そちらから引きもどす
その瞬間を見てしまった事を、リナリアは後悔していた。
だってそこには、そこには。
真冬が降臨していたのだから。
最初は何なのか、と。
誰なのか、と思ったのだ。
しかし、次の瞬間に、その氷で出来上がったような弓をつがえ、弦をぎりぎりと引き延ばした事ではっとする。
その誰かは、何かをする。
人間には限界の力で、その誰かはまっすぐに視線をどこか、リナリアたちよりもはるか向こうを見据え、それを放った。
その時の目は、もはやリナリアの理解の限界を超えていた。
その目の色、が。
真っ白だったのだ。
それは冬の白さであり、影を宿す奇妙な色合いだった。
髪すら純白、肌色さえ白い。
白という白を体現したような姿が、そこにあったのだ。
直感的に、本能的に、あれは。
あれは人ではないと、直ぐに分かってしまった。
ヒトはあんな風に、背中から氷の翼を出さない。
人はあんな風に、自信すら感じさせない、当たり前だという顔で、弓をつがえない。
ひとはあんな風に、一つを凝視し、それだけしか見えない顔をして、何かを狙ったりしない。
あれは何なのか、分からない。
分からないというのに、一つはっきりしているものがあった。
……あれは、何かを守るために、それを発露させているという事だけは。
そしてあれが放ったものは、リナリアのすぐ脇を通り抜け、何か眼に視えない物を大破させたらしい。
リナリアの若干、世界にあらざる音を聞く耳が、何かが大破する音を感じたのだ。
とても微かに、だが。
そしてそれと同時に、その何かが当たったらしき場所が、そう。
瞬く間に、凍り付いた。
それも、この春の大陸の冬とは比べようのないほどの、凍り付きかたで。
その凍れる空気に、魔物たちが泡を食ったように慌て始め、一気に逃亡を始めた。
それはまるで、絶対的な覇者が現れたかのような、逃走の仕方だった。
アカネの浄化の祈りでも、浄化自体は微々たるものだったというのに、その何かが投じられて何かを破壊したとたん、空気は一気に静寂と軽さに包まれた。
瘴気の重苦しさなど、なかったように。
リナリアは誰もと同じように、魔物が逃げていく様を見ていたが、ひとりはっとした顔で、ゼブンが祠の方を見やった。
そして顔色を変え、叫んだ。
「リン!」
ゼブンは戦いで熱を持っていた頭が冷えたようで、たった一人弟子の名前を呼んで走って行った。
まるで、貴族よりも、王族よりも、仕事よりも、その弟子が心配だと言わんばかりの声の調子で。
「リン、大丈夫か、お前、手が」
ゼブンに続いて、リナリアが祠の中へ入れば、ゼブンの大声も碌に聞こえていない顔をしている、真っ白な顔色の少年が、手を握って呻き声を上げていた。
呻き声がなければ、死人の顔色だった。
「っ、くそっ!」
彼が悪態をつく。そして少年に、呼びかける。
「ちびすけ、今のは何が起きたんだ! お前、何処か怪我を?!」
その声に、少年は誇らしそうに笑って、くたりと体の力を全て抜いてしまった。
まるで限界だったかのように。
その後はいくら呼び掛けても返事がなく。
ゼブンが、舌打ちをした後に、騎士らしからぬ悪態をいくつか吐き、腰から魔法薬を取り出してその、少年の手に塗りたくった。
そこでリナリアは呆然としてしまった。
少年の手の皮は見事に向けており、そこから体液と血液がばたばたと落ちていたのだ。
まるで、氷よりも冷たい物を握り、手の皮が張り付いて取れてしまったかのように。
「こっちを向け、目をこっちに向けろ、俺はここだ、リン!」
薬を塗りたくりながら、ゼブンが叫ぶ。少年の目はどろりと、濁っている。まるで、まるで。
「死に向かっている人間の目だな」
隣で弟のオズウェルが呟いていたが、それはリナリアも思った事だった。
一体何をすれば、ここまで死神に近付くのか。
あの頭の強打のせいなのか。
それとも別の要因なのか。
「くそっ、体が冷えすぎた、これじゃどうにもなりゃしねえっ!」
冷たい肉体では、魔法薬の効力が減退する。
それは、魔法薬の効力が人の体温で効果を発揮するように、作られているからだろう。
低温でも、高温でも作用していたら、薬は瞬く間に劣化する。
「リン、目を向けろ、俺を見ろ、早くしろ!!」
それでも少年は、体を動かそうとしない。動く力もないのだろうか。
顔色が余計に悪くなっていく。
「リン、リン、リン、早く、早く!!」
リナリアはふと、どうしてゼブンはそこまで、自分を見るように強制するのだろうか、と気になった。
何かあるのだろうか。迅雷のゼブンは強力な武人ではあるが、回復の魔法は持ち合わせがなかったはずだ。
そこでリナリアは、ある事を思い付いた。
聖女は聖なる力を持っている。癒しは聖なる力だと言われている。
「アカネ殿、リンを癒せませんか」
リナリアは、ここで少年を死なせてしまうのは惜しかった。
理想の弟みたいで可愛いのだから。
それに、この子は何か大きなものを隠し持っている。
「……はい、やってみます!」
アカネが、祈りで消耗しているというのに、真顔で頷いて少年に近付こうとする。
「ゼブン様、下がってください」
「駄目だ」
「ゼブン様、祈りが」
「うるさい」
びしゃりと容赦なく叩きつけるように、聖女へ騎士が拒絶を吐き散らした。
その声に、アカネは慣れていなかったのだろう。ひくりと引きつり、一歩下がってしまう。
「ゼブン、ここはアカネに任せて、癒しを使ってもらった方が」
「リン、リン! 目を開けろ、俺を見ろ、目を合わせろ!」
ステファンの言葉も、ゼブンには届いていない。それは半狂乱で理性の半分を、捨て去ったような調子だった。
その声のどれもに反応しない、そんな少年を見て、騎士は一度口を閉ざした。
そして。
「皆さま、悪いんですが、少しだけ背中を向けていただいてよろしいでしょうか」
丁寧な調子に、理性が戻ったかと思えば、そんなおかしな事を言い出した。
「え……?」
怪訝そうな顔になったステファンや、アカネ、そしてリナリアもオズウェルも意味が分からず、外ではまだクリスチャンが様子を確認しているのでこちらは見ていない。
「あまり、見せられない物をお見せしてしまいそうなので」
「……わかった」
最初に背を向けたのは、オズウェルだ。それに続き、アカネもステファンも背を向ける。
リナリアも背を向ければ、次の瞬間。
「ん……っう」
妙な生温かさを伴った音が、して、次に何か、理解できない音がした。
それはほんの十数秒だったが、やけに生々しく、リナリアもうっかり下世話な事を思った。
聖女をリナリアが確認すれば、彼女は手鏡をもって背後の様子を見ていた。
何という娘だと、ある意味感心した。
でばがめもいい所だ、と。
「ありがとうございます、もう大丈夫です」
そのいたたまれない十数秒ののちに、リナリアは騎士とその弟子を確認した。
弟子の顔色は、まともな物になりつつあった。
一体、騎士は弟子に何をしたのだろう、とリナリアは疑問に思った。




