲ってきた。立っていられない。ぐしゃりと膝をつくとそこからまた、しびれが体に伝染していく。
痛みはないのに、声だけが出ないってやつだ。
足の傷、指の傷に泥水がしみ込んでいく。
しみ込んだそれ等を感じて、俺は慄然としそうになった。
過剰すぎるほどの、魔素が泥の中から感じ取れたからだ。
魔素が、強制的に、体の中に吸収されていってそして、異常な速度で傷を治癒していく。
この魔素は、大地と森が吐きだす、余計な魔素だという事も感じ取れた。
魔素はありすぎると害になる。
だから吐きだす、と言わんばかりにこんこんと水と一緒に湧き出る魔素と泥。
体のしびれが取れたあたりで、俺は何とか起き上がり、自分の指を泥の中から引っこ抜いて、軽くぬぐってみた。
「……」
傷痕は残っているのに、傷自体は見事なまでに消え失せていた。
足もと確認すれば、足の傷も同じ事になっていた。
<親分?>
ぶーちゃんが肌をすり寄せてくる。純粋に、治った? と問いかけてくる彼に、俺は言った。
「治ってる、ありがとう、ぶーちゃん」
表情があまりわからないはずの、獣の顔だというのに。
<うん>
ぶーちゃんの顔は、とても嬉しそうだった。
<これ持ってくの?>
「しょっちゅう怪我してるから、あった方が便利かと思って」
俺は道具袋の中にあった空き瓶に、取りあえずわきたての泥を入れておいた。
泥の粒子が細かいから、泥パックにもなりそうだし。
……たまーに顔が脂すごくて、べったりしている時があるから、たとえ魔素がなくてもそっちに使えばいいかと思いながら。
「さて、これからどこに……って、ぶーちゃん今度はどこに行くの!?」
俺はぶーちゃんと、今後の方針を話し合おうとして、しかしその桃色の獣がいないわけだから叫んだ。
「勘弁してよ……この真っ暗な中、ぶーちゃんの後を追いかけられるほど、私夜目が聞く生き物じゃないんだよー」
人間の暗闇に対する視力は、他の獣よりずいぶんと劣るはずだからな。
なんて思いつつ、俺は時折聞こえてくる、ぶー、という鳴き声、明らかに鼻歌を追いかけながら呟いた。
しかし。
「この瘴気の濃さは、尋常じゃない世界だな」
対して影響がないらしい俺でも、濃厚すぎてむせるような、そんな瘴気。
魔物すら、命を奪われかねない密度のそれに俺は眉を顰める。
「核が大きいのか、それとももっと別の要因が……?」
この森に、あいつらの上位存在がいるとか。
それにしては、あいつら特有の気配がないから、有得なさそうだが。
それ以前の問題として。
「ぶーちゃん、私は刃物一本でこんなくらい森を歩き回るサバイバル技術はないんだよ!」
俺は盛大に叫んだ。
師匠に放り込まれた森だって、こんな瘴気漂う息苦しい場所じゃなかったからな!? アンデッド出たけど。
アンデッド大量発生で、ヘロヘロになったり逃げまわったりしたけど、軽く道を照らすカンテラくらいの装備はあったんだ。
って。
「道具袋になにか放り込まれてないかな……」
俺はもしもの時のために、なんでもぶち込みまくってある道具袋を開いた。
腰から下げたそれを指で探れば、中の魔術が働いて俺の欲しい物を指に触れさせてくれる。
それを引っ張り出せば。
ちゃちなカンテラが一つ出てきた。
後は、火を熾すべく材料、火打石と火打ち金とも取り出す。
カンテラの中に、減りが遅いが灯りとしては落第点、ないよりまし程度のこちらの世界の蝋燭が入っているわけだし。
火を熾せば何とか、木の根とかで転ばないで済みそうだ。
立ち止まってかちかち、と火を熾してカンテラの蝋燭に着火。
本当は、魔素があまりない一般人でも使える“蛍火”でも使えればいいんだが、俺は魔法のまの字も使えない人間だし。
カンテラしか頼れない。
こんだけ鬱蒼としていると、月明かりも木に遮られてここまで届かないしな。
カンテラの橙色の明かりに一息ついて、俺はまたぶーちゃんの後を追いかける。
君は何がしたいんだ……そして俺裸足なんだよ。
靴に慣れ切った足は、さっきから踏んでいる色々な物に違和感を持っていた。




