EP 9
氷の宰相、降臨 ~ファクト(事実)と権力による完全なる社会抹殺。サウナの準備は万端です~
広場を支配していた喧騒が、嘘のように消え失せた。
風の音さえも凍りついたかのような静寂の中、漆黒の外套を翻して歩みを進める一人の男。
ルナミス帝国・内務大臣兼帝国宰相、ユリウス・フォン・グランツ公爵。
帝国の実質的な最高権力者である彼が、護衛も連れず、単騎でこの辺境のポポロ村に現れたという事実が、その場にいる全員の脳の処理能力を完全に超えさせていた。
「ゆ、ユリウス閣下……ッ! なぜ、このような辺境のドブ村に……っ!?」
特別査察官バシリウスの顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
脂汗が滝のように流れ落ち、肥え太った膝がガクガクと見苦しく震え始めた。
剣を抜いていた護衛の兵士たちに至っては、ユリウスの冷徹な一瞥を浴びた瞬間、「ヒッ」と短い悲鳴を上げて武器を放り出し、その場に平伏してしまった。
ユリウスはバシリウスの狼狽など視界の端にも入れず、ただ真っ直ぐに、織姫の元へと歩み寄った。
「……怪我はないか、織姫」
その声は、先ほどまでの周囲を凍りつかせるような冷気とは打って変わり、酷く穏やかで、痛いほどの気遣いに満ちていた。
「はい、ユリウス様。彼らが剣を抜こうとしたところに、ちょうどあなたが来てくださいましたから」
「そうか。……よく、一人で持ち堪えたな。見事な論戦だった」
織姫が手にした『帝国法規』と『受理済みの申請書』を一瞥し、ユリウスはフッと薄く微笑んだ。
彼には分かっていた。自分が到着するのがあと数秒遅れていても、隣で斧を構えるスアイと、足に雷を纏うキャルルが、兵士たちを一瞬で制圧していただろうということを。
だが、織姫は暴力で彼らをねじ伏せることを良しとせず、法と論理という『文官としての最大の武器』で村を守り抜こうとしたのだ。その矜持が、ユリウスには何よりも眩しく、愛おしかった。
「な、内務大臣閣下! お待ちください、これは誤解です!」
バシリウスが、這うようにしてユリウスの足元にすがりつこうとした。
「こ、この天原という女が、村人と結託して帝都への上納品を横領していたのです! 私はそれを正し、帝都の利益を守るために、正当な査察を――」
「――黙れ」
絶対零度の声が、広場に響き渡る。
ユリウスは冷酷なサファイアの瞳で、足元のバシリウスを見下ろした。
「正当な査察だと? 貴様が『特別徴収令状』と称して振りかざしていたその紙切れは、すでに無効化された旧フォーマットのものだ。法規の改定すら追えていない無能が、どの口で帝都の利益を語る」
「ひっ……! そ、それは部下の手違いで――」
「見苦しい言い訳は不要だ。私は『ファクト(事実)』と『データ』しか信じない」
ユリウスは懐から、一冊の黒い魔導手帳を取り出した。
それは、帝国全土の金の流れを掌握する内務省トップの、ブラックボックスとも言える極秘帳簿である。
「バシリウス特別査察官。貴様が先月、帝都第三区画の再開発予算から金貨三万枚を横領し、ダミーの商業ギルドを経由して自らの個人口座に不正送金した証拠は、既に全て裏が取れている。さらに、今回のように正規の軍の部隊を『私的な徴収』のために無断で動かしたことは、帝国軍法における第一級の反逆罪に該当する」
「なっ……ば、馬鹿な! あの口座の偽装は完璧だったはず――っ!」
「君のような浅知恵で、内務省の監査網を誤魔化せると思ったか。……貴様の派閥の連中も、今朝方、一斉に拘束を完了した。貴様で最後だ」
それは、完全なる『社会的抹殺』の宣告だった。
織姫が法と論理で盾となり、ユリウスが権力と圧倒的な証拠で首を刎ねる。
完璧なまでの連携の前に、バシリウスは完全に心をへし折られ、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「そこの兵士ども」
ユリウスが、平伏して震えている護衛の兵士たちに冷たく命じる。
「貴様らが無断で部隊を離れた罪は、この横領犯を帝都の地下牢まで連行し、憲兵隊に引き渡すことで不問にしてやる。……二度目はないぞ」
「は、ははぁっ!! ありがたき幸せに存じます!!」
兵士たちは蜘蛛の子を散らすように起き上がり、バシリウスを両脇から乱暴に担ぎ上げると、逃げるように馬車へと乗り込み、ポポロ村から走り去っていった。
後に残されたのは、あっけにとられる村人たちと、静寂だけである。
「……やれやれ。遅いですわよ、宰相殿」
不意に、スアイがタローマン製の斧を肩に担ぎながら、呆れたような、しかし親しげな笑みを浮かべてユリウスに歩み寄った。
「もう少し遅ければ、あの太った豚は私の氷結魔法で『永久凍土のオブジェ』になっていましたわ。おかげで良い運動の機会を逃しましたわ」
「すまないな、スアイ。だが、あのようなゴミの血で、君のサウナ用のヒノキ材を汚すわけにはいかないだろう? ……ところで、サウナの進捗はどうだ?」
「ふふっ、完璧ですわ。織姫が取り寄せた工具のおかげで、最高の仕上がりですのよ。後で一番風呂――いえ、一番サウナをご案内しますわ」
「それはありがたい。帝都での激務の垢を、すべて削ぎ落とさせてもらおう」
帝国最高の権力者と、元魔皇国の最高幹部。
世界が違えば殺し合っていたかもしれない二人が、まるで古くからの戦友のように、サウナ談義で軽口を叩き合っている。
その光景に、織姫はクスッと笑いをこぼした。
「あ、あの……っ!」
そこへ、キャルルがウサギ耳をピンと立てて、少し緊張した面持ちでユリウスの前に進み出た。
「私は、ポポロ村・第4代村長のキャルル・ムーンハートです! この度は、織姫お姉様と村の危機を救っていただき、ありがとうございました!」
深々と頭を下げるキャルル。
ユリウスは、彼女の顔と、その足元にある安全靴を静かに見つめ、やがて威儀を正して頷いた。
「レオンハートの第三姫君とお見受けする。君の卓越した武と、村への献身は、内務省にも届いている。この村の犯罪率が完全にゼロに抑えられているのは、君の夜のパトロールのおかげだ。……素晴らしい統治だ。村長として、これからも織姫を支えてやってほしい」
「っ……! は、はいっ! お任せください!」
帝国の宰相からの、一人の為政者としての正当な敬意と賛辞。
キャルルは顔を真っ赤にして嬉しそうに耳をバタバタと震わせ、スアイの背中の後ろに隠れるようにして照れ隠しをした。
「さて」
ユリウスは、ぐるりと村の広場を見渡した。
そこには、バシリウスの襲撃によって中断されてしまった、豊かな収穫祭の料理と、まだ状況が呑み込めずに立ち尽くしている村人たちの姿がある。
「私のせいで、せっかくの宴に水を差してしまったな。……今日のところは、私はただの一人の『旅人』だ。村の皆の邪魔をするつもりはない。どうか、宴を続けてくれ」
「お、おおおっ! 宰相閣下、万歳!」
「やっぱり織姫ちゃんには、すげえ旦那様がついてたんだな!」
「ばっ、旦那様だなんて、違いますからね!?」
村人たちの歓声と冷やかしに、織姫が顔を真っ赤にして慌てふためく。
ユリウスは「旦那様」という響きに内心で強烈な喜びを感じつつも、表面上はあくまで涼しい顔を保っていた。
「さあ、お姉様、ユリウス様! お料理が冷めないうちに、いっぱい食べてくださいね!」
「太陽芋のじゃがバター、追加で焼きますわよ!」
キャルルとスアイに背中を押され、織姫とユリウスはテーブルへと向かう。
悪意は去り、正当な法と権力によって村は守られた。
夕暮れが近づくポポロ村の広場には、再び美味しい匂いと、心からの笑い声が溢れ返っていた。
しかし、どんちゃん騒ぎの中で、ユリウスの視線は常に、隣で村人たちと笑い合う織姫に向けられていた。
彼女の笑顔は、帝都の市役所で埃を被っていた頃とは比べ物にならないほど、生き生きと輝いている。
(……この村は、彼女の『居場所』だ。だが……)
祭りの熱気が少しずつ落ち着き、星が瞬き始めた頃。
ユリウスは、誰にも気付かれないように、静かな決意を胸に秘めていた。
――そろそろ、このどうしようもなく惹かれる感情を、言葉にして伝える時が来たのだと。
読んでいただきありがとうございます。
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