EP 9
私はもう、あなたの所有物じゃない。氷の宰相の怒りと、私の選んだ居場所
サウナ上がりの甘く穏やかだった空気は、一通の赤い封筒によって完全に凍りついた。
私の膝から身を起こしたユリウスは、私が震える手で握りしめている便箋をスッと抜き取った。そして、そこに書かれた文字を一読するなり、周囲の気温が数度下がったかのような冷酷な覇気を放った。
『――貴殿がポポロ村で開発した新特産品は、我が管轄の指導による成果である。直ちにその全権利を中央市役所に譲渡し、帝都へ帰還して俺の補佐業務を再開せよ。
これは正式な業務命令である。背いた場合、村への助成金を打ち切るものとする』
「……なるほど。無能はどこまでいっても無能ということか。いや、底が抜けている分、始末に負えないな」
ユリウスの声は、絶対零度のように冷たかった。
普段の『氷の宰相』としての威圧感が、出張所の庭を支配する。
一方の私は、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っていた。
カーライルからの命令書。あの傲慢な文字を見ただけで、深夜のファミレス『ルナキン』で睡眠を削り、彼のために書類の山と格闘していた日々の記憶がフラッシュバックする。
『君は地味で華がない』『俺の指導のおかげでお前は成長できた』
彼の言葉が、呪いのように耳の奥で反響した。
「……どうしよう。村への助成金を打ち切られたら、せっかく直った橋の維持費も出せなくなる。それに、特産品の権利を渡さなかったら、村長さんたちに迷惑が……っ」
震える両手で顔を覆う。
やっぱり、私みたいな人間は、どこまで逃げてもあの男の『所有物』として搾取され続ける運命なのだろうか。
「織姫」
その時。
私の震える両手を、大きくて温かい手が優しく包み込んだ。
「顔を上げてくれ」
顔を上げると、そこには氷のような冷たさを一切消し去った、ただひたすらに優しく、私を案じるユリウスの瞳があった。
「こんな紙切れの脅しに、君が怯える必要はない。……だが、一つだけ聞かせてほしい」
ユリウスは私の目を真っ直ぐに見つめ、静かに問いかけた。
「君は、どうしたい?」
「え……?」
「もし君が、彼を恐れて帝都に戻るというのなら、私は止められない。だが、もし君が『嫌だ』と言うのなら。……私は帝国宰相の全権力を行使してでも、君の意思と、この村を守り抜く。だから、君の本当の気持ちを聞かせてくれ」
ユリウスは、私に決断を委ねてくれた。
彼なら、宰相の権力でこんな命令書など一瞬で握り潰せるはずだ。でも、彼はそうしなかった。私が自分自身の心で、過去のトラウマに立ち向かい、決別するのを待ってくれているのだ。
私は、出張所の庭を見渡した。
スアイが作ってくれたテントサウナ。みんなで笑い合いながら食べたお鍋。村人たちが「ありがとう」と言ってくれた、新しく架かった橋。
ここには、私が【善行通販】と自分の足で築き上げた、私の本当の居場所がある。
――私はもう、あの男の便利な道具じゃない。
「……戻りません」
気がつけば、私の震えはピタリと止まっていた。
「私は、帝都には戻りません。カーライル様にも、特産品の権利は絶対に渡さない。……私の居場所は、ここです」
はっきりと、声に出して宣言した。
その瞬間、私の中にずっとこびりついていた『限界社畜』としての鎖が、音を立てて砕け散った気がした。
私の答えを聞いたユリウスは、ふわりと、心底愛おしそうな笑みを浮かべた。
「ああ。よく言った、私の誇り高き人」
彼は私の手を持ち上げ、その甲にそっと唇を落とした。
「君の意思は確認した。ならば、あとは私の仕事だ」
ユリウスは立ち上がり、手にしていた命令書を冷たい視線で見下ろした。
「この手紙には、中央市役所の公印が押されている。つまり、カーライルは個人的な嫌がらせではなく、公的な権力を『私怨』と『利権の横領』のために不正利用したという明確な証拠だ。助成金の打ち切りをチラつかせた恐喝未遂も成立する」
ユリウスの口元に、冷酷で完璧な『氷の宰相』の笑みが戻る。
「……徹底的にやろう。あの男が二度と立ち上がれないよう、社会的な息の根を完全に止めてやる」
『ピコン! ピコン! ピコン!』
その時、脳内のゴッドチューブが凄まじい勢いで通知を鳴らした。
『神界リスナー【永遠の17歳女神L】からのメッセージ:
「よぉぉぉぉし!! よく言った織姫!! あんたはもう誰の所有物でもない!! スパチャ限度額いくぜぇぇ!」』
『神界リスナー【規律の天使V】からのメッセージ:
「素晴らしい自立です! 宰相閣下のサポートも完璧……! これぞ真のパートナー!」』
『神界リスナー【炎上神W】からのメッセージ:
「チッ、そのまま村が燃やされる悲劇展開が見たかったが……まあいい。圧倒的権力でクソ上司をすり潰すざまぁ展開も、PVは稼げるからな」』
『神界リスナー【永遠の17歳女神L】からのメッセージ:
「ワイズてめぇ黙ってろ! 織姫、徹底的に叩き潰してやれ!!」』
神様たちも、私の決断を全力で後押ししてくれている。
私は大きく深呼吸をして、ユリウスに頷いた。
「おそらく、カーライルはこの命令書を送った後、直接この村に乗り込んでくるはずだ。自分の傲慢な要求が通ると疑っていない男だからな」
ユリウスが推測を口にする。
「はい。私もそう思います。……でも、不思議と怖くありません」
「私がついているからか?」
「それも、もちろんありますけど……」
「ふぅーっ! 三セット目、極上に整いましたわー!」
ポンチョ姿のスアイが、テントサウナから湯気を立てながら上機嫌で出てきた。彼女は手元のタオルの代わりに、なぜか愛用の片手斧と鎖を持っている。
「あら? 宰相閣下と織姫、なんだか物騒な空気を纏っておりますわね。……ひょっとして、ポポロ村の平和を乱すゴミが、回収されにやってくるんですの?」
スアイが目を輝かせ、斧をクルクルと回す。
「……まあ、そんなところです。スアイ、手伝ってくれますか?」
「愚問ですわね! マブダチの庭を荒らす輩は、この私が完璧に『解体(DIY)』して差し上げますわ!」
最強の元魔将軍が、頼もしい笑みを浮かべている。
私には、こんなにも心強い味方がいるのだ。
「カーライルがここへ来るまでに、私は帝都に裏で手を回し、奴の過去の予算横領などの証拠を完全に固めておこう。包囲網は私が完成させる」
ユリウスは魔導通信石を取り出しながら、力強く私に告げた。
「織姫。君は彼が来たら、堂々と、君自身の手で作った『実績』を突きつければいい。……君のこれまでの『善行』が、どれほど価値のあるものだったか、全世界に見せつけてやろう」
嵐の前の静けさ。
だが、私の中に恐怖は微塵もなかった。
むしろ、早く決着をつけたいという静かな闘志が燃え上がっている。
奪われるだけの人生は、もう終わりだ。
私は、私と、私の大切な人たちを守るために、あの手柄泥棒を完璧に迎え撃つ準備を始めた。
読んでいただきありがとうございます。
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