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EP 10

星空の下のポポロ・コーヒー ~書類抜きの理由を、どうか君に伝えたくて~

 奇跡の大豊作を祝う収穫祭の熱狂と、特別査察官の襲撃という嵐のような一日が終わり、ポポロ村に静かな夜が訪れていた。

 村人たちはそれぞれの家路につき、出張所の奥の部屋では、宴ではしゃぎすぎたキャルルが、特大の人参抱き枕に抱きついてスヤスヤと規則的な寝息を立てている。スアイはといえば、裏山の魔導サウナの最終調整と称して、一人で夜風と星空の「整い」を満喫しに行っていた。

 虫の音が心地よく響く、出張所の縁側。

 織姫は一人、夜空に瞬く無数の星を見上げながら、ほうっと長い息を吐き出した。

(……疲れました。でも、すごく、いい一日だったな)

 帝都の中央市役所で限界社畜をしていた頃の疲労とは、全く違う。

 誰かの役に立ち、感謝され、自分の足で自分の居場所を守り抜いたという、確かな達成感に包まれた心地よい疲労だった。

 冷たい秋の夜風が、火照った頬を撫でていく。

「――湯冷めするぞ、織姫」

 不意に、背後から静かな声がかけられた。

 振り返ると、そこには漆黒の外套を脱ぎ、ラフな白いシャツにスラックスという、帝都では絶対に見せない寛いだ姿のユリウスが立っていた。

 その両手には、湯気を立てるマグカップが二つ握られている。

「ユリウス様……。そのコーヒー、もしかしてご自分で?」

「あぁ。いつも君に淹れてもらってばかりだからな。見よう見まねだが、私なりに淹れてみた」

 ユリウスは織姫の隣に腰を下ろすと、マグカップの一つをそっと彼女に手渡した。

 受け取ったカップからは、ポポロ・コーヒー特有の深い焙煎の香りが漂ってくる。だが、いつも織姫が淹れるものより、少しだけお湯の量が多いのか、香りが不器用だ。

 一口飲んでみる。

 少しだけ苦味が強くて、温度も熱すぎる。けれど。

「……美味しいです。すごく、温まります」

 織姫がふわりと微笑むと、ユリウスは少しだけ気まずそうに、けれど安心したようにサファイアの瞳を細めた。

「それは良かった。君の淹れるコーヒーの足元にも及ばないが、今の私にはこれが限界だ」

「ふふっ。帝国の政務を完璧にこなす『氷の宰相』様にも、苦手なものがあったんですね」

「私とて完璧な人間ではない。……君がいなければ、今日の村の危機も、危うく間に合わないところだった」

 ユリウスはコーヒーを一口啜り、星空を見上げた。

「今日ほど、君の仕事ぶりに驚かされたことはない。あのバシリウスの襲撃に対し、武力ではなく、完璧な法の抜け穴と自治申請書で村を守り抜くとは。……君が帝都の地下室で流した血の滲むような努力は、決して無駄ではなかったのだな」

「……はい。あの頃は、ただただ理不尽で辛いだけでしたけれど。でも、あの時に必死で覚えた法規があったから、今日、大切な人たちを守ることができました」

 織姫はマグカップを両手で包み込みながら、ユリウスの横顔を見つめた。

「それに、私が強気に出られたのは……ユリウス様が、必ず来てくれると信じていたからです。私が法で盾を作れば、あなたが必ず、悪意を断ち切る剣になってくれると」

「…………っ」

 ユリウスの肩が、微かに跳ねた。

 彼のような冷徹な合理主義者にとって、「無条件に信じられている」という事実は、どんな甘い言葉よりも深く胸を打つものだった。

 静かな沈黙が降りる。

 風が吹き抜け、木々の葉がざわめく音だけが二人の間を通り過ぎていった。

 やがて、ユリウスが手元のマグカップを縁側にコトリと置いた。

「……君の事務処理能力、そして危機的状況における判断力。内務省のトップとして、君のような有能な人材は帝国にとってかけがえのない財産だ。絶対に手放したくないと、心からそう思う」

 ユリウスの言葉に、織姫の胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。

 嬉しい。上司として、それ以上ない最高の褒め言葉だ。

 けれど、心のどこかで『ただの有能な部下』として見られていることに、ほんのわずかな寂しさを感じてしまう自分がいた。

「ありがとうございます。私も、このポポロ村の出張所職員として、これからも――」

「だが」

 ユリウスの低く、熱を帯びた声が、織姫の言葉を遮った。

 彼がゆっくりと顔を向け、織姫を真正面から見つめる。

 月明かりに照らされたサファイアの瞳には、いつもの『氷の宰相』の冷たさは微塵もない。そこにあるのは、一人の男としての、ひどく不器用で、隠しきれない熱情だった。

「私が週末のたびに、片道数時間をかけてこの辺境の村に足を運ぶのは……優秀な部下の保護や、視察のためだけではない。そんなものは、ただの建前だ」

「え……?」

「今日、君が査察官に囲まれていると報告を受けた時、私は帝都の政務をすべて放り出して馬に飛び乗った。合理的な判断など、そこには欠片もなかった。……君を失うかもしれないという恐怖で、心臓が凍りつくかと思った」

 ユリウスは静かに手を伸ばし、マグカップを握る織姫の手に、自分の大きな手をそっと重ねた。

「ひゃっ……」

 ビクッと肩を震わせる織姫。

 マグカップの熱よりも、触れ合ったユリウスの手のひらの熱の方が、遥かに熱く感じられた。

 剣ダコのある、ごつごつとした男の手。それが、まるで壊れ物を扱うように、ひどく優しく織姫の指先を包み込んでいる。

「ユ、ユリウス……様……?」

「君の書類はいつも完璧だ。論理も、ファクトも、一切の隙がない。だが……私が君の隣に来る理由だけは、そろそろ『書類抜き』で理解してほしい」

 至近距離で囁かれる、甘く、低い声。

 重なった手から伝わる体温と、彼から香る微かなポポロシガーの残り香に、織姫の頭の中は真っ白になった。

 ――トクンッ! ドクンッ!

 自分の胸の奥で、かつてないほど激しい心音が鳴り響く。

 限界社畜としてすり減っていた頃には、絶対に鳴ることのなかった、恋という名の早鐘。

(ど、どうしよう……! こんなに心臓が鳴ってたら、奥の部屋で寝てるキャルルさんに、絶対に聞こえちゃう……っ!)

 『お姉様! 心音、マッハ1を超えてますよ!』というキャルルのからかう声が脳裏をよぎり、織姫の顔は耳の先まで一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。

 恥ずかしさで俯く織姫。しかし、重ねられた彼の手を振り払うことだけは、どうしてもできなかった。

「……ずるいです、ユリウス様。そんなこと言われたら、私、明日の報告書に……なんて書けばいいか、分からなくなっちゃいます……」

「ははっ……。そうだな。君の完璧な書類に、私のこの感情を書き込むフォーマットはないだろう」

 ユリウスは、重ねた手に少しだけ力を込め、織姫の赤い顔を見て、心底愛おしそうに、そして嬉しそうに目を細めた。

 その笑顔は、帝都の誰も見たことのない、彼が彼女にだけ見せる『氷解』の瞬間だった。

 星空の下、ポポロ・コーヒーの香りに包まれた縁側。

 二人の間に言葉はもう必要なかった。ただ、重なり合った手から伝わる確かな熱だけが、少しずつ、けれど確実に、二人の距離を『友達以上』へと塗り替えていく。

 辺境の村に左遷された元限界社畜は、最強の仲間たちと、不器用で過保護な宰相様に囲まれながら。

 最高の仲間たちと共に、明日もまた、この愛すべきポポロ村で波乱万丈なスローライフを切り拓いていくのだ。

 【第2章・完】

読んでいただきありがとうございます。

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