EP 5
村を守る雷神の足跡 ~完璧なデータは嘘をつかない。一方その頃、帝都では愚か者が搾取の算段を立てていた~
チュン、チュン、と小鳥のさえずりがポポロ村の朝を告げる。
出張所の奥の部屋で、キャルルは眩しい朝日に目を覚ました。
「ん……むにゃ……。ニンジンさん、おはよう……って、あれ?」
抱きしめていた特大の「人間(兎)工学ビーズクッション」から顔を上げ、キャルルは自分の両手を見つめた。
震えていない。血の匂いもしない。
慌てて周囲を見渡すが、壁に穴は開いておらず、家具も無傷だ。窓の外からは、村人たちが平和に畑仕事に向かう足音と、穏やかな笑い声が聞こえてくる。
「私、暴走……しなかった? 満月の夜だったのに、誰も傷つけずに、朝を……?」
月兎族として生まれてから、こんなことは初めてだった。
信じられない思いでベッドから跳ね起き、リビングへと飛び出す。
そこには、地球のフライパンで目玉焼きと分厚いシープピッグのベーコンを焼きながら、ふわりと黄金色の『陽薬茶』の香りを漂わせている織姫の姿があった。
昨夜ユリウスから贈られた特級茶葉のおかげで、織姫の肌ツヤはかつてないほど絶好調である。
「おはようございます、キャルルさん。とても良い寝顔でしたよ」
「お姉様……っ!」
キャルルは織姫の腰に抱きつき、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「私、壊しませんでした! 何も壊してない! 誰の悲鳴も聞こえなかった! お姉様のおかげです、あの不思議な香りとニンジンさんのおかげで……っ!」
「ふふっ、良かったです。でも、それは私がしたことの半分。残りの半分は、キャルルさん自身がこの村を愛し、守ろうとする強い心があったからですよ」
織姫は火を止め、キャルルの頭を優しく撫でた。
「さあ、顔を洗ってきてください。朝ご飯を食べたら、村の広場に行きますよ。あなたに見せたいものがあるんです」
* * *
朝食後、ポポロ村の広場には、多くの村人たちが集まっていた。
農家のおじさんたち、ルナイーツ配達員として待機中の始祖竜クロノ(ロード)、そしてなぜか朝からポポロシガーを吹かしている突然変異体のネギポーン・ネギオの姿もある。
広場の中央に立った織姫は、スアイがタローマンの木材で作ってくれた即席の黒板の前に立ち、チョークを構えた。
「えー、本日は皆様お集まりいただきありがとうございます。出張所の天原です。本日は、キャルル村長が赴任してからの『ポポロ村・治安維持と損害率の推移』について、ご報告させていただきます」
限界社畜時代に培った、完璧なプレゼンテーションの声調。
織姫が黒板にスラスラと美しいグラフを描き出すと、村人たちは「おおっ」とどよめいた。
「えっ? お姉様、なにを……?」
キャルルが戸惑う中、織姫は手にした指示棒でグラフを指し示した。
「結論から申し上げますと、キャルル村長が赴任してからの約二週間、当ポポロ村における『魔獣による農作物被害』、および『街道での盗賊・死蟲機との遭遇率』は――完全に【0%】を維持しています」
「ゼロ……!?」
「はい。キャルルさんが毎晩、あのタローマン製の特注安全靴を履き、村の境界線を文字通りマッハの速度でパトロールしてくれているからです。彼女の足音――いえ、雷鳴を聞いただけで、周囲の魔獣は恐れをなして逃げ出しています」
織姫は『ファクトフルネス』の精神に則り、事実だけを並べた。
精神論ではない。彼女がどれだけ村のために動き、それがどれほどの利益(被害額の大幅な減少)を村にもたらしているかという、絶対的なデータである。
「キャルルさんは、ご自身の力が強すぎることを気にしていました。ですが、その強大な力は、決して『壊すためだけの道具』ではありません。このポポロ村の平和な日常を根底から支える、強固な盾なのです」
織姫が微笑みかけると、村人たちから割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
「すげえや村長! 俺たちの畑が荒らされないのは、あんたのおかげだったのか!」
「いつも夜遅くまで見回りしてくれて、ありがとうねぇ」
「ワテも夜間の配達が安全になって大助かりや! さすがは雷神のウサギちゃんやで!」
次々と投げかけられる、温かい感謝の言葉。
同情でも、恐れでもなく、彼女の『仕事』に対する正当な評価。
キャルルは顔を真っ赤にして、ウサギ耳をヘリコプターのようにバタバタと激しく羽ばたかせた。
「あ、あわわわっ! わ、私なんて、そんな、ただ走ってるだけで……っ! うぅ、みなさん、ありがとうございますぅ……っ!」
両手で顔を覆い、しゃがみこんで照れまくるキャルル。
そのあまりの可愛らしさと健気さに、村の男たち(およびゴッドチューブの視聴者たち)は完全にノックアウトされた。
「……ふん。論破ゲームをするまでもない、確たる事実やな。ええ仕事ぶりやで、小娘」
毒舌のネギオでさえ、満足げにネギを揺らしている。
スアイは織姫の隣に立ち、腕を組みながらふっと笑った。
「やりましたわね、織姫。これで彼女も、名実ともにポポロ村の立派な長ですわ」
「ええ。限界社畜だった私には分かります。……正当な評価と感謝の言葉こそが、人を一番輝かせる魔法なんですよ」
秋の高く澄んだ空の下、ポポロ村は確かな絆と笑顔で包まれていた。
* * *
――しかし。
光あるところに影が落ちるように、彼らの平穏を妬み、搾取しようとする悪意が、遠く離れた帝都で蠢き始めていた。
ルナミス帝国、帝都・中央市役所。
分厚い絨毯が敷かれた豪奢な執務室で、一人の男が魔導インクで書かれた報告書を睨みつけていた。
男の名は、バシリウス。織姫の元婚約者の派閥に属する、特権階級の横柄な『特別査察官』である。
「……馬鹿な。なんだこの数字は」
バシリウスは、豚のように太った指で報告書の数字をなぞった。
「あの世界の吹き溜まりであるポポロ村が、ここ数週間で異常な収益を上げているだと? 太陽芋に月見大根、さらには『ポポロ・コーヒー』の最高級豆の出荷量が倍増している。……利益率で言えば、帝都の商業区すら凌駕しているではないか!」
報告書には、村の農作物の品質が劇的に向上していること、そしてそれを先導しているのが『出張所の天原織姫』であることが記されていた。
「天原……あの、地味で面白みのない小娘か。婚約破棄されて辺境に左遷されたというのに、どうやら運良く現地の特産品バブルに当たったようだな」
バシリウスの口元が、醜悪な三日月の形に歪む。
彼らは知らないのだ。そのバブルが、織姫の『善行通販』による地球のチート農業資材と、彼女自身の血の滲むような努力、そして優秀な仲間たちの協力によってもたらされたものであるという事実を。
彼らの腐った脳内にあるのは、ただ一つ。「弱い者から巻き上げる」という浅ましい搾取の論理だけだった。
「辺境の村が、身の丈に合わない富を持つなど許されることではない。帝都の近代化政策のため――いや、我が派閥の懐を潤すため、ポポロ村の利益は我々が『管理』してやるのが筋というものだ」
バシリウスは乱暴にベルを鳴らし、部下の兵士を呼びつけた。
「馬車の用意をしろ! それと、威圧用の護衛部隊もだ。ポポロ村へ査察に向かう!」
「はっ! しかし査察官殿、ポポロ村は内務省管轄の……ユリウス宰相閣下も目をかけておられるという噂が……」
「馬鹿め! あの氷の宰相が、あんな便所のような辺境の村を気にかけるはずがなかろう! 噂はただの噂だ! 現地の馬鹿どもと、あの無能な小娘に、帝都の権力の恐ろしさを叩き込んでやる!」
自らの破滅へと続く特急券を握りしめているとも知らず、愚かな査察官は高笑いを上げた。
彼らはまだ知らない。
ポポロ村には、絶対に喧嘩を売ってはいけない『最強の物理戦力』たちが揃っていることを。
そして、自分たちが「無能」と見下している地味な女公務員が、彼ら自身の首を絞める【帝国法規】という名の刃を、すでに完璧に研ぎ澄ませているということを。




