恐ろしい慣れ
ざあざあと底知れない雨が降っている夢を見た。
雨が降っているなんて、これは一体いつの夢だろうかとぼんやり思う。
冬の大陸は、滅多に雨が降らなかった。
そのくせ雪は馬鹿みたいに降っていて、白く白く、そして黒かった。
俺はいつだってその中を、立っていたはずだったのに。
どうしてだろうか。
今日の夢はいつもと違った夢だった。
俺の隣に、ギギウス・ブロッケンだろう純白の存在が立っているのだから。
そいつは恐ろしいほど美しく、そして多種多様な側面を持っている気がした。
変なの、とどこかで思ったのは、俺が俺をギギウスだったと信じているからだ。
俺はギギウス・ブロッケンだった。
キャシーも俺をギギーと呼んだ。
なのに、この夢の中で俺は、ギギウス・ブロッケンのま白く秀でた額と、それからひどく美しい横顔を眺めていた。
そいつは真っ白なかんばせの中、同じくらい白い白目と、深い雪の影を落とす虹彩をしていた。
その目がこちらを向いたと思った。
ああ、向いた。
確実に向いている。
「――――」
唇が開く。真っ白な唇が。その中の舌は真っ赤で、俺はその色のコントラストに見とれていた。
開いた唇の向こうの言葉が、分からない。
あんたは何て言ったの。
そんな事を思っている俺とは裏腹に、ギギウス・ブロッケンは言った言葉の後唇を吊り上げて、それはもう柔らかく笑った。
綺麗だと、何度目かわからない事を思った。
伸ばされた腕が俺を引き寄せて、落とされた唇は雪の温度とは思えない位温かい、生き物の温度だと思った。
神様がこんな温度を持っているなんて変な話だな、とちょっと思った俺が、声を上げて笑っている。
まるで俺は、ギギウス・ブロッケンの恋人だったかのようだった。
それ位、ギギウス・ブロッケンの顔は柔らかかった。
戦いの中、血まみれた世界の中、たった一人立ち続けるだろうあの、ギギウス・ブロッケンの顔が、柔らかかったのだから。
俺は自分のはずなのに、どうしても、こんな表情をした記憶を思い出せなかった。
続いて見えてきたのは、何だろう。水晶で出来上がった宮だった。
これはユーリウスの宮だという事は間違いない。
このでたらめに豪華な宮が、ユーリウスのそれでないわけがない。
そこで一人、全能の神が玉座のような物に座っている。
俺はそこに座った事があって、ユーリウスがあたりを広々と見渡せるように、丁寧に作られた場所だとも知っている。
そこで神が座っている。
瞼をやや伏せて、憂いに満ちた表情をとりながら、手のひらの中の物をもてあそんでいる。
そこから俺は周りを見回す。
何だろうか、俺の記憶の中よりもどこか、寂れた空気が漂っている。
埃っぽいというと、変かもしれないのだが。
そこで最大の神は、手のひらの中の欠片をもてあそんでいる。
それは真っ白な、冬の塊のような欠片だった。
それを光に透かしてみたら、吹雪が見えるのではないだろうか。
そんな事を思わせる物を、ユーリウスは手の中で転がしている。
「ギギウス・ブロッケン」
小さな声が、冬の武神の名前を呼ぶ。俺の名前のはずなのに、ユーリウスが呼ぶそれはどこか別の世界の物の様だ。
「……ちからなど寄こさない、とはお前らしい。自由気ままを身上としたお前だからこそ、この私に核をよこさないのだろう」
手の中の冬をもてあそびながら、神はどこか悲しい声で言う。
「お前を蘇らせる事が出来れば、この憂いも晴れるのだろうか」
あんたが俺を、転生させたんだろうが、と心の中で突っ込みたい俺なのに、俺はその声があまりにも悲しそうなせいで、何も言えないでそれを見ていた。
いつでも気候が整っているはずの神々の庭は、終わらない冬の世界を映し込んでいた。
冬は、俺がいた時代だって神々の庭では再現されなかったというのに、一体全体どういう事だろう。
まあこれは俺の夢の中なのだから、俺が虚構を作っていてもおかしい話じゃないけれども。
俺はそれを見ていた。
見ながらも、あんたのために蘇ってやったりはしないぜ、と皮肉をぶつけてしまいたかった。
「ちび、起きろ、ちび」
「……あー、またぶっ倒れましたか」
俺はそう言いながらも、しっかりと木製の斧を握り締めて立っている自分を確認した。
この前のように、無様に倒れてピクリとも動かない、何て言う醜態はさらしていないらしい。
だが、俺の相手をしていた師匠がとても怖い顔だ。
「また飛んだのか」
「そのようで」
「口開けろ」
「い、や、で、す!!」
飛んだ、とは意識がぶっ飛んだ事をこの場合は示している。
俺は意識を失っても立ち続けていたらしい。
一体どこの弁慶か。弁慶って本当にでかかったのだろうか。
そんなどうでもいい事を思っている隙もなく、師匠が長い腕を俺に伸ばして、がっちりと俺の顎を掴もうとする。
それに抗うべく、俺は身をよじらせた。
「あ、この、大人しくしていろ! すぐ楽になる」
「その、すぐ楽になるで、こっちの羞恥心が降り切れる事を考えてください!」
「なんだよ。もう周りも、親鳥がひな鳥にえさを与えている認識だろうが」
「周りがそうでも私の中でそうならないんですよ!」
「残念だな、諦めろ」
言いながらも師匠は、俺の関節を固定して抵抗の余地を減らす。
そしてずいと顔を近寄せて、俺に覆いかぶさるのだ。
周囲はもはや慣れたもの、にやにやとしているばかりだが。
何も知らないほかの鍛錬場から来た騎士や、その従者たちは凍り付いてしまう。
それはそうだ。
あのゼブンが、弟子に襲い掛かっているような見た目だからな。
しかし俺も、暴れている間に体の力が抜けてふらふらなのだ。
最終的にはかぱっと口を開けて、師匠を受け入れてしまう。
受け入れると、いい子だと言わんばかりに頭を撫でて、師匠が体の中からより合わせた魔素を流し込む。
流し込まれた途端に、細胞にいきわたるように体が楽になるのだから、俺はとても微妙な思いをしている。
はた目からすれば従順に、師匠の接吻を受け入れている見た目だが、その実態は魔素を流し込んで体を癒しているのだから大違いである。
こんなの、あんまり信じてもらえないのだが。
師匠は俺にそこそこの魔素を流し込み、口を離す。
口を塞がれて、呼吸の仕方がいまだにわからない俺であるので、顔は真っ赤で息は切れているわけだが、師匠は呆れた顔で言う。
「だから鼻から息をしろと」
「出来るに器用な人間とそうじゃない人間がいる事に一票」
「頑張れよ。もうそろそろ、しょっちゅう魔素を流し込まなくても大丈夫そうなんだから」
「はーい」
俺は師匠の見立てにほっとした。
これでいきなり、師匠に襲われるよろしく唇を奪われて、強制的に魔素を流し込むなんて言う事が無くなるわけなのだから。
とてもほっとするものだ。
それに、そうすれば夜の離宮に戻れるので、ドゥガル様に温かい美味しいご飯を食べさせられるのだ。
どっちにしてもいい事ばかりだ。
俺の表情は晴れやかになったのに、師匠は俺の顔に反比例した顔をしていた。
「……師匠?」
「子離れができない親の気持ちが分かる気がしてきた」
「残念ですね、親だと思った事は一度もありませんので」
俺の反論を聞いた師匠が、俺の頭を叩いた。見事な音が響いて体が揺れて、俺は盛大に倒れ込んだ。
「おい、お前体鍛えてんのになんでこれで倒れるんだ」
「あなたの叩き方が秀逸なのでしょうともね」
立ち上がろうとした俺の腕を掴み、ぐいと引き寄せて立たせる師匠。
また顔が近いなと思ったら、やっぱり師匠の顔は王子様みたいな整い方だよな、と改めて認識した。
ご令嬢方から、ご婦人方から、とても人気がありそうな顔だ。
体もひょろっこくないしな。見事な筋肉の体は、美しいと画家に絶賛される事もあるくらいだから。
「……」
師匠は俺を見て、眼を瞬かせて、俺の目の中を覗き込む様な顔になった。
俺は師匠の綺麗な色をしている目を見返していた。
「……」
軽く開いた口からは、ま白い歯が覗いていて、こんな細部まで上出来な見た目かと感心していれば。
「お前の目の中に、白い粉が見えた気がしたんだが、気のせいだな」
と言いながら師匠は、俺から腕を離した。




