約束と命令
「あの……どうか、側妃様はわたくしをかしこまらずに呼んでください」
「いえいえ、私はあまり褒められた出自ではありませんし、けじめという物がありますから、姫様と呼ばせていただきます」
俺はタオルを渡す際に、ルナちゃんを姫君と呼んだ。
呼んだとたんに、こういう問答が始まった。
彼女は俺にかしこまらずに、呼んでほしいらしい。
何故なのかはわからないのだが。
しかし俺の方はと言えば、それをやったらいけないと思うのである。
何故ならば。
俺は世間的に見たら、とても低い階級だから、としか言いようがない。
どこの生まれかもわからない。どこから来たのかもしれない。
そしてちびの子供みたいな見た目だ。
これでルナちゃんのようなお姫様を、かしこまらずに呼んでみろ。
普通に聞いたら不敬罪だからな。事情も俺の正体も知らない奴らからすれば、一発で監獄に引きずられるだろう。
だから呼べないんだが……ルナちゃんはそれが嫌らしい。
懐かれているんだろうか。この短時間で心を許してしまったのだろうか。
非常に疑問だが、彼女は期待のこもった瞳で俺を見ている。
そして俺は、……しょうがないなと思ってしまう部分があった。
「では、ルナ姫と呼びましょう」
「姫なんていりませんわ」
「でも、ルナ様をそうしたらどう呼ぶのです?」
「お友達のように呼んでほしいわ」
俺は唇を舐めてから、離宮の星空のような天井を眺めた。
悩んだわけである。
でもさ。
……いいって言ってんだから、いいよな?
見た目はともかく実年齢は俺の方が上、だ。
「ではルナちゃんと呼びましょう。ですが、人のいない時だけですよ」
俺の妥協を聞いたルナちゃんは顔を明るくして、頷いてきた。
可愛いなあと、またほのぼのとした。きつめの顔立ちでも十分可愛らしい。
気性も悪い子ではなさそうだしな。
「では、ルナちゃん、そろそろ送りましょう。あまりにも遅いと、お月の方々に心配されてしまいますよ」
「ええ。……また来てもいいかしら?」
「常識的なお時間でしたら、大丈夫ですよ」
真夜中とかじゃなかったらな。そして鳥も鳴かない朝っぱらとか。
そういう時じゃなかったら、この子だったら来てもいいかなと思って、そう返事を返した俺であった。
ルナちゃんを、彼女の普段の行動範囲内に送っている時だった。
「スズ、何をしている?」
俺は背後からかけられた声に、何もやましい事が無いからするりと振り返った。
そしてにいやりと笑って見せた。
「陛下、お姫様を送らせていただいております」
「ルナが粗相でもしたのか?」
「うっかり夜の離宮の方角に迷い込んでしまったようでして、あちらは姫君が通う場所ではなかったはずですから、お困りの様でしたのでここまで案内いたしました」
「ほう。ルナ、それにあまり迷惑をかけるな」
「申し訳ありません……お父様」
ドゥガル様の言葉に頭を下げる、ルナちゃん。いつもの事なのか、周囲の視線は大したものを見た反応でもない。
「ドゥガル様、迷惑はかけられておりませんのでご安心ください」
夜中に盤上遊びをさせて、踊らせるあなたよりは迷惑じゃありませんよ、と皮肉を込めて庇うと、ドゥガル様はそうだな、と返した。
俺の言葉の裏側を、理解していらっしゃるようだ。
人通りの多い回廊で、勢いよく娘を叱るほど、短慮な人じゃないしな。
気は短い部分があるけれども。
「そうだ、スズ。話がある。ルナを送ったら早急に部屋まで来い」
「かしこまりました」
盤上遊びだろうか。その前に飯だ。ドゥガル様が何といおうとも、しっかりご飯を食べると決めて、俺はその言葉に頭を下げた。
頭を下げて、ルナちゃんを送って廊下を歩く。その時だ。
「姫様!」
俺はどんっと突き飛ばされた。突然の事だったせいで、俺は転がった。
うん、しょうがないのだ。俺はこの世界の平均的女性よりも、はるかに背丈が低い……転がされてもしょうがない。
日本では大して気にしなかった、コンプレックスのような物が刺激された瞬間だった。
綺麗な石で作られた床、磨きたてられて鏡のようなそこと熱烈なキスをかました俺。
そんなんだが、何とか起き上がればルナちゃんが、お仕着せの衣装を着た女性たちに囲まれていた。
へえ、この世界は中世っぽいのに、お仕着せの服があるのか。
実用的な衣装たちは、それでも完成されたデザインである。
綺麗だなー。とちょっと思った。
思いながら見ていれば、ルナちゃんは囲まれて心配されていた。
「どこにもいらっしゃらないから、お探ししましたよ!」
「お夕食の時間を過ぎても戻ってきませんので、殿下たちの所を訪ね歩いていたのです!」
「いったいどこにいらしたのですか?」
お仕着せの彼女たちは、心底ルナちゃんを心配している調子だ。
愛されている事がはっきりと、分かる対応だった。
何故ならば、彼女たちの瞳がそう物語っていたからだ。
愛すべき姫君を、心から敬愛しているっていう顔だ。
そして戻ってこない我が君を、心配して探し回っていたのも分かる空気である。
これが演技だったら、どっかの女優賞が取れるに違いない。
「興味がわきまして、夜の離宮まで」
「まあ……っ!? あちらは空気が悪いと聞いて居ました、大丈夫でしょうか?」
「悪いどころか、澄み渡った空気で……ほのかに素敵な香りのする、とても素晴らしい場所だったわ。それに、側妃様もとてもいいお方で」
ちらっと俺を紹介したそうなルナちゃんに、俺は首を振った。
お願いだ、俺だと言わないで。
色々あるんだ。色々……
そんな視線を、ルナちゃんはしっかり受け止めてくれたらしい。
王女らしい笑顔で笑って、彼女たちに言う。
「また遊びに行くお約束をしましたの。楽しみだわ」
「姫様がそうおっしゃるのならかまいませんが……この次は、わたしたちの誰かを連れて行ってくださいな、とても心配しましたよ」
「そうですよ? 夜の離宮は姫様の宮とは方向が全然違いますから」
「ええ、分かりましたわ。皆心配をかけてごめんなさい」
当たり前の対応だ。彼女は侍女なのかメイドなのか分からない彼女たちを、一人ひとり見てそう約束をしていた。
「リンさん、大丈夫ですか? わたくしの侍女たちが突き飛ばしてしまって……」
そこで彼女は、ようやく俺に話しかけるチャンスを見つけたらしく、そう言って手を差し出してきてくれた。
しかし、俺は差し出された手を受け取らずに、自分だけで立ち上がった。
ルナちゃんはいい子なのだが、これは俺のちっぽけな譲れない部分で、俺は手を差し出されても自力で立ち上がりたいのだ。
それを侍女の皆様は、少年のプライドだと思ったらしい。
「男の子ですねえ」
「男の子らしいわ」
「側妃様の使用人でも、少年は少年ですね」
全員性別勘違いしてた。そんなにも俺は男の子に見えるのか。
ディ・ケーニさんに、俺の見た目に対する正当な評価をいただきたいものだ。
彼女は、外見に関しては絶対に嘘は言わない。カルミナ・スペクルの常識かもしれないが。
「心配してくださってありがとうございます、ルナ姫様。では私はこれで失礼いたします」
「ええ。またね、リンさん」
立ち上がった俺は日本式に頭を下げて、意識的に大股で歩き去った。
イメージは颯爽とした少年って感じだ。もともと俺はがさつだから、下手するとチンピラみたいな歩き方になってしまうので、ちょっとばっかり意識した。
側妃様の使用人がチンピラとか、俺がいらない苦労をする気がしたためである。




